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	<title>明治時代の有名な歴史上の人物まとめ｜歴史上の人物外伝</title>
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		<title>渋沢栄一は何した人？どんな人？功績を簡単にまとめてみました</title>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 15 Feb 2021 09:33:38 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[大正時代]]></category>
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					<description><![CDATA[今の日本には、多くの銀行や大企業が存在しています。 そしてそれらには、もちろん設立に携わった人物たちがいます。 その代表的な人物として挙げられるのが、渋沢栄一です。 彼が成し遂げたことは、現代の日本の資本主義制度を決定付]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>今の日本には、多くの銀行や大企業が存在しています。</p>
<p>そしてそれらには、もちろん設立に携わった人物たちがいます。</p>
<p>その代表的な人物として挙げられるのが、渋沢栄一です。</p>
<p>彼が成し遂げたことは、現代の日本の資本主義制度を決定付けさせる上で非常に重要なことでした。</p>
<p>では、いったい彼はどんなことをしたのでしょうか。</p>
<p>また、エピソードや逸話は？</p>
<p>簡単にまとめてみました！</p>
<h2>渋沢栄一のプロフィール</h2>
<img fetchpriority="high" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/08/shibusawaeichi_profile.jpg" alt="渋沢栄一 プロフィール" width="700" height="400" class="aligncenter size-full wp-image-1686" />
<p>渋沢栄一（しぶさわ えいいち）1840-1931。</p>
<p>日本初の実業家であり慈善家。</p>
<p>明治時代の様々な企業や経営に携わり、「日本資本主義の父」とも称される人物です。</p>
<h2>渋沢栄一は何をした人？</h2>
<img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/08/shibusawaeichi.jpg" alt="渋沢栄一" width="700" height="400" class="aligncenter size-full wp-image-1092" />
<h3>徳川慶喜の家臣・幕臣としての働き</h3>
<p>渋沢栄一が生まれたのは1840年の2月13日で、時代は江戸時代の末期です。</p>
<p>渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕の兼営に加え、米や麦の生産も行う豪農でした。</p>
<p>栄一は幼いころから父にしつけられ、7歳の時には既に四書五経や日本外史を学ぶほどでした。</p>
<p>また、同時に剣術も習い、北辰一刀流の千葉栄次郎の道場に入門して剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結びます。</p>
<p>その影響もあり尊王攘夷の思想に染まった彼は、1863年に幕府を倒すという計画を立てました。</p>
<p>しかし、周囲の説得により中止になります。</p>
<div class="m50"></div>
<p>その後、京都に出た栄一は、平岡円四郎の推挙によって<span class="marker">一橋（徳川）慶喜に仕える</span>ことになりました。</p>
<p>さらに1866年に<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawayoshinobu/">徳川慶喜</a>が将軍になると自身は幕臣となり、フランスやヨーロッパなどの諸外国へ渡航してその先進的な産業や軍備に感銘を受けます。</p>
<p>帰国後、慶喜から「これからはお前の道を行け」と言われ、フランスで学んだ株式会社制度の実践などのために、1869年に静岡で商法会所を設立。</p>
<p>その年の10月には、<a href="https://rekishigaiden.com/okuma/">大隈重信</a>からの説得により大蔵省に入省しました。</p>
<h3>実業家としての働き</h3>
<p>入省後に彼が行ったことは、度量衝の制定や国立銀行条例の制定などです。</p>
<p>1872年には紙幣寮の頭に就任しましたが、予算編成をめぐって<a href="https://rekishigaiden.com/okubotoshimichi/">大久保利通</a>や大隈重信と対立、1873年に井上薫と共に退官しました。</p>
<p>退官後すぐに、第一国立銀行の頭どりに就任、それ以降は実業界に身を置くことになります。</p>
<p>また、その他の多くの地方銀行設立も指導しました。</p>
<p>銀行以外にも、麒麟麦酒やサッポロビール、大日本精糖、帝国ホテルなど<span class="marker">数多くの企業の設立に携わり、その数はなんと500以上に及びます。</span></p>
<p>そのこともあり、1887年ころには渋沢を慕う経営者などが龍門社を組織し、昭和初期の会員数は数千名を超えました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
明治から昭和にかけて日本の資本主義の発展を支えた偉大な人物だと言えるでしょう。
</div>
</div></div>
<h2>渋沢栄一のエピソード・逸話</h2>
<img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/08/shibusawaeichi_episode.jpg" alt="渋沢栄一 エピソード" width="700" height="400" class="aligncenter size-full wp-image-1688" />
<h3>社会貢献活動にも熱心だった</h3>
<p>渋沢栄一は、実業界の中でも最も社会活動に熱心でした。</p>
<p>例えば、養育院（現東京都健康長寿医療センター）の院長を務めたり、日本赤十字社などの設立に携わったりするなど、積極的に活動に参加しています。</p>
<p>関東大震災後の復興のために、大震災善後会副会長となって寄付金集めなどにも奔走しました。</p>
<p>また、当時はあまり重視されていなかった実業教育にも目を付け、大倉商業学校（現東京経済大学）の設立への協力や二松學舍（現二松學舍大学）の第3代舎長に就任などしました。</p>
<p>さらに、軽視されていた女子への教育の必要性も考え、<a href="https://rekishigaiden.com/itohirofumi/">伊藤博文</a>や<a href="https://rekishigaiden.com/katsukaishu/">勝海舟</a>らとともに女子教育奨励会を設立し、日本女子大学校や東京女学館の設立にも携わりました。</p>
<p>その他には、日本国際児童親善会を設立し外国の子供たちとの交流を深めたり、1931年に中国で起きた水害のために義援金を募るなど、民間外交にも関わっています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
銀行や企業だけに留まらず、日本の様々な事業に深く関わり、支えてくれていたのですね。
</div>
</div></div>
<h3>日本紙幣の肖像の候補として挙がったことがあった</h3>
<p>やはりこれだけ日本の経済に大きく貢献した人物ですから、紙幣の顔として選ばれても全く不思議ではありませんよね。</p>
<p>実は、渋沢栄一は紙幣の肖像の候補者として、これまでに何度も選ばれています。</p>
<p>1963年には最終候補にまで挙がりました。</p>
<p>しかし、そこまで残っておきながらなぜ選ばれなかったのでしょうか。</p>
<p>その理由は、なんと髭がなかったからなのです。</p>
<p>当時は偽造防止のために、ひげのある人物が紙幣の顔として使われていました。</p>
<p>渋沢栄一は、老いても若々しさを感じさせる立派な顔つきをしてはいますが、髭は生えていませんでした。</p>
<p>だから結局選ばれることがなかったのですね。</p>
<p>しかし、現代では偽造防止の技術も向上し、<a href="https://rekishigaiden.com/higuchiichiyo/">樋口一葉</a>にも代表されるように髭のない女性も使えるようになりました。</p>
<p>そのこともあり、2024年度上半期に執行予定の紙幣改定によって、ようやく<span class="marker">渋沢栄一の顔が一万円札に使われることが決まりました。</span></p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
髭がないというだけで亡くなってから100年近く後にようやく日本の顔となるのは、なんとも意外な話ですね(笑)
</div>
</div></div>
<h2>4行でわかる渋沢栄一のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>徳川慶喜の家臣・幕臣となり、諸外国を巡って知識を身につけ、日本の経済発展に役立てた</li>
<li>非常に数多くの銀行や企業の設立に関わり、「日本資本主義の父」と呼ばれ敬われた</li>
<li>社会貢献活動にも積極的に参加し、時には外国との交流にも携わるなど、実業家以外の面でも多くの顔を持っていた</li>
<li>日本紙幣には、髭がないという理由で採用されていなかった</li>
</ul>
</div>
<p>現代にもその名を刻む数多くの企業、その大本の設立を支えたのが渋沢栄一です。</p>
<p>もし彼がいなければ、日本の経済発展は数十年は遅れていたかもしれません。</p>
<p>また、実業家としてだけでなく、様々な社会活動にも携わり、活動を支援しました。</p>
<p>今の日本に残るほとんどの場所で、渋沢栄一の名を見ることができるでしょう。</p>
<p>日本を代表する人物として挙げるべき、立派な偉人ですね！</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>井上馨は何した人？どんな人？渋沢栄一・伊藤博文との関係は？</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/inouekaoru/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 28 Nov 2020 02:33:27 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
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					<description><![CDATA[井上馨は、伊藤博文や山縣有朋と並び「長州三尊」と呼ばれた人です。 では井上馨はどのような人だったのでしょうか。 ここでは、その井上馨についてその生涯を見ていきましょう。 井上馨のプロフィール 生誕 1836年1月16日 ]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>井上馨は、伊藤博文や山縣有朋と並び「長州三尊」と呼ばれた人です。</p>
<p>では井上馨はどのような人だったのでしょうか。</p>
<p>ここでは、その井上馨についてその生涯を見ていきましょう。</p>
<h2>井上馨のプロフィール</h2>
<table class="cps-table03">
<tbody>
<tr>
<th>
				生誕
			</th>
<td>
				1836年1月16日
			</td>
</tr>
<tr>
<th>
				生誕地
			</th>
<td>
				周防国吉敷郡湯田村<br />
（現在の山口県湯田温泉）
			</td>
</tr>
<tr>
<th>
				名前
			</th>
<td>
				井上馨（いのうえ かおる）<br />
幼名：勇吉<br />
通称：聞多（ぶんた/もんた）<br />
諱：惟精（これきよ）
			</td>
</tr>
<tr>
<th>
				死没
			</th>
<td>
				1915年9月1日（79歳没）
			</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h2>井上馨は何をした人？</h2>
<h3>生い立ちから江戸へ</h3>
<p>井上馨は長州藩士の父井上光亨と房子の次男として生まれました。</p>
<p>井上家は清和源氏の一家系河内源氏の流れをくむ安芸国人毛利氏の家臣の出自で、先祖は毛利元就の宿老である井上就在（なりあり）でした。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">かなりのお家柄だったのですね。</div>
</div></div>
<p>馨は兄とともに1851年に藩校である明倫館に入学します。</p>
<p>1855年長州藩士志道氏（しじし）の養子となり一時期は、志道聞多（しじ もんた）とも名乗っていました。</p>
<p>この年毛利敬親の江戸参勤交代に従い江戸へ行った馨は、<a href="https://rekishigaiden.com/itohirofumi/">伊藤博文</a>と出会い蘭学を学びました。</p>
<p>伊藤博文は百姓の出身でしたが松下村塾で学び長崎にも遊学したことのある秀才でした。</p>
<p>1860年に起きた桜田門外の変で警護を固めるため一旦長州に戻りましたが、1862年には敬親の養子毛利定広の小姓役として再び江戸へ出ています。</p>
<h3>長州藩士時代</h3>
<p>江戸にいた間に馨は尊皇攘夷運動に共鳴するようになりました。</p>
