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江戸時代

坂本龍馬ってどんな人?わかりやすく簡単にまとめてみました

坂本龍馬

みなさんが一番好きな歴史上の偉人は誰ですか?

様々な偉人が上がると思いますが、「坂本龍馬」を上げる人は多いのではないでしょうか?

その生き様から人気の高い人ですし、関連書籍も数えられないくらい出版されています。

しかしそのあまりにも高いネームバリューの割には、具体的にどんなことをしたのかを知っている人は実はあまりいないのではないですか?

この記事ではみんな大好き、坂本龍馬について簡単にご紹介したいと思います。

坂本龍馬のプロフィール

■1835年(天保6) 
土佐藩士坂本八平直足の次男、5人兄弟の末っ子として誕生しました。
比較的裕福な家庭に生まれましたが、幼少期は泣き虫だったそうです。

■14歳頃に剣術を始める。

■1853年(嘉永6) 
19歳で江戸の北辰一刀流千葉道場に入門します。
ちょうど同じ年にペリーが黒船で来航しました。
これにより龍馬も土佐藩士として、江戸の警備に当たりました。

■1862年(文久元)
龍馬は故郷である土佐藩から脱藩します。
そして江戸で幕臣の勝海舟の門下に入り、思想的影響を受けました。

■1866年(慶応2)
犬猿の仲にあった、薩摩藩と長州藩との同盟成立に奔走します。(薩長同盟)

■1867年(慶応3)10月15日 
龍馬が提唱したとされる、大政奉還が成立。

■同年11月15日
近江屋において、中岡慎太郎とともに暗殺される。

坂本龍馬は何をした人?

プロフィールではさらっと書いてしまいましたが、龍馬の功績で最も有名なのが『薩長同盟』『大政奉還』です。

歴史の授業で習って名前は知っている!という方がほとんどではないでしょうか?

では、この2つの大事件はどのようなもので、龍馬はどのように関わっていたのか見ていきましょう。

薩長同盟

先にも触れたように、当時薩摩藩と長州藩は犬猿の仲でした。

どうしてそうなったかと言うと、まずペリー来航以来揺らぎつつある鎖国に対する両藩の考え方に違いがありました。

薩摩は開国路線を支持しており、これは幕府寄りの考え方でした。

一方の長州は外国人を即刻排除するべきだと考える、攘夷の急進派でした。

1863年(文久3)、このような時代にそぐわない考え方をする長州を、薩摩は会津藩と一緒に京都から追放します。(八月十八日の政変)

翌1864年(元治元)、長州は勢力を回復させるために出兵しますが、池田屋事件に始まり、薩摩・会津・桑名藩に敗れ、再び京都を退きます。(禁門の変)

このように、薩摩と長州は思想の違いから争いを繰り返し、両藩の間には大きな亀裂が生じていました。

この状態を修復の方向に導く手助けをしたのが、坂本龍馬です。

長州は幕府と対立し、薩摩は幕府方に付いていると一見見えますが、実は薩摩も全面的に幕府に服従していたわけではありませんでした。

この頃の薩摩はイギリスから武器を輸入しており、藩の財政は潤っていました。

そんな薩摩を幕府は警戒し、薩摩の力を抑えるために長州征討を命じました。

しかし薩摩は長州と戦うことに消極的でした。

長州と戦えばお金もかかるし、兵力も消耗するからです。

長州とは戦いたくないけど、幕府の命令を拒否するわけにもいかない、というのが当時の薩摩がおかれた状況でした。

一方長州はというと、禁門の変により朝敵とされたため、武器の購入を禁止されていました。

禁門の変の後、外国からも攻撃を受け、長州はかなり疲弊していました。

武器がないとまた誰かに攻撃をされても戦えないし、倒幕もかないません。

幕府に見つからずに武器を手に入れて、軍事力をつけたいというのが長州の思惑でした。

そこで一役買ったのが、坂本龍馬が結成した「亀山社中」です。

亀山社中は日本で初めての株式会社です。

亀山社中は長崎のグラバー商会と銃器の取引を行っており、買い付けた銃器を藩に卸していました。

龍馬は薩長の和解を目的に、グラバー商会から薩摩名義で大量の武器を購入し、それを長州に引き渡す仲介をしたのです。

長州としては、これはかなり助かったはずです。

このような龍馬率いる亀山社中の働きの甲斐あって、両藩の関係は修復に向かい、薩長同盟の場が設けられることとなったのです。

大政奉還

大政奉還とは簡単に言えば、幕府が政権を天皇に返上することです。

同盟を結んだ薩摩と長州は倒幕を武力で実現しようとしていました。

しかしそれでは困る人たちがいたのです。

それは山内容堂率いる土佐藩でした。

土佐藩は長州・薩摩と足並みを揃えながらも幕府を擁護するという立場に立っていたからです。

この土佐藩の困った状況を解決に導いたのは、またしても坂本龍馬でした。

龍馬はこのとき「船中八策」と呼ばれる大政奉還や五箇条のご誓文の基本構想案を起草していました。

これには平和的政権移譲についてや、新政府運営についてまとめられていました。

これを知った土佐藩の後藤象二郎が山内容堂を説得し、薩摩を引き込んで大政奉還の建白書を徳川慶喜に提出、そして大政奉還が実現したのです。

ただし、大政奉還論は龍馬のオリジナルではなく、勝海舟らが提唱していたものです。

これを聞いていた龍馬が戦をすることなく、幕府を解体するための切り札として温めていた構想です。

坂本龍馬のエピソード・逸話

幼少期は落ちこぼれだった

薩長同盟や大政奉還実現に尽力し、その名を歴史に残した坂本龍馬ですが、幼少期はいわゆる落ちこぼれでした。

幼い頃は臆病で泣き虫な子で、10歳を過ぎても寝小便が治らず、「よばあ(寝小便)たれ」と呼ばれていじめられていました。

12歳の頃には楠山庄助塾に入門しましたが、あまりの出来の悪さにすぐに退塾させられたと言われています。

また泳ぐことができなかったため、姉の乙女に特訓と称して腰を縄で結び反対の縄の先を竹竿に結びつけ、家の近くを流れる鏡川に投げ入れられたというエピソードも残っています。

巨体で剣術が得意だった

学問と泳ぎは苦手だった龍馬ですが、剣術は得意だったと言われています。

14歳の頃に地元の日根野道場に通い、剣術の稽古を受けます。

厳しい修行の末、「小栗流和兵法事目録」を授けられ、その頃には身長170cm前後、体重は80㎏あったと言われています。

まさむね
まさむね
当時の日本人男性の平均身長が155cmくらいなので、大男の部類に入るでしょう。

こうして龍馬は外見も中身も鍛えられた、強くてたくましい男子に成長しました。

2行でわかる坂本龍馬のまとめ

まとめ
  • 薩長同盟の仲介をした
  • 江戸幕府を大政奉還へ導いた

龍馬を語る上で、欠かせないのはこの2点でしょう。

どちらも日本の歴史が変わった大事件です。

その2つともに龍馬は大きく関わり、その実現に尽力しました。

そんな大偉業を成し遂げた龍馬ですが、幼少期は落ちこぼれだったという一面もあります。

まさむね
まさむね
そういうエピソードも龍馬が愛される一因なのかもしれませんね。

一時期坂本龍馬が歴史の教科書から消える、というニュースもありましたが、歴史学的にどうあれ、龍馬は教科書に残してほしい!という方は多いでしょう。

それだけ龍馬は日本人に愛されているという証拠です。

これから歴史を学ぶ世代の子供たちにも末永く龍馬について語り継いでほしいですね。

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