江戸時代

木戸孝允ってどんな人?わかりやすく簡単にまとめてみました

木戸孝允

維新三傑の一人、木戸孝允(きど たかよし)。

しかし他の二人、西郷隆盛と大久保利通と比べるとちょっと影が薄い印象ですよね。

果たして木戸は西郷と大久保と肩を並べる程の大人物だったのでしょうか。

この記事では木戸孝允がどのような人物で、どのような功績を残したかをご説明します。

木戸孝允のプロフィール

  • 1833年(天保4)6月26日誕生
  • 旧名 桂小五郎
  • 長州藩の指導者
  • 明治期の政治家
  • 吉田松陰に教えを受ける
  • 薩長同盟を締結する
  • 明治政府で総裁局顧問専任に就任する

木戸孝允は何をした人?

ここからは木戸孝允の生涯と功績について見ていきたいと思います。

誕生

1833年6月26日、長州藩藩医和田昌景の長男として木戸孝允は誕生しました。

しかし、生まれつき体が弱く、この子は長くは生きられないだろうと思われていました。

そのため、長男ながら跡継ぎにはならず、和田家のお向かいさんの桂家に養子に入れられました。

剣豪としての木戸孝允

1846年(弘化3)に内藤作兵衛の道場に入門します。

1848年(嘉永元)に元服し、桂小五郎となってからも一層剣術に励みました。

そして剣術の腕が認められ、1852年(嘉永5)に剣術修行のため江戸留学を許可されます。

江戸では三大道場の一つ、神道無念流の練兵館に入門し、斎藤新太郎の指導を受けました。

1年で免許皆伝を得、塾頭にまでなったそうですから、木戸の剣術の腕前は相当なものだったことがわかります。

藩命で帰郷するまでの5年間、塾頭を務めました。

吉田松陰と木戸孝允

剣術に励む一方で、木戸は勉学にも力を入れていました。

1849年(嘉永2)に藩校の明倫館で吉田松陰から教えを受けました。

ただ、木戸は吉田松陰が主宰する松下村塾には通ってはいません。

二人は師弟関係であると同時に、親友でもありました。

吉田は木戸のことを高く評価しており、木戸には剣術だけではなく、勉学の才能もあったことがわかります。

八月十八日の政変

1863年(文久3)5月、藩命により京都に上り、破約攘夷活動を行います。

破約攘夷とは、井伊直弼が朝廷の許可なく結んだ日米修好通商条約をなかったことにしよう、という考え方です。

当時の長州は急進攘夷の思想が中心でした。

まさむね
まさむね
よく誤解されるのですが、木戸や高杉晋作は破約攘夷に対しては慎重派でした。

しかし藩命には逆らえないため、破約攘夷の活動を行っていたにすぎないのです。

ところが長州の過激な思想に危機感を持った薩摩藩と会津藩により、長州の志士たちは京都を追い出されてしまいます。

木戸も長州のリーダー格として命を狙われるようになり、京都で潜伏生活を送ります。

翌年には池田屋事件が起こり、これをきっかけに長州は京都に攻め上りますが、敗北を喫しました(禁門の変)。

この時木戸は長州の立場回復のためにひそかに暗躍しますが、失敗に終わりました。

薩長同盟

第一次長州征討の後、長州は幕府に恭順する派閥が主導権を握りました。

しかし高杉晋作がリーダーとなってこれを倒したため、長州は再び幕府に対立する派閥が主導権を握ります。

そして木戸が生きて潜伏していることを知った高杉は、木戸を探し出し、長州藩の統率者として迎え入れました。

木戸が指導者となった長州は、幕府に対して一旦は恭順的な態度を取りつつも、いつでも戦えるように藩政改革、軍制改革を進めていました。

しかし当時の長州は禁門の変の始末として、武器の購入が禁止されていました。

何とかして武器を手に入れたい長州にある話を持ってきたのが坂本龍馬でした。

その話が薩長同盟です。

木戸は薩摩の西郷隆盛と会談し、薩長同盟を実現させました。

こうして長州は薩摩を通して武器を手に入れることに成功したのです。

まさむね
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この薩長同盟を機に時代は明治へと大きく舵を切ることとなりました。