<p>そして御楯組（みたてぐみ）の一員として<a href="https://rekishigaiden.com/takasugishinsaku/">高杉晋作</a>や久坂玄瑞、伊藤博文らとイギリス公使館焼き討ちに参加しています。</p>
<p>翌年馨は、伊藤博文・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助とともに長州五傑の一人としてイギリスへ密航しました。</p>
<p>そこで国力の違いを見せつけられた馨は開国論に転じ1864年の下関戦争では伊藤とともに急遽帰国して和平交渉をするのでした。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">下関戦争とは長州藩とアメリカ・イギリス・フランス・オランダの列強四国との間に起きた武力衝突です。</p>
<p>長州藩だけで勝てるはずがありませんね。</p></div>
</div></div>
<p>第一次長州征伐では武備恭順を主張したため椋梨藤太（むくなしとうた）の俗論党に襲われ馨は瀕死の重傷を負うことになりました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">これを袖解橋（そでときばし）の変と言います。</div>
</div></div>
<p>体が回復しても俗論党に謹慎処分にされていた馨は、高杉晋作らと長府功山寺で決起し、再び開国攘夷に統一することができました。</p>
<p>その後1865年下関を外国に向けて開港しようとしていたことが攘夷浪士に知られ、身の危険を感じた馨は別府に逃れ、別府温泉でしばらく身を隠しながら療養しました。</p>
<p>1866年<a href="https://rekishigaiden.com/sakamotoryoma/">坂本龍馬</a>の仲介で薩長同盟が結ばれ、第二次長州征伐では幕府軍に勝利しました。</p>
<p>そして1867年王政復古となるのでした。<br />
　　</p>
<h3>新政府での活躍</h3>
<p>王政復古後の馨は長崎に赴任し、長崎製鉄所御用掛となり、銃の制作事業や鉄橋事業に従事します。</p>
<p>1870年に亡くなった兄の次男を養子にし、<a href="https://rekishigaiden.com/okuma/">大隈重信</a>の仲介で新田俊純の娘・武子と結婚しています。</p>
<p>馨は<a href="https://rekishigaiden.com/kidotakayoshi/">木戸孝允</a>の引き立てで大蔵省に入り、<a href="https://rekishigaiden.com/okubotoshimichi/">大久保利通</a>や木戸が岩倉使節団で外遊している間の留守政府を預かり、「今清盛」と呼ばれるほどの権力を持ちました。</p>
<p>しかし1873年予算問題や尾去沢鉱山汚職事件を追及され辞職することになりました。</p>
<p>政界から一旦身を引いた馨は、三井組を背景に先収会社（現在の三井物産）を設立し、実業家となっていましたが、伊藤の強い要請がありまた政界へと戻るのでした。</p>
<p>1876年黒田清隆と朝鮮の交渉にあたり、日朝修好条規を結びました。</p>
<p>また妻子らとアメリカへ渡りイギリスやドイツ、フランスなどを外遊していましたが、その途中で木戸の死や、西南戦争の勃発、大久保の暗殺などが起こり日本が政情不安な状態にあることを知り、1878年急ぎ帰国しました。</p>
<p>大久保暗殺後に政権を握っていた伊藤のもとで、外務卿へ就任し、1881年大隈重信と伊藤が対立した時は大隈を政界から追放しました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">これを明治十四年の政変と言います。</div>
</div></div>
<p>その後も朝鮮との外交に対処し、三菱財閥系列の郵便汽船三菱会社に対抗して、三井など諸企業を集結させ共同運輸会社を設立しましたが、のちに両者を合併させ日本郵船を誕生させました。</p>
<p>1883年には鹿鳴館を建設し、諸外国との不平等条約改正交渉にあたっています。</p>
<p>また華族令で伯爵の地位ももらいました。</p>
<p>1885年伊藤が内閣総理大臣になると馨は外務大臣になります。</p>
<p>1888年伊藤が大日本帝国憲法を作成するため辞任し、次の黒田内閣になると馨は農商務大臣になりましたが、外務大臣についた大隈の条約改正案に不満を抱き、馨は病気を理由に閣議を欠席して、辞任しました。</p>
<p>1892年に伊藤が再度内閣を組織すると、馨は内務大臣に就任します。</p>
<p>しかし1894年に日清戦争が勃発し、<a href="https://rekishigaiden.com/mutsumunemitsu/">陸奥宗光</a>とともに伊藤を支え翌年の終戦まで公使を勤め上げました。</p>
<p>1898年の第3次伊藤内閣では大蔵大臣を務め、1900年の第4次伊藤内閣でも大蔵大臣が検討されましたが、渡辺国武が大蔵大臣を望んだため馨の就任にはなりませんでした。</p>
<h3>大命降下から最期まで</h3>
<p>1901年第4次伊藤内閣の崩壊後大命降下を受けて組閣作業に入った馨でしたが、大蔵大臣に<a href="https://rekishigaiden.com/shibusawaeichi/">渋沢栄一</a>を押したところ断られ、渋沢抜きでは政権運営に自信が持てないと考え大命を辞することを決めました。</p>
<p>1908年三井物産が建設した福岡県三池港の導水式に出席した馨は、尿毒症にかかり重篤に陥りましたがなんとか回復しました。</p>
<p>1911年位新資料編纂会総裁に任命されましたが、1913年脳溢血に倒れ左手に麻痺が残り外出は車椅子での生活となりました。</p>
<p>そして1915年長者荘で体調が悪化し、9月にこの世をさりました。<br />
79歳でした。</p>
<h2>井上馨のエピソード・逸話</h2>
<h3>母の力</h3>
<p>1864年椋梨藤太率いる俗論党に襲われたとき、馨は瀕死の重傷だったため兄の光遠にとどめを刺してほしいと介錯を頼みました。</p>
<p>しかし母の房子が血だらけの馨を抱きしめ、兄に介錯を思いとどめさせました。</p>
<p>この時の母の愛で馨は50針も縫うほどの傷から生還したのでした。</p>
<p>この事実を「母の力」と題して第5期国定国語教科書に載ったのでした。</p>
<h3>料理好き</h3>
<p>馨は意外にも自分で料理をして、客人をもてなすことが大好きでした。</p>
<p>必要な材料はどんなに遠くからでももってこさせ、必ず手に入れないと気が済まない人でした。</p>
<p>しかしその味は恐れられるほどのもので、尋常の味覚では味わえないものだったそうです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">この料理を出された人は気の毒ですね……。</div>
</div></div>
<h3>雷親父</h3>
<p>井上馨は短気な人で、すぐに人を怒鳴りつけることで「雷親父」と呼ばれていました。</p>
<p>しかし<a href="https://rekishigaiden.com/shibusawaeichi/">渋沢栄一</a>には一目置いており、彼がそばにいる時は語気を荒げることはなかったそうです。</p>
<p>渋沢の周りにいれば雷が落ちないということで、渋沢は「避雷針」とあだ名をつけられました。</p>
<p>ただ渋沢は本当の「避雷針」は馨であったと言います。</p>
<p>どんな攻撃も馨が体を張って受け止めてくれたからこそ自分はやりたいように仕事ができたのだと語っています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">この二人は特別な信頼という感情でつながっていたのですね。</div>
</div></div>
<h2>3行でわかる井上馨のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>伊藤博文の組閣に協力した</li>
<li>長州三尊の一人だった</li>
<li>先祖は毛利元就に仕えていた家柄だった</li>
</ul>
</div>
<p>病気の身体をおしても最後まで政治家であり続けた井上馨の生涯を見てきました。</p>
<p>伊藤博文と協力し、何度も閣僚を経験した井上馨でしたね。</p>
<p>どちらかというと、政治の表舞台にたった人ではないかもしれませんが、その分他の人を前へ押し出す役目をした人でした。</p>
<p>短気なくせに、料理好きな一面も意外でしたね。</p>
<p>一度その料理を食べてみたいと思うのは、無謀と言えることでしょうか。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>大隈重信は何した人？どんな人？</title>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 25 Nov 2020 07:11:48 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
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					<description><![CDATA[大隈重信といえば政治家であり、早稲田大学の創設者で有名な人ですね。 でも彼がどういう人だったのかよく知らない人が多いのではないでしょうか。 この記事では大隈重信がどのように生きたのか、その生涯を通して見ていきましょう。 ]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>大隈重信といえば政治家であり、早稲田大学の創設者で有名な人ですね。</p>
<p>でも彼がどういう人だったのかよく知らない人が多いのではないでしょうか。</p>
<p>この記事では大隈重信がどのように生きたのか、その生涯を通して見ていきましょう。</p>
<h2>大隈重信のプロフィール</h2>
<table class="cps-table03">
<tbody>
<tr>
<th>
				生誕
			</th>
<td>
				1838年3月11日
			</td>
</tr>
<tr>
<th>
				生誕地
			</th>
<td>
				肥前国佐賀城下会所小路<br />
（現在の佐賀県佐賀市水ヶ江）
			</td>
</tr>
<tr>
<th>
				名前
			</th>
<td>
				大隈重信（おおくま しげのぶ）<br />
幼名：八太郎
			</td>
</tr>
<tr>
<th>
				死没
			</th>
<td>
				1922年1月10日（83歳没）
			</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h2>大隈重信は何をした人？</h2>
<h3>出生から幕末まで</h3>
<p>大隈重信は佐賀藩士の大隈信保と三井子の間に長男として生まれました。</p>
<p>大隅家は知行300石の石火矢頭人（砲術長）を務める上士の家柄でした。</p>
<p>重信は7歳で弘道館に入校し「朱子学」を中心に学びますが、これに反発し藩校の改革を訴えました。</p>
<p>1865年重信は長崎にあった佐賀藩校英学塾「致遠館」で教頭格となり指導に当たりました。</p>
<p>またこの時フルベッキ校長から英学を学びました。</p>
<p>同時に新約聖書やアメリカ独立宣言を知り、重信は大きな影響を受けたのでした。</p>
<p>1867年には将軍<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawayoshinobu/">徳川慶喜</a>に<span class="marker">大政奉還</span>を勧めるべく脱藩し、京都へ行きましたが捕らえられ佐賀に送還され謹慎処分となっています。</p>
<p>重信は捕らえられましたが、この年徳川家は政権を返上し、大政奉還を実行しているんです。</p>
<p>1868年幕府の役人が去った長崎の管理を行うため藩命で長崎に赴任し外国官副知事に就任しました。</p>
<h3>新政府の下で</h3>
<p>1869年3月会計官副知事となり、新価条例の制定や、版籍奉還の実務に関わりました。</p>
<p>7月の二官六省制度の成立後は大蔵大輔となりました。</p>
<p>また同時に民部大輔も兼任していました。</p>
<p>この頃大隈家には<a href="https://rekishigaiden.com/itohirofumi/">伊藤博文</a>や<a href="https://rekishigaiden.com/inouekaoru/">井上馨</a>、<a href="https://rekishigaiden.com/shibusawaeichi/">渋沢栄一</a>ら若手官僚が集まり寝起きするようになっていました。</p>
<p>このため大隈邸は「築地梁山泊」と呼ばれたそうです。</p>
<p>重信はその後も地租改正の改革にあたるとともに、殖産興業政策を推進し、富岡製糸場や鉄道、電信の建設などに取り組みました。</p>
<p>そんな重信のやり方に反発するものもおり、佐々木高行などの保守派や民力休養を考える<a href="https://rekishigaiden.com/okubotoshimichi/">大久保利通</a>らに嫌われていました。</p>
<p>1871年岩倉使節団が出国すると、重信は留守政府で勢力を拡大し、大蔵大輔となっていた井上馨と対立するようになります。</p>
<p>そして1873年に井上が辞職すると重信は大蔵省の実権を手に入れました。</p>
<p>そして明治六年政変では征韓論に反対し、佐賀の先輩であった江藤新平などと袂を分かつこととなりました。</p>
<p>その後参議兼大蔵卿になった重信は、大久保利通と連名で財政についての意見書を太政官に提出しています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">昔の先輩とは仲違いし、反感を持たれていた大久保とは同じ考え方をするようになるとは時の流れとは恐ろしいものですね。</div>
</div></div>
<h3>失脚から総理大臣へ</h3>
<p>1880年頃から自由民権運動が盛り上がりました。</p>
<p>1881年重信は2年後に国会を開きイギリス流の政党内閣を作ることを提案しますが、これに反発する<a href="https://rekishigaiden.com/itohirofumi/">伊藤博文</a>らに失脚させられてしまうのでした。</p>
<p>これを<span class="marker">明治十四年の政変</span>と言います。</p>
<p>野に下った重信は、同じく辞職した尾崎行雄や<a href="https://rekishigaiden.com/inukaituyosi/">犬養毅</a>らと1882年に立憲改進党を結成しその党首となりました。</p>
<p>またその年の10月には東京専門学校（現在の早稲田大学）を開設しました。</p>
<p>そんな重信は1888年<span class="marker">外務大臣に就任</span>します。</p>
<p>しかし1889年国家主義組織玄洋社の来島恒喜（くるしまつねき）による爆弾テロで右足を失う大怪我をしてしまうのでした。</p>
<p>重信はこれを機に辞表を提出し、立憲改進党に再入党しました。</p>
<p>1896年には立憲改進党は諸政党と合同し、旧進歩党となりました。</p>
<p>1898年進歩党は板垣退助の自由党と合同し、憲政党を結成しました。</p>
<p>そしてその年重信は<span class="marker">内閣総理大臣兼外相となり</span>、大隈内閣が誕生したのでした。</p>
<p>しかしこの内閣は4ヶ月ほどの短命でした。</p>
<h3>2度目の総理大臣と最期</h3>
<p>内閣を辞して後、重信は早稲田大学の総長へ就任しました。</p>
<p>そして1914年重信は<span class="marker">再び内閣総理大臣へと返り咲いた</span>のでした。</p>
<p>この頃世論が大隈内閣を望んでいたのです。</p>
<p>すでに76歳になっていた重信でしたが、この内閣も閣僚の買収問題等で今度は国民の支持を失い短命に終わってしまいました。</p>
<p>重信は1921年頃から腎臓炎と膀胱カタルを併発して衰弱していきました。</p>
<p>そして1922年1月重信は早稲田の自宅でこの世を去るのでした。</p>
<p>死因は腹部のガンと萎縮腎だと発表されました。<br />
享年85歳でした。</p>
<h2>大隈重信のエピソード・逸話</h2>
<h3>始球式</h3>
<p>日本野球史上最古の始球式は1908年大隈重信によって行われました。</p>
<p>米大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部の国際親善試合の時です。</p>
<p>重信の投げたボールはストライクゾーンから大きく外れてしまいましたが、重信に恥をかかせてはいけないと考えた早稲田大学の主将だった山脇正治がわざと空振りをしてストライクにしたのです。</p>
<p>これ以降始球式の投球を、ボール球でも絶好球でも空振りすることが慣例となったのでした。</p>
<h3>文字を書かなかった</h3>
<p>現在残されている大隈重信の関連文書はほとんど口述筆記によるものです。</p>
<p>重信は子供の頃から字が下手で、字の上手い学友に敵わなかったためだと言われています。</p>
<p>書かなければ負けないと考えたのです。</p>
<p>普通の人は字の練習をして学友に勝ちたいと考えますよね。</p>
<p>負けず嫌いの重信少年はそう考える人ではなかったのです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">その分ひたすら暗記をしていたと言いますからこれも大したものだと思います。</div>
</div></div>
<h3>メロンが好き</h3>
<p>大隈重信はメロンが大好きだったそうで、日本で初めてメロンを食べた人だそうです。</p>
<p>それが高じて、自宅でメロンを栽培するほどだったのです。</p>
<p>当時珍しいメロンを、誰もが食べられるように新種のメロンを考えたほどでした。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">意外にも大隈重信のおかげで、我々は安くて美味しいメロンを食べることができているんですね。</div>
</div></div>
<h2>3行でわかる大隈重信のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>大政奉還を考えた</li>
<li>明治維新の改革に努めた</li>
<li>総理大臣に2度なった</li>
</ul>
</div>
<p>明治政府を支え力を尽くした大隈重信の生涯を見てきました。</p>
<p>大隈重信は短命でしたが内閣総理大臣に2度もなっています。</p>
<p>それは国民の支持がとても厚かったからに他なりません。</p>
<p>若く有能な人材を作ろうと、教育にも力を入れていた重信でした。</p>
<p>これからメロンを食べるときは、この偉大な政治家を思い出すことでしょう。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>原敬は何した人？どんな人？平民宰相と呼ばれ暗殺された政治家の生涯</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/haratakashi/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/haratakashi/#comments</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 23 Nov 2020 03:43:27 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[大正時代]]></category>
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					<description><![CDATA[歴史の教科書で原敬という名前を聞いたことがあるでしょう。 彼は「平民宰相」と呼ばれた政治家でした。 なぜそのように言われていたのでしょうか。 ここでは原敬がどのような宰相だったのか見ていきましょう。 原敬のプロフィール ]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>歴史の教科書で原敬という名前を聞いたことがあるでしょう。</p>
<p>彼は「平民宰相」と呼ばれた政治家でした。</p>
<p>なぜそのように言われていたのでしょうか。</p>
<p>ここでは原敬がどのような宰相だったのか見ていきましょう。</p>
<h2>原敬のプロフィール</h2>
<table class="cps-table03">
<tbody>
<tr>
<th>
				生誕
			</th>
<td>
				1856年3月15日
			</td>
</tr>
<tr>
<th>
				生誕地
			</th>
<td>
				陸奥国岩手郡本宮村（現在の岩手県盛岡市本宮）
			</td>
</tr>
<tr>
<th>
				名前
			</th>
<td>
				原敬（はら たかし）<br />
※（はら けい）とも呼ばれる<br />
幼名：健次郎　<br />
号：一山、逸山
			</td>
</tr>
<tr>
<th>
				死没
			</th>
<td>
				1921年11月4日（65歳没）
			</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h2>原敬は何をした人？</h2>
<h3>生い立ちから戸主になるまで</h3>
<p>原敬は盛岡藩士　原直治の次男として生まれました。</p>
<p>原家は盛岡藩の家老職を務めた家柄でした。</p>
<p>生家は戊辰戦争で新政府軍に敵対したことで、盛岡藩は賠償金を支払うこととなり、原家も土地や屋敷を売却し、菓子商売などで生計を立てることになりました。</p>
<p>敬は1872年家が盗難にあったため学費に困り、無料のカトリック神学校に入り、翌年には「ダビデ」の洗礼名を受けています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">キリスト教の影響を受けていたのですね。</div>
</div></div>
<p>1875年敬は戸主として平民籍に編入されました。</p>
<p>生家もすでに士族ではなかったため、戸籍には「士農工商」の「商」と記されています。</p>
<p>しかし敬は誇り高く、いつも自分を卑しくするような態度は取らなかったそうです。</p>
<h3>新聞社へ入社</h3>
<p>1876年に司法省法学校を受け、2番の成績で合格し在学中も成績は良好でしたが1879年に退校処分にあっています。</p>
<p>これは寄宿舎の待遇改善を求めたことに対する処罰だったそうです。</p>
<p>敬はその年郵便報知新聞社に入社しました。</p>
<p>1881年の明治十四年の政変をきっかけに<a href="https://rekishigaiden.com/okuma/">大隈重信</a>派が新聞社を買収し、<a href="https://rekishigaiden.com/inukaituyosi/">犬養毅</a>や尾崎行雄が社に乗り込んできたため、これに反発した敬は社を辞めました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">明治十四年の政変とは、明治時代の政治事件で大隈重信一派が明治政府中枢から追放されたものです。</div>
</div></div>
<h3>政治家から首相へ</h3>
<p>外務省に入った敬は外交官として務めます。</p>
<p>後に農商務省に移り<a href="https://rekishigaiden.com/mutsumunemitsu/">陸奥宗光</a>や<a href="https://rekishigaiden.com/inouekaoru/">井上馨</a>らの信頼を得ました。</p>
<p>その後また新聞社へ復帰し1898年には<span class="marker">大阪毎日新聞の社長に就任</span>しています。</p>
<p>敬は発行部数を大幅に上げることに成功しました。</p>
<p>そこを<a href="https://rekishigaiden.com/itohirofumi/">伊藤博文</a>の説得で敬は政界へと入っていくのでした。</p>
<p>1900年敬は立憲政友会の初代幹事長や逓信大臣を務めます。</p>
<p>1901年首相として実権を握った桂太郎が組閣し、敬は桂内閣の方針に巡る分裂の危機を防ぎ、松田正久とともに政友会の党務を担いました。</p>
<p>また地方政策では、鉄道敷設などの利益誘導と引き換えに、支持獲得を目指す集票手段を暗殺された星から引き継ぎ、政友会の党勢を拡大しました。</p>
<p>そうやって党内を掌握した敬は、伊東博文らと融和と対決を使い分ける路線をとって党の分裂をしのぎました。</p>
<p>しかし敬の積極主義は「我田引鉄」と呼ばれ、利益誘導型の政治を生み出すことになり、現代につながる日本の政党政治と利益誘導の構造を作り上げることとなりました。</p>
<p>1906年第1次西園寺内閣内務大臣に就任、1911年には第2次西園寺内閣内務大臣を務めるとともに8月から鉄道院総裁になっています。</p>
<p>そして敬は1914年<span class="marker">第3次内閣総理大臣となりました。</span></p>
<h3>首相の任務と暗殺</h3>
<p>敬は内閣総理大臣が海軍大臣を代行することを提案しました。</p>
<p>陸軍はこれに反対しましたが、陸軍大臣は代行しないという約束で海軍大臣の代行をすることになりました。</p>
<p>また、教育政策では高等教育の拡張に力を入れました。</p>
<p>さらに軍事費にも多額の予算を配分し、1921年の予算は1917年の予算の2倍を超える15億8千万円にまで膨れ上がりました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">これには流石に野党憲政会や、貴族院からの多数の反対意見が出てもおかしくないですね。</div>
</div></div>
<p>敬が首相になる前の民衆の期待は大きいものでしたが、就任後の彼の政策は財閥向けのものでした。</p>
<p>その上、民衆が望んでいた普通選挙法の施行に否定的だったことなどで人々はがっかりしていたのです。</p>
<p>そして1921年11月関西での政友会大会に出席するために東京駅に到着直後、中岡艮一（なかおかこんいち）により殺害されてしまったのでした。</p>
<p>ほぼ即死でした。</p>
<h2>原敬のエピソード・逸話</h2>
<h3>実力のある知事を目指して</h3>
<p>敬は内務大臣時代に、藩閥によって任命された当時の都道府県知事を集めてテストを実施しました。</p>
<p>そして東京帝国大学卒の学歴を持つエリートたちに知事たちを変えていきました。</p>
<p>こうして真の実力のあるものを知事にしていったのです。</p>
<h3>教育制度</h3>
<p>1918年原内閣は「高等諸学校創設及拡張計画」を実施しました。</p>
<p>その内容は官立旧制高等学校10校、官立高等工業学校6校、官立高等農業学校4校、官立高等商業学校7校、外国語学校1校、薬学専門学校1校の新設と、帝国大学4学部の設置、医科大学5校の昇格、商科大学1校の昇格でした。</p>
<p>この計画はほぼ実現され、この教育機関の大半は地方都市に分散設置されました。</p>
<p>また私立大学では1920年に大学令の厳格な要件にも関わらず、慶應義塾大学、早稲田大学、明治大学、法政大学、中央大学、日本大学、國學院大学、同志社大学の旧制大学への昇格が認可され、その後も多くの私立大学が昇格しました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">これからの日本を若い有能な学生が支えることを期待していたのでしょう。</div>
</div></div>
<h3>平民宰相</h3>
<p>原敬は盛岡藩の家老の出自でした。</p>
<p>ですから公家出身の総理大臣よりも家柄は良かったのです。</p>
<p>しかし分家して平民となりました。</p>
<p>大概の総理大臣になる人は華族出身でしたから、敬は平民から総理になった<span class="marker">平民宰相</span>と呼ばれたのです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">時代が遡れば、敬は偉い武家の出身なんですけどね。</div>