五箇条のご誓文

薩長同盟締結の後、大政奉還、王政復古、鳥羽伏見の戦いと日本は激動の時代へと突入しました。

戊辰戦争の最中、1868年(慶応4)3月14日に木戸の発案から五箇条のご誓文が布告されました。

五箇条のご誓文は由利公正が起案し、福岡孝弟が修正し、そこに木戸が加筆・修正を加えています。

内容はざっくり言うと、「身分に関係なく政治に参加し、天皇陛下中心に日本を発展させよう」というものでした。

まさむね
まさむね
これはそれまでの封建制度を否定し、新たな政権を担う明治政が打ち出した重要な方針と言えます。

版籍奉還と廃藩置県

版籍奉還とはそれまでは藩のものだった土地と人を、天皇に返還することです。

また、廃藩置県はその名の通り、藩を廃止し新たに府県を置くことです。

これにより、それまで代々続いてきた大名家から土地も兵力引き剥がされ、武士は大名から給料をもらえなくなるわけですから、廃業せざるを得なくなりました。

当然大きな反発がありましたが、木戸は欧米列強に追いつくためにはこの二つの政策は不可欠とし、断行したのです。

晩年

1874年(明治7)に台湾出兵が決定すると、これに抗議して参議を辞職します。

翌年には復帰しますが、この頃には体調不良に悩まされていました。

1877年(明治10)に西南戦争が勃発すると、西郷征討を願い出、京都に出張します。

しかしこの時病状が悪化し、そのまま還らぬ人となりました。

最期は朦朧とする意識の中、大久保の手を握りながら「西郷もいいかげんにしないか」と、西郷を案ずる言葉を発したと言います。

享年43歳でした。

木戸孝允のエピソード・逸話

若い頃から頭角を現し、カリスマ的な存在だった木戸孝允ですが、実際はどのような人だったのでしょうか。

ここからは木戸の幼少期や、人となりがわかるエピソードをご紹介します。

いたずら好きな幼少期

木戸は病弱だった他方、いたずら好きな少年でした。

まさむね
まさむね
萩城下の松本川を行き来する船を船頭ごと転覆させて快哉を叫ぶといういたずらに熱中していたと言いますから、なかなかやんちゃだったようです。

ある時、水面から顔を出し船縁に手をかけたところを、業を煮やしていた船頭に櫂で頭を叩かれてしまいます。

しかし、岸に上がると額から血を流しながらもニコニコ笑っていたと言います。

このときの額の三日月形の傷跡が大人になっても古傷として残っていました。

誰の家でも訪ねて行ってしまう

木戸は立場に関わらず、目下の者の家でも気軽に訪ねて行く一面がありました。

ある朝、平田東助という人物の下に木戸が訪ねてきた時、平田は一書生の自分のところに木戸が訪ねてくるわけがないだろうと、最初は信じませんでした。

しかし半信半疑で覗いてみると、本当に木戸がいるのです。

ところが家が狭くて応接間がなかったので、平田は敷いていた布団を庭に放り捨てて木戸を迎え入れたという逸話が残されています。

まさむね
まさむね
立場に関係なく誰ともざっくばらんに接していたという、木戸の人柄がわかりますね。

でも現代に置き換えると、上司や先輩が急に家に訪ねてくるということですから、訪ねられた方は戸惑いますよね。(笑)

4行でわかる木戸孝允のまとめ

まとめ
  • 若い頃から剣術にも勉学にも秀でていた
  • 長州を先導し、薩長同盟を結んだ
  • 五箇条のご誓文を発案した
  • 版籍奉還・廃藩置県の実施に尽力した

長州を討幕へと導いた木戸は武士しか政治ができなかった日本を変え、身分に関わらず誰でも政治ができる日本を目指しました。

残念ながら若くしてこの世を去りましたが、亡くなるまでに残した功績は西郷や大久保にも引けをとらないくらい、大きなものです。

木戸の存在が日本の近代化に大きな進歩をもたらせたのは間違いありません。

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