</div></div>
<h2>3行でわかる原敬のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>第3次内閣総理大臣</li>
<li>教育や軍事に力を入れていた</li>
<li>平民宰相と呼ばれた</li>
</ul>
</div>
<p>平民宰相と呼ばれた原敬の生涯を見てきました。</p>
<p>新聞社から政治家へなり、いろいろな事業を手がけた人でしたね。</p>
<p>彼が暗殺された時、病床にあった山縣有朋はショックで熱を出し、夢でうなされるほどだったそうです。</p>
<p>そういう人をむざむざ失ってしまったことはとても残念なことですね。</p>
<p>原敬にはもっとやりたいことがあったはずです。</p>
<p>彼が生きていたら、現代はどのようになっていたのでしょうか。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>本田宗一郎は何をした人？どんな人？逸話やエピソードをまとめてみました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/honda/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/honda/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 21 Nov 2020 00:41:20 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[大正時代]]></category>
		<category><![CDATA[昭和時代]]></category>
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					<description><![CDATA[本田宗一郎といえば、本田技研工業の創業者であることは有名ですね。 そう、多くの人が乗っている車やバイクの「HONDA」の父なのです。 いつもチャレンジ精神で事業を進めていった人らしいのですが実際のところはどうだったのでし]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>本田宗一郎といえば、本田技研工業の創業者であることは有名ですね。</p>
<p>そう、多くの人が乗っている車やバイクの「HONDA」の父なのです。</p>
<p>いつもチャレンジ精神で事業を進めていった人らしいのですが実際のところはどうだったのでしょうか。</p>
<p>この記事では、本田宗一郎はどういう人だったのかその生涯を見ていくことにしましょう。</p>
<h2>本田宗一郎のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生誕：1906年11月17日</li>
<li>生誕地：静岡県磐田郡光明村（現在の浜松市天竜区）</li>
<li>名前：本田宗一郎</li>
<li>死没：1991年8月5日（84歳没）</li>
</ul>
</div>
<h2>本田宗一郎は何をした人？</h2>
<h3>出生から丁稚奉公まで</h3>
<p>宗一郎は鍛冶屋を営む本田儀平と妻みかの間に長男として生まれました。</p>
<p>1913年光明村立東尋常小学校（現在の浜松市立光明小学校）に入学した宗一郎は、在学中に自転車を初めて見ました。</p>
<p>また浜松町和知山練兵場まで飛行機を見にいくなど、とても行動的な子供でした。</p>
<p>1922年に二俣町立二俣尋常高等学校（現在の浜松市立二俣小学校）を卒業すると、宗一郎は東京市本郷区湯島（現在の東京都文京区湯島）の自動車修理工町の「アート商会（現在のアート金属工業）」に丁稚奉公として勤めることになりました。</p>
<h3>レースと独立</h3>
<p>アート商会では1923年には榊原社長をリーダーにしてレーシングカーの製作が始まりました。</p>
<p>1台目は中古のダイムラーエンジンを載せたアート・ダイムラーで、2台目はアート・カーチスでした。</p>
<p>このとき最も熱心にマシン作りを手伝ったのは宗一郎でした。</p>
<p>翌年には日本自動車競争大会で、カーチス号が優勝しています。</p>
<p>アート商会の社長は1928年に暖簾分けの形で浜松市に支店を出し、それを宗一郎に任せました。</p>
<p>暖簾分けを受けたのは宗一郎はだけでした。</p>
<p>宗一郎は若さと才能で修理の腕だけではなく、「浜松のエンジン」と呼ばれる発明をし活躍していったのでした。</p>
<p>1935年小学校の教員だった磯部さちという女性と結婚し、二男一女をもうけています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">のちに長男の本田博俊さんはあの「株式会社 無限」の創設者となります。</div>
</div></div>
<p>1936年に第1回全国自動車競争大会（多摩川スピートウェイ）に弟の弁二郎と共に参加します。</p>
<p>車はフォードに自作のターボチャージャーをつけたものでした。</p>
<p>しかし残念なことに事故のため負傷しレースもリタイアすることになりました。</p>
<h3>新しい会社へ</h3>
<p>1937年には「東海精機重工業株式会社（現在の東海精機株式会社）」の社長に就任しました。</p>
<p>宗一郎はエンジンに欠かせない部品としてピストンリングに目をつけますが、経験だけでは難解で、学問的に知識を必要として浜松高等工業学校（現在の静岡大学工学部）機械科の聴講生となり3年間も金属工学の研究をしました。</p>
<p>1939年にはアート商会浜松支店を従業員の川島末男に託し、東海精機重工業の経営に専念することにします。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">この間宗一郎は東海精機重工業の社長をしながら、アート商会も経営し、その上金属工学の勉強までしていたのですね。</p>
<p>すごい行動力です。</p></div>
</div></div>
<p>1941年に太平洋戦争が始まり、東海精機重工業も軍需省の管轄下に置かれました。</p>
<p>その上、翌年にはトヨタ自動織機が東海精機重工業に出資をし、経営権を奪われる形で宗一郎は専務に退きます。</p>
<p>1945年に起きた三河地震により会社の浜松工場が倒壊し、宗一郎は会社の株を全て豊田自動織機に売却して退社しました。</p>
<p>「人間休業」といって1年間の休養に入ったのでした。</p>
<h3>本田技研へ</h3>
<p>そして翌年1946年には浜松市に本田技術研究所を設立し、39歳で宗一郎は所長に就任しました。</p>
<p>1948年には<span class="marker">本田技研工業株式会社を設立し、代表取締役に就任</span>しています。</p>
<p>資本金は100万円で従業員は20人からのスタートでした。</p>
<p>ここで二輪車の研究を始めました。</p>
<p>1949年宗一郎は後の副社長となる藤沢武夫と出会います。</p>
<p>藤沢はすぐに頭角を現し、開発は主に宗一郎が、経営は藤沢が担当するという強力な関係が築かれていったのでした。</p>
<p>この2人のタッグでその後の『HONDA』が成長していったのでした。</p>
<p>1957年には東京証券取引所一部上場となり、翌年にはスーパーカブを発売しています。</p>
<p>1961年藤沢と共に「作行会」を設立し、若手研究者や学生に匿名で奨学金を交付しました。</p>
<p>やがて1973年には本田技研工業社長を退き、取締役最高顧問に就任。研究所所長は続けました。</p>
<p>1981年勲一等瑞宝章を受章した宗一郎は、2年後取締役も退き終身最高顧問となります。</p>
<p>そして1989年には<span class="marker">アジア人初のアメリカ合衆国の自動車殿堂入りを果たした</span>のです。</p>
<p>それから2年後の1991年宗一郎は肝不全のためこの世を去ります。</p>
<p>84年間の生涯でした。</p>
<h2>本田宗一郎のエピソード・逸話</h2>
<h3>水冷エンジンか空冷エンジンか</h3>
<p>エンジンを空冷にするか、水冷にするかという論争がホンダの中で起こった時、若い社員たちは公害規制をクリアするために、水冷がいいと主張しましたが、宗一郎は「砂漠の真ん中でエンストした時に水なんかあるか！空冷だ」と主張したそうです。</p>
<p>一時は宗一郎の意見が通り空冷の車ホンダ・1300が発売されましたが、これは若手のエンジニアの反発を招きました。</p>
<p>様々な実験の結果、最終的に水冷の方が優れていることがわかりホンダは水冷エンジン路線に変更します。</p>
<p>宗一郎は「自分には技術がわからなくなったのかもしれない」と考え、社長を退いたと言います。</p>
<h3>潔い引き際</h3>
<p>四輪自動車の技術についていけなくなっている宗一郎は、自分が天才技術者であった過去の実績からワンマンな性格が出始めてきました。</p>
<p>これは若い社員たちから煙たがられる存在となっていきます。</p>
<p>それを察した藤沢が、自分が退く旨を宗一郎に伝えます。</p>
<p>宗一郎はそれで全てを察し、「辞める時は2人一緒だよ」といい、揃って1973年に引退したのでした。</p>
<p>後継者は当時45歳の川島喜好でした。</p>
<p>経営者も世襲ではなく実力のあるものを登用するそれも宗一郎の考えでした。</p>
<p>若い世代に跡を継いでゆく、この宗一郎の思いもホンダの伝統となりました。</p>
<h3>社長としての顔</h3>
<p>従業員は宗一郎のことを「オヤジさん」と親しみを込めて読んでいました。</p>
<p>しかし一方では「オヤジさんは怖かった」と言われています。</p>
<p>中途半端な仕事をした時などは容赦なく怒鳴り、物が飛んできたりもしたそうです。</p>
<p>しかし怒った方の宗一郎が泣いていたこともあったと言います。</p>
<p>宗一郎は従業員をとても大切に考えていました。</p>
<p>だから怒鳴らなければならないことが辛かったのでしょう。</p>
<p>「俺たちの作る商品は人命に関わるものなんだ。それをないがしろにする人間は絶対に許せない」と言っていました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">ものを作るだけではなく、それを使う人の命を考えていつも宗一郎は仕事をしていたんですね。</p>
<p>それを従業員みんなにわかって欲しかったのでしょう。</p></div>
</div></div>
<h2>3行でわかる本田宗一郎のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>ホンダの創始者</li>
<li>従業員をとても大切にし、世襲ではなく実力のある者を登用した</li>
<li>レースが好きだった</li>
</ul>
</div>
<p>自転車から始まり、自動車まで一躍発展させた本田宗一郎の生涯を見てきました。</p>
<p>彼はいつも車の技術について考えてきた人でしたね。</p>
<p>時には間違ったこともあるけれど、それをきちんと受け止めていました。</p>
<p>時代とともに自分の力が劣っていくのを認めることは辛かったことでしょう。</p>
<p>しかしそんなことでめげる宗一郎ではなかったようで、引退後も講演会など様々な活躍をしています。</p>
<p>生涯挑戦的で前向きな本田宗一郎に拍手を送りたいですね。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>松下幸之助は何をした人？どんな人？エピソードをまとめてみました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/kounosuke/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/kounosuke/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 18 Nov 2020 02:45:28 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[大正時代]]></category>
		<category><![CDATA[昭和時代]]></category>
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					<description><![CDATA[日本の電気メーカー・パナソニックの創始者といえば松下幸之助だということはみなさんご存知だと思います。 では彼はどういう人だったのかと言われてもよく知らない人が多いのではないでしょうか。 ここでは松下幸之助がどんな人だった]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>日本の電気メーカー・パナソニックの創始者といえば松下幸之助だということはみなさんご存知だと思います。</p>
<p>では彼はどういう人だったのかと言われてもよく知らない人が多いのではないでしょうか。</p>
<p>ここでは松下幸之助がどんな人だったのかみていくことにしましょう。</p>
<h2>松下幸之助のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生誕：1894年11月27日</li>
<li>生誕地：和歌山県海草郡和佐村（現在の和歌山市）</li>
<li>名前：松下幸之助</li>
<li>死没：1989年4月27日（94歳没）</li>
</ul>
</div>
<h2>松下幸之助は何をした人？</h2>
<h3>丁稚奉公から電気の世界へ</h3>
<p>松下幸之助は小地主・松下政楠ととく枝の間に三男として生まれました。</p>
<p>松下という姓は、松の大樹の下に家があったことから用いたと言われています。</p>
<p>1899年父が米相場で失敗し、家も田畑も手放すことになりました。</p>
<p>そこで和歌山市本町に転居し下駄屋を始めますが、これもうまくいきませんでした。</p>
<p>幸之助は尋常小学校を中退し9歳で火鉢店へ丁稚奉公に出されました。</p>
<p>その後すぐに奉公先を五代自転車に変えています。</p>
<p>この頃サントリーの起源である寿屋の鳥井信治郎と出会い、将来にわたり経営の師と仰ぐのでした。</p>
<p>幸之助は大阪市に導入された路面電車に感動し、電気に関わる仕事を志すようになりました。</p>
<p>16歳で大阪電灯（現在の関西電力）に入社し7年間勤務します。</p>
<p>当時の電球は自宅に直接電線を引く方式だったので、電球の取り扱いもとても危険な作業でした。</p>
<p>そこで簡単に取り外すことができる電球ソケットを考案しています。</p>
<p>1913年幸之助は18歳で関西商工学校夜間部予科に入学し、1914年井植むめのという女性と結婚し、1917年大阪電灯を退職しました</p>
<h3>会社設立へ</h3>
<p>大阪市東成区の自宅で、妻とその弟の井植歳男とそのほかの友人2名を含み5名で電球ソケットの製造販売を始めます。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">井植歳男は戦後に独立し三洋電機を創業した人です。</div>
</div></div>
<p>電球ソケットはあまり売れず、友人2人は去って行きましたが、川北電気（現在のパナソニック エコシステムズ）から扇風機の部品の注文が大量にあり窮地を脱することができました。</p>
<p>その後はアタッチメントプラグや二灯用差込プラグがヒットし事業は軌道に乗り始めました。</p>
<p>1918年に大阪市北区（現在の大阪市福島区）で<span class="marker">「松下電気器具製作所（現在のパナソニック）」を創業</span>し、電球ソケットに続き、カンテラ式で取り外し可能な自転車用電池ランプを考案し、乾電池などにも手を広げました。</p>
<p>1929年には社名を「松下電器製作所」へ変えています。</p>
<h3>事業拡大と第二次世界大戦</h3>
<p>1932年を「命知元年」と定めて5月に第1回創業記念式を開き、「水道哲学」や「250年計画」「適正利益・現金正価」を社員に訓示しています。</p>
<p>また事業拡大のため、本社・工場を大阪市門真市へ移転し、1935年には「松下電器産業株式会社」として会社を法人化しました。</p>
<p>第二次世界大戦中は、軍需品の生産をするとともに、松下造船株式会社や松下航空機株式会社も設立しました。</p>
<p>造船の方は56隻の中型木造船を作りましたが、航空機は7機を試作しただけで失敗に終わりました。</p>
<p>戦後、幸之助や歳男ら役員は戦争協力者として公職追放処分となります。</p>
<p>この頃歳男を暖簾分けの形で社外に出しました。</p>
<p>そのような中で幸之助はPHP研究所を設立し、倫理教育に乗り出し世間の評判を高めました。</p>
<p>社員たちも人員整理をしなかった幸之助の方針に感謝し、GHQに嘆願し1947年会社は復活したのでした。</p>
<h3>戦後の事業</h3>
<p>1948年に自分の趣味の株式投資を意識して「ナショナル証券」を設立しましたがこちらはうまくいかなかったようです。</p>
<p>1951年テレビ事業視察のため外遊し、オランダのフィリップスと技術導入を提携し1997年に「松下電器」に統合するまで「松下電子工業」として分社化しました。</p>
<p>1954年には今度はレコード事業に参入するため「日本ビクター」を子会社化しましたが、経営上は独立性を保証しました。</p>
<p>1957年現在の「パナソニックショップ」となる系列電器店網へ取り組み、「ナショナルショップ」を誕生させました。</p>
<p>この「ナショナルショップ」は最大で2万7千店を超えたそうです。</p>
<p>そんな功績が認められ1960年には和歌山県の名誉市民に選ばれています。</p>
<h3>会長職へ</h3>
<p>1961年に会長に就任し第一線から身を引き、1964年には門真市で初の名誉市民に推挙されています。</p>
<p>1970年日本万博博覧会に松下電器館を出店し、「5000年後に開封する」としてタイムカプセルを大阪城公園に埋蔵しました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">5000年後ってすごい未来の話ですね。</p>
<p>どんな世の中になっているのでしょうか。</p></div>
</div></div>
<p>1971年には慶應義塾大学工学部へ多額の寄付を行い、松下記念図書館ができました。</p>
<h3>引退と最期</h3>
<p>1973年に幸之助は80歳を機に引退し、相談役になりました。</p>
<p>翌年には奈良県明日香村の名誉村民となっています。</p>
<p>この年から1983年まで伊勢神宮崇敬会第3代会長を務めています。</p>
<p>1979年には70億円もの私財を投じて財団法人松下政経塾を設立し、政界に貢献しようとしました。</p>
<p>そんな幸之助でしたが、1989年4月気管支肺炎のため病院で亡くなるのでした。</p>
<p>94年間を駆け抜けた人生でした。</p>
<h2>松下幸之助のエピソード・逸話</h2>
<h3>賢い丁稚時代</h3>
<p>自転車屋に奉公していた幸之助は度々タバコを買いに行かされました。</p>
<p>そのうちまとめてタバコを買っておけばいちいち買いに行かずに済むし、20個買うと1つオマケでくれたので、その分を自分の儲けにして小銭をためていました。</p>
<p>それを気に入らない丁稚仲間に店主に報告され、すぐに止めるように言われました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">この頃から商才があったのですね。</div>
</div></div>
<h3>水道哲学</h3>
<p>松下幸之助の経営哲学は水道哲学と呼ばれています。</p>
<p>水道の水のように低価格で良質なものを大量に供給することで、物価を低くし消費者が手にしやすくなるという思想です。</p>
<p>幸之助は儲けに走ることより、良い製品を低価格でたくさん売ることを目的としていました。</p>
<p>その上彼はまず従業員のことを考えていました。</p>
<p>儲けよりもまず人間大事が信条でした。</p>
<p>人間は偉大であるという徹底した哲学を彼は持ち続けていたのです。</p>
<h3>浅草寺の雷門</h3>
<p>1960年幸之助は100年近く仮設状態のままになっていた浅草寺の雷門と大提灯を私財を使い現在の形に再建しました。</p>
<p>提灯の雷門の下には「松下電器産業株式会社 松下幸之助」と金文字で大きく書かれたプレートが貼られています。</p>
<h2>3行でわかる松下幸之助のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>パナソニックの創始者</li>
<li>自分なりの哲学を持っていた</li>
<li>色々な事業を手がけた</li>
</ul>
</div>
<p>休むことなく事業に力を注いだ松下幸之助の生涯を見てきました。</p>
<p>彼の死亡時の遺産総額は2450億円と言いますからものすごい額ですね。</p>
<p>その私財を使って色々な慈善事業もしています。</p>
<p>学校も出ていない貧しい生活から、彼は怯むことなく自分の人生に立ち向かっていきました。</p>
<p>その結果大成功をおさめることができたのです。</p>
<p>彼の信じる哲学は、今でもパナソニックの社員に受け継がれていっていることでしょう。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>山本五十六は何した人？どんな人？真珠湾攻撃・海軍甲事件・ミッドウェー海戦など</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/isoroku/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/isoroku/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 16 Nov 2020 04:17:31 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[昭和時代]]></category>
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					<description><![CDATA[皆さんは山本五十六という人物をご存知でしょうか。 真珠湾攻撃に携わり、第二次世界大戦中に命を落とした軍人さんです。 しかし、山本五十六とはどのような人だったのか知らないという人が多いのではないでしょうか。 ここではその山]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>皆さんは山本五十六という人物をご存知でしょうか。</p>
<p>真珠湾攻撃に携わり、第二次世界大戦中に命を落とした軍人さんです。</p>
<p>しかし、山本五十六とはどのような人だったのか知らないという人が多いのではないでしょうか。</p>
<p>ここではその山本五十六という人の生涯をたどってみることとしましょう。</p>
<h2>山本五十六のプロフール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生誕：1884年4月4日</li>
<li>生誕地：新潟県古志郡長岡本町（現在の長岡市）</li>
<li>名前：山本五十六（旧姓…高野）</li>
<li>死没：1943年4月18日（59歳没）</li>
</ul>
</div>
<h2>山本五十六は何をした人？</h2>
<h3>軍人を目指すきっかけ</h3>
<p>山本五十六は旧越後長岡藩士高野貞吉の六男として生まれました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">五十六という名前はその時の父の年齢が56歳だったことから付けられたそうです。</div>
</div></div>
<p>旧制新潟県立長岡中学校時代に10歳年上の甥である高野力が病死し、その時両親に「五十六が変わって立派な軍人になってくれれば」と言われたことが彼のトラウマとなりました。</p>
<p>それをきっかけに五十六は軍人を目指すようになったのでした。</p>
<h3>軍人への訓練</h3>
<p>1901年に五十六は官軍兵学校32期に200名中2番の好成績で入学します。</p>
<p>同期生には堀悌吉や塩沢幸一などがおり、特に堀悌吉とは親友になりました。</p>
<p>日露戦争中の1904年に192名中11番で卒業した五十六は少尉候補生として練習艦「韓崎丸（からさきまる）」に乗船します。</p>
<p>1905年には装甲巡洋艦「日進」に乗り込み日本海海戦に参加しました。</p>
<p>この時彼は左手の人差し指と中指を失い、左大腿部に重傷を負うことになります。</p>
<p>その後は防護巡洋艦「須磨」や戦艦「鹿島」、海防艦「見島」、駆逐艦「陽炎」などに勤務します。</p>
<p>その間海軍砲術学校や海軍水雷学校などでの教育も受けました。</p>
<p>教育の後は駆逐艦「春雨」や装甲巡洋艦「阿蘇」に乗り込んだ後、三等巡洋艦「宗谷」に配属となります。</p>
<p>1909年にはアメリカに駐在し、1911年海軍大学校乙種学生を卒業後海軍経理学校と海軍砲術学校の教官となり、同僚の米内光政と盟友となっています。</p>
<h3>高野五十六から山本五十六へ</h3>
<p>1913年両親を亡くし、五十六は海軍大学校に入学します。</p>
<p>この間の1915年旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続しました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">ここから山本五十六の人生が始まったのですね。</div>
</div></div>
<p>海軍大学校を卒業した翌年彼は腸チフスにかかり、また虫垂炎も起こし命の危機に瀕します。</p>
<p>大手術の末なんとか命を取り止めることができたのでした。</p>
<p>1917年海軍教育本部第一勤務となった頃、友人の紹介で三好礼子と結婚しています。</p>
<h3>アメリカへ留学</h3>
<p>1919年アメリカ駐在を命じられ、ハーバード大学に留学しました。</p>
<p>アメリカ国内を視察し、油田や自動車産業、飛行位産業などに強い印象を持ちました。</p>
<p>このアメリカ滞在時に超米海軍武官の上田吉武大佐より受けた指導と視察、研究の影響が航空機に着目するきっかけになった可能性があります。</p>
<p>上田吉武大佐は海軍航空開発の第一人者です。</p>
<p>1921年に一旦帰国したものの、1925年には再びアメリカに滞在しています。</p>
<p>この時もアメリカの石油や自動車、航空機や船舶などの生産流通を視察研究し、この経験が後の対米戦の戦略を立てることに大いに影響したのでした。</p>
<h3>軍縮会議</h3>
<p>1928年には帰国し軽巡洋艦「五十鈴」や多段式空母「赤城」の艦長を務めていましたが、1929年に海軍少尉に進級しロンドン軍縮会議に参加しました。</p>
<p>この軍縮会議では艦隊派と条約派という派閥争いも生じ、この一件が山本が艦隊派だと受け止められ五十六の出世のきっかけになりました。</p>
<p>結局軍縮会議では日本は補助艦全体の保有率を対米比6.975とされたのでした。</p>
<p>1934年第二次ロンドン海軍軍縮会が行われました。</p>
<p>この会議で日本は軍縮条約からの脱退を決意し、ワシントン海軍軍縮条約の破棄も決めていました。</p>
<p>その後から日本はドイツに近付き始めました。</p>
<p>1936年五十六は海軍次官に就任します。</p>
<p>これは五十六の政治手腕を買っていた永野修身の熱望によるものでした。</p>
<p>その後盧溝橋事件が起こり日中戦争に拡大し、第二次上海事変が起きると海軍航空隊も本格的に投入されることとなります。</p>
<p>この時海軍によりアメリカ艦艇への誤認砲撃があり五十六はすぐに対米交渉を行いました。</p>
<p>アメリカ視察を経験した五十六にはアメリカを敵に回すことはとても恐ろしいことだとわかっていましたから。</p>
<h3>連合艦隊司令官と真珠湾攻撃</h3>
<p>1939年五十六は連合艦隊司令官に任命されました。</p>
<p>この任命は日独伊三国同盟に納得しない五十六が暗殺されてしまうことを危惧して行われた人事でした。</p>
<p>しかし1940年日独伊三国同盟が締結され、日本はアメリカやイギリスを敵に回すこととなったのでした。</p>
<p>当時の総理大臣だった近衛文麿の日記によると</p>
<p>「是非と言われれば半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。しかしながら2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国同盟ができたのは仕方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避するよう極力ご努力願いたい」</p>
<p>を五十六は語ったそうです。</p>
<p>五十六は1941年<span class="marker">真珠湾攻撃を仕掛けます。</span></p>
<p>これは敵の主力機動部隊を初戦で壊滅させ戦意をくじくという心理作戦の効果と敵の機動力の喪失を目標としていました。</p>
<p>この攻撃で戦艦4隻が大破し戦艦2隻が大・中破するなどアメリカ海軍の太平洋艦隊を行動不能にする戦果をあげました。</p>
<p>しかしこの攻撃から日米開戦を迎えることになったのでした。</p>
<p>これに続きドイツのヒトラーもアメリカへ宣戦布告し、第二次世界大戦はヨーロッパ、北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大していったのでした。</p>
<h3>ミッドウェー海戦</h3>
<p>ミッドウェー島攻略とアメリカ機動部隊殲滅を目的とした作戦が立てられ、反対の声もありましたが、五十六は奇襲できれば負けないと考え実行に移します。</p>
<p>五十六は敵機動部隊を誘い出し撃滅することを目的としていましたが、軍はミッドウェー島攻略を主に考えていたため、連合艦隊の意図は徹底されませんでした。</p>
<p>この海戦で日本軍は敵機動部隊より攻撃を受け、大敗を期することとなったのでした</p>
<h3>海軍甲事件</h3>
<p>五十六はブーゲンビル島、ショートランド島の航空基地の将兵をねぎらうため、ラバウルから第705航空隊の一式陸上攻撃機2期に分乗して基地を発進しました。</p>
<p>零式艦上戦闘機６機に護衛されてブイン基地へ移動中、ブーゲンビル島上空でアメリカ陸軍航空隊のP-38ライトニング16機に襲撃され、撃墜してしまいました。</p>
<p>この事件を<span class="marker">海軍甲事件</span>と言います。</p>
<p>五十六の遺体は機体の側に放り出されていた座席に着座し、右手で軍刀を握ったまま泰然としていたと言います。</p>
<p>59歳、軍人としての最期でした。</p>
<h2>山本五十六のエピソード・逸話</h2>
<h3>勝気な子供時代</h3>
<p>五十六はとても勝気な子供で小学生時代に「なんでも食べるが鉛筆は無理だろう」とからかわれると、その場で鉛筆を食べ出したそうです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">この頃から性格的に軍人に向いていたのかもしれませんね。</div>
</div></div>
<h3>乃木希典を敬愛していた</h3>
<p>五十六は乃木大将を尊敬しており、友人の歌人から</p>
<p>「乃木将軍を　稍々口悪く素気なく描けば　そこに山本がいる」</p>
<p>と冗談めかして評されています。</p>
<p>反面東郷平八郎に対しては好意的ではなく、東郷神社が出来た時には皮肉を言っていたそうです。</p>
<p>五十六本人にも死後神社を建てようかという動きがあったのですが、彼の意志を知るものが反対し建立は行われませんでした。</p>
<h3>甘いもの好き</h3>
<p>五十六は酒を飲みませんでしたが、甘いものが好物でした。</p>
<p>特に夜食に汁粉が出ると喜んだそうです。</p>
<p>虎屋の羊羹をいつも切らさぬように部下は気を使っていたくらいでした。</p>
<p>飴や最中も大好きでした。</p>
<p>日本では柿を、南方ではパパイヤを好んで食べていました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">厳しい戦争の最中、ちょっとした気晴らしになったことでしょう。</div>
</div></div>
<h2>3行でわかる山本五十六のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>海軍の軍人で、大将も務めた</li>
<li>真珠湾攻撃をしかけた</li>
<li>ミッドウェー海戦では大敗した</li>
</ul>
</div>
<p>軍人として59年の人生に幕を下ろした山本五十六の生涯を見てきました。</p>
<p>本当はアメリカとは戦いたくなかった五十六でしたが、真珠湾攻撃で先制して有利にことを進めようとした考えが仇となってしまいました。</p>
<p>2度の留学でアメリカの先進化を嫌という程見せつけられていた五十六には、アメリカとは絶対戦ってはいけないという思いがあったはずなのに、結局敵に回すことになり五十六は腹を括ったことでしょう。</p>
<p>それゆえ彼にはこの戦争の結末がわかっていたことは間違い無いでしょう。</p>
<p>それでも軍人として見事に最後まで戦った山本五十六でした。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>宮沢賢治は何をした人？どんな人？雨ニモマケズで有名な作家の生涯</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/miyazawakenji/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 13 Nov 2020 01:31:54 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
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					<description><![CDATA[「雨ニモマケズ、風ニモマケズ……」で始まるこの詩を誰もが一度は聞いたことがあるでしょう。 これは宮沢賢治の名作です。 彼はたくさんの詩や童話を書き残しています。 筆者は彼の伝記を読んだ時、亡くなる最後の日に体を拭いてもら]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>「雨ニモマケズ、風ニモマケズ……」で始まるこの詩を誰もが一度は聞いたことがあるでしょう。</p>
<p>これは宮沢賢治の名作です。</p>
<p>彼はたくさんの詩や童話を書き残しています。</p>
<p>筆者は彼の伝記を読んだ時、亡くなる最後の日に体を拭いてもらい「気持ちがいい」と言った言葉が今でも忘れられません。</p>
<p>ではその宮沢賢治とはどんな人だったのでしょうか。</p>
<p>ここでは宮沢賢治の作品を通して、彼の生涯を見ていきましょう。</p>
<h2>宮沢賢治のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生誕：1896年8月27日（戸籍上は8月1日）</li>
<li>生誕地：岩手県稗貫郡里川口村（現在の花巻市）</li>
<li>名前：宮澤賢治</li>
<li>死没：1933年9月21日（37歳没）</li>
</ul>
</div>
<p>宮沢賢治の名前は宮澤が正字ですが、一般的には宮沢が使われています。</p>
<h2>宮沢賢治は何をした人？</h2>
<h3>優秀で多趣味な幼少期</h3>
<p>宮沢賢治は古着屋を営む父・政治郎と母・イチの間に長男として生まれました。</p>
<p>賢治が生まれた5日後に陸羽地震が発生し、母イチは必死に念仏を唱えながら賢治を守ったのでした。</p>
<p>その時父は出張中で「賢治」という名前は叔父がつけたものです。</p>
<p>3歳の頃から叔母のヤギが「正信偈（しょうしんげ）」などを唱えていた時、一緒に仏前で暗唱していたそうです。</p>
<p>花巻川口尋常小学校へ入学した賢治は成績優秀で6年間全部甲を取りました。</p>
<p>3年と4年の担任だった八木英三は、「また見ぬ親（家なき子）」や「海に塩のあるわけ（海の塩はなぜ辛い）」などの童謡を生徒たちに話して聞かせました。</p>
<p>このことが賢治に大きな影響を与えたと言います。</p>
<p>また鉱物採集や昆虫の標本作りに夢中になり、「石コ賢さん」とあだ名をつけられました。</p>
<p>父の主催する仏教会にも参加したりといろいろなことに興味を持っていたようです。</p>
<p>1909年盛岡中学校（現在の盛岡第一高等学校）に入学した賢治は、家業を継ぐのが嫌で成績が落ちていきました。</p>
<p>反面鉱物採集や星座により夢中になっていました。</p>
<p>1914年に中学を卒業後、鼻炎の手術を受け、熱が下がらないため発疹チフスの疑いで入院生活を送っています。</p>
<p>この時に看護に当たった看護師に想いを寄せ、結婚したいと考えますが、両親に若すぎることを理由に反対されます。</p>
<h3>盛岡高等農林学校へ</h3>
<p>賢治は盛岡高等農林学校へ首席で進むのですが、同時に「漢和対照 妙法蓮華経」を読みその中の「如来寿量品」にとても感銘を受けたのでした。</p>
<p>寮に入った賢治は毎朝法華経の読経をしていたそうです。</p>
<p>1917年寮で同室の保阪嘉内らと同人誌「アザリア」を発行し、賢治は短歌や短編を載せています。</p>
<p>学校を卒業し研究生として土壌調査に懸命になっていましたが、肋膜炎の診断を受け山歩きを止められました。</p>
<p>この時結核も患っていたと思われます。</p>
<p>故郷へ帰る賢治を見送りに来た河本義行に「私の命もあと15年ありません」と語ったそうですから。</p>
<h3>家出と妹の死</h3>
<p>帰省した賢治は「蜘蛛となめくじと狸」「双子の星」を書き家族に朗読しています。</p>
<p>そんな時東京に進学した妹のトシが入院したとの知らせがあり、母とともに上京しました。</p>
<p>当初チフスの疑いだったトシは肺炎とわかりました。</p>
<p>賢治は懸命にトシの看病をしたのでした。</p>
<p>賢治は法華経の在家仏教団体の国柱会に出入りし、より法華経に入信していきました。</p>
<p>賢治はトシとともに花巻に帰り、仕方なくいやな家業を手伝っていましたが、1921年家出をし上京しました。</p>
<p>国柱会に出入りし、「法華大学」の創作に取りくみ、法華教の普及に勤めていましたが、半年後にトシが病気のためすぐ帰れという電報を受け取り、賢治は慌てて花巻へ戻ります。</p>
<p>結局地元の稗貫郡立稗貫農学校（翌年岩手県立花巻農学校へ改名）の教諭となりました。</p>
<p>そして雑誌「愛国婦人」に（雪渡り）を掲載し、原稿料5円を受け取りました。</p>
<p>この5円が生涯唯一の原稿料となりました。</p>
<p>1922年結核で病床にいた妹のトシの容体が急変し、亡くなりました。</p>
<p>この時賢治は押入れで声をあげて泣いたそうです。</p>
<p>そして「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」を書いています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">トシは賢治にとって最愛の妹だったのですね。</div>
</div></div>
<p>その後もトシを思って「青森挽歌」や「樺太挽歌」などの詩を作っています。</p>
<h3>創作活動と農業</h3>
<p>1924年「心象スケッチ 春と修羅」を刊行しましたがなかなか売れませんでした。</p>
<p>同年「イーハトーブ童話 注文の多い料理店」を刊行します。</p>
<p>しかしこちらも全く売れませんでした。</p>
<p>翌年賢治は草野心平の同人誌に参加しています。</p>
<p>1926年にはトシが療養していた別宅に移り、畑を耕し、花壇を作り野菜作りを始めました。</p>
<p>ここでトマトやトウモロコシを作り、チューリップやヒヤシンスなどの花を咲かせました。</p>
<p>12月には上京し、タイプライターやセロ、オルガンなどを習い、また観劇を楽しんだりしています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">まるで残りの人生を無駄にしたくないというように見えます。</div>
</div></div>
<p>郷里に戻り肥料相談や稲作指導をしていた賢治でしたが、高熱で倒れ両側肺湿潤との診断を受けました。</p>
<h3>採石工場勤務と最期</h3>
<p>実家で療養していた賢治は1930年になると体調が良くなり、文語詩の製作を始めました。</p>
<p>東北採石工場に技師として勤め始めた賢治は製品の注文取りや販売などで東奔西走する毎日でした。</p>
<p>しかし神田駿河台の旅館で高熱を出し、死を覚悟した賢治は家族に遺書を書きました。</p>
<p>翌日実家に戻り病床生活となります。</p>
<p>その間に<span class="marker">「雨ニモマケズ」</span>を手帳に書き残しています。</p>
<p>1932年「グスコーブドリの伝記」を発表しています。</p>
<p>この作品の挿絵を描いたのは有名な棟方志功でした。</p>
<p>1933年9月神社の神輿や山車を門口で見ていた賢治に農民たちが稲作や肥料の相談に来ました。</p>
<p>賢治は着物を着替えきちんと応対したそうです。</p>
<p>それから弟の清六が付き添っていました。</p>
<p>賢治は書きためた原稿をお前にやるから本屋から出したいと言われたら出してもいいと弟に言いました。</p>
<p>そして喀血した賢治に父の政次郎が言い残すことはないかと尋ねると、法華経を1千部作ってくれと頼みました。</p>
<p>「お前もなかなか偉いな」と父に褒められ、賢治は弟に「俺もとうとうお父さんに褒められたものな」と喜んだそうです。</p>
<p>母のイチが水を飲ませ、賢治の体を拭いてやったときに「ああいい気持ちだ」と何度も繰りかえして言いました。</p>
<p>母への感謝の気持ちが溢れています。</p>
<p>その後賢治は静かに息を引き取りました。</p>
<h2>宮沢賢治のエピソード・逸話</h2>
<h3>父・政次郎</h3>
<p>1902年賢治は赤痢で入院しました。</p>
<p>その時看病していた父の政次郎も感染し大腸カタルを起こしています。</p>
<p>また賢治が1914年に発疹チフスの疑いで入院していた時も、看病していた父政次郎も感染して入院しています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">いかに政次郎が賢治に懸命に看病したかがよくわかりますね。</p>
<p>いいお父さんだったのでしょう。</p></div>
</div></div>
<h3>賢治の作品</h3>
<p>賢治が生前に刊行した作品は「春と修羅」と「注文の多い料理店」の2作でした。</p>
<p>賢治の死後から草野心平の尽力によって多数の作品が刊行されました。</p>
<p>これが次々に賢治の作品を世間に知らせるきっかけとなりました。</p>
<p>賢治の作品は「オノマトペ」がよく使われており、とてもリズム感のある作品となっています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">「オノマトペ」とは「キラキラ」とか「さらさら」というような声や状況を字句で再現したものです。</div>
</div></div>
<p>当時主流とされていた「赤い鳥」などとは、かなり違った児童文学作品だったようです。</p>
<h3>賢治の宗教観</h3>
<p>賢治は幼い時から法華宗に入信します。</p>
<p>しかし賢治の家は代々浄土真宗でした。</p>
<p>法華宗を信頼するあまり、父に改宗を勧めますがなかなかそうもいかなかったようです。</p>
<p>家出をしてまで国柱会に出入りし、法華宗を広めようとした賢治でした。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">宗教とは信じる道が人それぞれなので、それがいいとか悪いとかいう問題ではないですよね。</p>
<p>賢治には法華宗が一番の心のよりどころだったのでしょう。</p></div>
</div></div>
<h2>3行でわかる宮沢賢治のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>「雨ニモマケズ」という詩を書いた</li>
<li>「銀河鉄道の夜」という童話を書いた</li>
<li>優秀だったが体が弱かった</li>
</ul>
</div>
<p>「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」が有名で教科書にも載るほどの名作を残した宮沢賢治の生涯を見てきました。</p>
<p>これらの名作が彼の生前には全く売れていなかったこと、発表されていなかったことに驚きましたね。</p>
<p>妹を大切に思い、弟を可愛がり、父母に感謝していた賢治の心のやさしさが感じ取れるようでしたね。</p>
<p>埋もれていた彼の作品を広めてくれた草野心平に、我々もそして賢治自身も感謝の気持ちを忘れてはならないと思いました。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>野口英世は何した人？どんな人？功績や手のやけどなど</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/noguchihideyo/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/noguchihideyo/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 11 Nov 2020 02:33:10 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[大正時代]]></category>
		<category><![CDATA[昭和時代]]></category>
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					<description><![CDATA[学校で習った野口英世は、日本の代表的な医師であり研究者でした。 確かに特に伝染病の研究に熱心に取り組みノーベル賞の候補にもなった人です。 「医学の伝道師」と言われた野口英世ですが、その反面ルーズなところもあったようです。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>学校で習った野口英世は、日本の代表的な医師であり研究者でした。</p>
<p>確かに特に伝染病の研究に熱心に取り組みノーベル賞の候補にもなった人です。</p>
<p>「医学の伝道師」と言われた野口英世ですが、その反面ルーズなところもあったようです。</p>
<p>ここでは野口英世はどういう人物だったのか、彼の生涯を見ていきましょう。</p>
<h2>野口英世のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生誕：1876年11月9日</li>
<li>生誕地：福島県耶麻郡三ツ和村（現在の猪苗代町）</li>
<li>名前：野口清作（後に英世に改名）</li>
<li>没年：1928年5月21日（51歳没）</li>
</ul>
</div>
<h2>野口英世は何をした人？</h2>
<h3>貧乏な農家生活と火傷</h3>
<p>野口英世は父左之助と母シカの長男として生まれ清作と名付けられました。</p>
<p>父親の左之助は人はいいのですが、酒好きで怠け者でした。</p>
<p>ですから野口家はいつも生活に苦労していました。</p>
<p>野口は1歳の時、囲炉裏に落ち左手に大やけどをしてしまいます。</p>
<p>貧乏な野口家はそんな息子を医者にも見せてやれませんでした。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">母のシカは自分の落ち度で子供をこんな目に合わせてしまったと自らを責めたことでしょう。</div>
</div></div>
<p>1883年三ツ和小学校に入学しました。</p>
<p>左手の不自由な野口には農作業は無理だと考えた母は学業で身が立つようにと言い聞かせます。</p>
<p>野口自身も貧乏な農家を継ぐなんて死んだほうがマシだと姉に話したそうです。</p>
<p>手のことで「清ボッコ」といじめられていた野口は、成績は良く猪苗代高等小学校に入学できました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">野口の成績を惜しんだ教頭の小林栄の粋な計らいからだったそうです。</div>
</div></div>
<p>1891年野口は自分の障害を嘆く作文を書き、それが教師や同級生らの同情を誘いました。</p>
<p>そして左手の手術のための募金が集められたのでした。</p>
<p>翌年アメリカ帰りの医師渡部鼎（わたなべかなえ）に手術をしてもらい、不自由ながらも左手がなんとか使えるようになりました。</p>
<p>野口はこのことがきっかけで医師を目指すようになったのです。</p>
<h3>医師を目指して</h3>
<p>1893年学校を卒業した野口は渡部鼎の元で書生として住み込みで働きながら約3年半の間医学の基礎を学びました。</p>
<p>1896年に渡部の友人の歯科医で東京都港区の高山江東歯科医学院（現在の東京歯科大学）の講師・血脇守之助と出会います。</p>
<p>その年、小学校時代の恩師小林から40円もの大金を借りて上京し、医術開業試験の前期試験に合格しましたが、放蕩にふけりわずか2ヶ月で資金を使い果たしてしまったのです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">どうやら野口は囲碁や将棋が大好きで、その上飲み屋にまで通うようになっていたようです。</div>
</div></div>
<p>ドイツ語の勉強をしたかった野口は血脇に泣きつき、院長に掛け合い賃金を上げてもらうことに成功し、そのお金でドイツ語を習うことができました。</p>
<p>また、後期試験のために済生学舎（現在の日本医科大学）へ通うために血脇に頼み、血脇は院長から病院の経営を任せてもらうようになり野口は月に15円もの額を得ることができるようになりました。</p>
<p>1897年臨床試験で打診ができないことから、血脇の計らいで近藤次繁に左手の再手術を受け打診ができるようになり後期試験にも無事合格しました。</p>
<p>1898年からは<a href="https://rekishigaiden.com/kitazatoshibasaburo/">北里柴三郎</a>が所長を務める伝染病研究所（現在の東京大学医科学研究所）に勤めます。</p>
<p>語学が堪能なことから主に外国人相手の通訳等を担当しました。</p>
<p>この頃野口は坪内逍遥の「当世書生気質」を読み、ことば巧みに借金を繰り返し自堕落な生活を送る登場人物の野々口精作が自分の名前とよく似ており、またその所業も自分と重なるところが気に入らず、名前を清作から英世に改名しています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">英世という名は故郷の恩師小林から世に優れるという意味でつけてもらいました。</div>
</div></div>
<h3>アメリカへ</h3>
<p>1899年清国でのペスト対策として国際防疫班に選ばれますが、放蕩で資金がなくまた血脇に工面してもらい清国へ渡りました。</p>
<p>翌年義和団の乱が起こり清国の情勢が悪くなり、野口は帰国します。</p>
<p>この年医師を志す女学生の斉藤ます子と婚約し、その持参金を持ってアメリカへ渡航し、ペンシルベニア大学医学部の助手として蛇毒の研究に当たりました。</p>
<p>研究の結果を論文にまとめ、それは高く評価されました。</p>
<p>1903年にはデンマークのコペンハーゲンへ留学し、血清学の研究を続けいくつかの論文を発表しています。</p>
<p>1904年アメリカに戻った野口はロックフェラー医学研究所に勤務しました。</p>
<p>1905年には血脇が婚約者へ野口が持たせた持参金300円を返し、婚約を破棄しています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">血脇という人はどこまでいい人なのでしょうか。</div>
</div></div>
<p>1911年野口は京都帝国大学病理学教室に論文を提出し、<span class="marker">医学博士の学位を与えられました。</span></p>
<p>その年アメリカ人女性のメリー・ダージスと結婚しています。</p>
<p>1914年には東京大学より理学博士の学位を授与され、<span class="marker">ノーベル医学賞候補になりました。</span></p>
<h3>最後の帰国と晩年</h3>
<p>1915年野口は15年ぶりに日本へ帰国し、年老いた母親との再会を果たします。</p>
<p>またこの時にお世話になった小林と血脇に懐中時計を贈っています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">迷惑ばかりかけていた2人に恩は感じていたのでしょうね。</div>
</div></div>
<p>これが野口が日本に帰った最後となります。</p>
<p>またこの年2度目のノーベル医学賞の候補になっています。</p>
<p>1918年から黄熱病の病原体発見のためエクアドルへ派遣されます。</p>
<p>そしてレプトスピラ・イクテロイデスという病原体を発見し、3度目のノーベル医学賞候補となりました。</p>
<p>その後ペルーやメキシコ、アフリカなどへ病原体を探して各国を巡りましたが、1928年野口自身が黄熱病にかかりました。</p>
<p>一度は持ち直したものの再度病状が悪化し、病院で亡くなってしまうのでした。</p>
<p>彼はアフリカへ行くのを決めた時に</p>
<p>「私は何も恐れない。私はこの世に何かを成すために生まれてきたのです。もし死ぬべき時が来たらそれに従うだけです」</p>
<p>と言っています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">このことから野口英世という人物は命がけで研究をしていたことがわかりますね。</div>
</div></div>
<h2>野口英世のエピソード・逸話</h2>
<h3>戸籍の改名</h3>
<p>「当世書生気質」の登場人物が名前も行いも、自分と似ていたことから清作から英世に改名したのですが、戸籍を変えることは困難でした。</p>
<p>そこで別の集落に住んでいた清作という人に頼み込んで、自分の生家の近所にあった別の野口家へ養子に入ってもらい、2人目の野口清作を作り、同じ集落に同姓同名がいるのは紛らわしいと主張し戸籍の名前を変えることに成功したのでした。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">わざわざそんな手を使っても、清作でいたくなかったのですね。</p>
<p>それほど小説の中の野々口は自分と似ていて、それが恥ずかしかったのでしょう。</p></div>
</div></div>
<h3>血脇守之助との関係</h3>
<p>野口はお金に困ると血脇に泣きついていました。</p>
<p>これは野口の遊び好きのせいだったのですが、血脇は何度もその要求に応えています。</p>
<p>留学前に血脇にもらった500円という大金を放蕩で使い切ってしまったと聞いたときは流石に言葉を失うほど呆れたと言います。</p>
<p>1922年に血脇がアメリカを訪れた時、野口は大喜びで何日間も案内をして回ったそうです。</p>
<p>そして「私の大恩人の血脇守之助先生です」と紹介し、大統領にまで会わせたと言います。</p>
<p>別れ際に血脇が世話になったことで、これまでのことはお相子だと言ったら、野口は</p>
<p>「决して恩は忘れていません。昔のように清作と呼び捨てにしてください。その方が私はどんなにありがたいかしれません。」</p>
<p>と言い、改めて血脇に感謝を示したのでした。</p>
<h2>3行でわかる野口英世のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>病原体を求めてひたすら研究に打ち込んだ</li>
<li>幼い頃のやけどで左手が不自由だった</li>
<li>お金にだらしなく借金上手だった</li>
</ul>
</div>
<p>3度もノーベル医学賞の候補に上がりながらそれを得ることができなかった研究の虫とも言える野口英世の生涯を見てきました。</p>
<p>医学に対する気持ちはすごく立派なものですが、放蕩三昧だったことも驚きましたね。</p>
<p>それでもお金に困った時、何度でも支えてくれた小林先生や血脇先生のような人がいたことは彼にとってとても幸せなことでした。</p>
<p>きっと野口英世には、そこまでしても助けたくなるような魅力があったのでしょう。</p>
<p>そんな野口英世が千円札の肖像になっているのは何か皮肉な気がしますね。</p>
<p>研究していた途中に亡くなってしまったのはとても残念ですが、彼のことですからあちらの世でも、研究や囲碁に夢中になっていることでしょう。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>森鴎外は何した人？どんな人？舞姫・高瀬舟などの代表作が生まれた背景とは？</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/moriougai/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/moriougai/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 10 Nov 2020 01:40:45 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
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					<description><![CDATA[森鴎外といえば「舞姫」や「山椒大夫」などを書いた有名な小説家だと学校で習った人も多いでしょう。 そう、鴎外は明治から大正にかけて活躍した小説家です。 でも彼は小説家だけではなく、お医者さんでもあったのです。 医師の彼が小]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>森鴎外といえば「舞姫」や「山椒大夫」などを書いた有名な小説家だと学校で習った人も多いでしょう。</p>
<p>そう、鴎外は明治から大正にかけて活躍した小説家です。</p>
<p>でも彼は小説家だけではなく、お医者さんでもあったのです。</p>
<p>医師の彼が小説を書くようになったのは何故なのでしょう。</p>
<p>この記事では森鴎外についてその生涯を見ていくとしましょう。</p>
<h2>森鴎外のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生誕：1862年2月17日</li>
<li>生誕地：石見国津和野（現在の島根県津和野町）</li>
<li>名前：本名…森林太郎</li>
<li>死没：1922年7月9日（60歳没）</li>
</ul>
</div>
<h2>森鴎外は何をした人？</h2>
<h3>期待された幼少期から軍医へ</h3>
<p>森鴎外は津和野藩の藩医・森静泰（後に靜男に改名）と峰子の間に長男として生まれました。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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<div class="balloon-content">森家は祖父と父は婿養子だったので、久々に跡継ぎが誕生して喜ばれました。</div>
</div></div>
<p>藩医の家にふさわしく、幼い頃から論語や孟子、その上オランダ語まで学び、四書五経も複読できるほど優秀な子供で家族の期待を一身に背負っていました。</p>
<p>1872年鴎外が10歳の時、廃藩置県をきっかけに父と上京し墨田区東向島に住むようになります。</p>
<p>翌年には残る家族も津和野を離れ上京し、父の経営する医院がある千住に移り住みました。</p>
<p>1873年鴎外は年齢を2歳多く偽り第一大学区医学校（現在の東京大学医学部）予科に12歳で入学します。</p>
<p>後に本科に進みドイツ人教官たちの講義を受ける一方で、佐藤元長について漢方医書を読み、漢詩や漢文に傾倒し和歌を作ったりしていました。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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<div class="balloon-content">佐藤元長は医師であり、鴎外の漢詩や漢文の師でした。</div>
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<p>1881年に本科を卒業し、父の病院を手伝っていましたが陸軍省へ入ることになり、<span class="marker">陸軍軍医副（中尉相当）隣東京陸軍病院に勤務することになりました。</span></p>
<h3>ドイツ留学へ</h3>
<p>1884年ドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるために<span class="marker">ドイツ留学をすることになります。</span></p>
<p>鴎外はフランスのマルセイユを経由してベルリンに到着します。</p>
<p>最初の1年を過ごしたライプツウィヒでは、生活に慣れていない鴎外を昼食と夜食をとっていたフォーゲル家の人たちが支えました。</p>
<p>また下宿人達とも親しく付き合っています。</p>
<p>次の滞在先のドレスデンでは主に軍医学講習会に参加しました。</p>
<p>王室関係者などとの交際が多く、王宮の舞踏会や宮廷劇場などに出入りしていました。</p>
<p>ここで鴎外はザクセン王国軍医監ウィルヘルム・ロートとヴィルケをいう大切な友人を得ています。</p>
<p>次に訪れたミュンヘンでは洋画家の原田直次郎などと交際をしました。</p>
<p>次のベルリンでも、<a href="https://rekishigaiden.com/kitazatoshibasaburo/">北里柴三郎</a>に会い、細菌学の勉強をしています。</p>
<p>ウィーンに移動した鴎外らは、万国衛生会に日本代表として参加してから、帰国の途につきました。</p>
<h3>帰国後の評論と翻訳活動</h3>
<p>1889年に「読売新聞」の付録として「小説論」を書いたのをきっかけに、鴎外は次々と評論や翻訳を始めます。</p>
<p>特に翻訳では「即興詩人」や「ファウスト」などが有名です。</p>
<p>そして<span class="marker">「舞姫」</span>を「国民之友」に発表し、「うたかたの記」「文づかひ」の三作品をドイツ三部作と呼ばれるようになります。</p>
<p>このドイツ三部作を巡って石橋忍月と論争をし、「しがらみ草紙」では坪内逍遥の記実主義を批判し、没理想論争を繰り広げています。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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<div class="balloon-content">ちなみにこの年鴎外は赤松登志子という女性と結婚していますが、1年半ほどで別れています。</div>
</div></div>
<h3>日清戦争へ</h3>
<p>1894年日清戦争が起こり、翌年下関条約の後鴎外は台湾での勤務を命じられています。</p>
<p>4ヶ月ほどの台湾勤務でした。</p>
<p>帰京した鴎外は1896年に幸田露伴らと「卍」を創刊しています。</p>
<p>1899年鴎外は小倉に左遷されます。</p>
<p>この小倉時代で、鴎外は社会の周縁ないし底辺に生きる人々への親和や慈しみの眼差しを得るようになっていました。</p>
<p>1902年18歳年下の荒木志げと見合い結婚をしています。</p>
<h3>軍医として、作家として</h3>
<p>1904年から1906年まで日露戦争に第2軍軍医部長として出征していた鴎外は1907年に陸軍軍医総監に昇進し陸軍省医務局長、つまり<span class="marker">軍医のトップに就任しました。</span></p>
<p>その一方では1909年に「スバル」が創刊されると、「半日」や「ヰタ・セクスアリス」「青年」などを次々と発表しました。</p>
<p>1911年には「カズイスチカ」や<span class="marker">「雁」</span>など精力的に書いていきました。</p>
<p>1912年乃木希典が<a href="https://rekishigaiden.com/meijitenno/">明治天皇</a>に殉死したことを受け、「興津弥五右衛門の遺書」を書き、それを機に歴史小説に進み、「阿部一族」や<span class="marker">「山椒大夫」「高瀬舟」</span>などを書いています。</p>
<h3>晩年の鴎外</h3>
<p>1916年に鴎外は陸軍省医務局長を8年半勤めて退任し、予備役に編入となりました。</p>
<p>1918年には帝国美術院（現在の日本芸術院）の初代院長に就任しました。</p>
<p>鴎外は「明治」と「大正」の元号に否定的だったため、天皇の諡（おくりな）と元号の考証と編集に着手しました。</p>
<p>しかしこの頃結核を患っていた鴎外は病状の悪化により、後を吉田増蔵に託すことにします。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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<div class="balloon-content">この吉田増蔵が次の「昭和」の元号を提出したのでした。</div>
</div></div>
<p>そして鴎外は、肺結核と腎萎縮のために1922年家族と親友らが見守る中息を引き取ります。<br />
満60歳でした。</p>
<h2>森鴎外のエピソード・逸話</h2>
<h3>ドイツでの恋</h3>
<p>鴎外がドイツから帰国直後、ドイツ人女性が日本を訪れ1ヶ月ほど滞在していたという出来事がありました。</p>
<p>ベルリンで鴎外と交際していた女性が彼を追いかけてきたものの、話し合いの結果帰国することになったのです。</p>
<p>この話は鴎外の有名作「舞姫」の題材の一つになりました。</p>
<p>ドイツと日本に別れていても、2人は文通をするなど生涯その女性を忘れることはなかったといいます。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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<div class="balloon-content">「舞姫」は日本人とドイツ人の恋を描いていますから、当時の人々にはとてもセンセーショナルな物語でした。</div>
</div></div>
<h3>脚気の研究の誤り</h3>
<p>当時は脚気で亡くなる人が年間で1万人から2万人もいたそうです。</p>
<p>鴎外は脚気被害をなくすため努力し、後世に貢献したと言われていますが実はそうではないようです。</p>
<p>脚気はビタミンB1欠乏症のために起こる病気で、放っておくと死に至ります。</p>
<p>しかし当初鴎外は脚気を細菌によるものだと言い、白米を食べることが日本人で、パンを食べるのが西洋人だと誤った考えを唱えます。</p>
<p>その結果日露戦争では傷病者35万人のうち25万人が脚気患者となる驚くような状況にまでなっていたのでした。</p>
<p>1926年鴎外の死後、ビタミンB1が発見され、その欠乏により脚気が起こることがやっと判明しました。</p>
<p>ビタミンB1は、白米以外の麦や肉や魚などほとんどの食品に含まれています。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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<div class="balloon-content">白米だけではなく、バランスの良い食事をとることが一番の解決策だったのですね。</div>
</div></div>
<h3>大の甘党</h3>
<p>鴎外はお酒は飲めませんでしたが、アンパンや、焼き芋が大好きでした。</p>
<p>「饅頭の茶漬け」という独自の料理を好み、ご飯の上に四等分した饅頭を乗せ、お茶をかけて食べていたそうです。</p>
<p>本人は「渋く粋な甘み」と言っていたらしいです。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">あまり試してみたくはないですね。</div>
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<h2>3行でわかる森鴎外のまとめ</h2>
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<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>「舞姫」や「山椒大夫」などを書いた小説家</li>
<li>小説家だけではなくトップクラスの軍医だった</li>
<li>ドイツ留学が作家として目覚めさせた</li>
</ul>
</div>
<p>軍医として小説家として精力的に生きた森鴎外の生涯を見てきました。</p>
<p>幼少時代から頭が良く、若くして大学まで進み、医師にまでなった鴎外。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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<div class="balloon-content">正直筆者は森鴎外が、軍医のトップまで行った人だとは知りませんでした。</div>
</div></div>
<p>小説で「舞姫」や「高瀬舟」などを読んでいたので、すっかり有名な小説家だとばかり思っていました。</p>
<p>しかし、軍医として活躍していた一方であれだけの小説を書いていた森鴎外はすごいとしか言いようがありません。</p>
<p>いつそんなに小説を書く時間があったのでしょうか。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">きっと鴎外は物を書くことがすごく好きで、楽しかったのでしょうね。</div>
</div></div>
<p>ちょっと硬いイメージの鴎外も、饅頭茶漬けを好むところなんかは親しみを感じました。</p>
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