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江戸時代

吉田松陰ってどんな人?わかりやすく簡単にまとめてみました

吉田松陰

吉田松陰と聞いて、真っ先に思いつくのは「安政の大獄」という人は多いのではないでしょうか。

確かに、安政の大獄で処刑された人物として最初に挙げられるのは吉田松陰でしょう。

しかし吉田松陰がどのような人物だったかを知っている人はほとんどいないのではないでしょうか?

この記事では吉田松陰がどのような人物で、どのような生涯を送ったかをご紹介したいと思います。

吉田松陰のプロフィール

  • 1830年(文政13)8月4日誕生
  • 幕末期の思想家・教育者
  • 松下村塾にて伊藤博文、山形有朋、高杉晋作などの人材を育成する
  • 安政の大獄により処刑
  • 1859年10月27日死去 享年30歳

吉田松陰は何をした人?

吉田松陰の生涯は短く、たったの30年でした。

ではその短い人生の中で、松陰が具体的に何をしたのかを見ていきましょう。

幼少期

長州萩城下で長州藩士・杉百合之助の次男として吉田松陰は生まれました。

子供の頃は寅次郎と呼ばれていました。

幼少の頃に叔父で山鹿流兵学師範だった吉田大助の養子となりますが、すぐに叔父が亡くなったため、5歳で吉田家の家督を継ぐことになります。

その後同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けます。

まさむね
まさむね
松下村塾は松陰が開いたものだと勘違いをしている人が多いと思いますが、実は松下村塾を開いたのは叔父の文之進で、松陰はその後を継いだ形になります。

9歳には藩校の明倫館で兵学師範になり、11歳には藩主・毛利慶親の前で講義を行い、その出来栄えを称賛されています。

元々頭の良い子供だったこともあるでしょうが、松陰が幼くして実績を残せたのは叔父・玉木文之進の厳しい指導の賜物でもありました。

破天荒な松陰先生

1852年(嘉永5年)、かねてより交流があった宮部鼎蔵と東北旅行を計画します。

この時代、藩の外に出るには藩の許可が必要でした。

松陰も通行手形の申請を行っていたのですが、約束した出発の日に発行が間に合わないことがわかりました。

しかし出発の日をずらせばいいものの、松陰は発行を待たずに東北旅行に出発してしまいます。

そのため江戸に帰着すると、無断で藩を出た罪に問われ、士籍剥奪・世禄没収の処分を受けました。

1854年(安政元)にはアメリカのペリーが再来航しており、黒船の一つに忍び込み、密航を企てたこともありました。

結局アメリカ側に乗船を拒否され、投獄されてしまいます。

まさむね
まさむね
罪になるとわかっているのに、無謀ともとられかねない行動をとってしまうところに吉田松陰の非凡な行動力を感じますね。

松下村塾

翌年に出獄を許された松陰でしたが、自由行動は許されず実家の杉家に幽閉されます。

1857年(安政4)に叔父が主宰していた松下村塾を引き継ぎ、杉家の敷地内で松下村塾を開講します。

この松下村塾には伊藤博文、山形有朋、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿など幕末、明治に活躍した面々が通っていました。

安政の大獄

1858年(安政5)、幕府は朝廷の許可なく日米修好通商条約を締結してしまいます。

これに対して攘夷思想を持っていた松陰は激怒し、老中間部詮勝の暗殺計画を立てます。

しかしこの計画は周りの賛同を得られず、失敗に終わりました。

翌年、幕府は反幕府思想の持ち主を次々と弾圧します(安政の大獄)

これに松陰も連座します。

ただ、松陰が捕まった理由は儒学者の梅田雲浜に関係が深かったのではないかという疑いをかけられたからであり、上記の計画がバレたからではありませんでした。

しかし松陰は老中暗殺計画を立てていたことを、自ら告白してしまいます。

その結果、松陰には斬首が言い渡され、1859年(安政6)10月27日に執行されました。

こうして松陰は30歳という若さで生涯の幕を閉じました。

吉田松陰のエピソード・逸話

松陰の功績は多くの有能な人物を教育し、輩出したことにあります。

しかも松陰が教えたのはたった2年余りです。

では松陰が主宰した松下村塾ではどのような教育が行われたのでしょうか?

以下で見ていきたいと思います。

講義の内容

講義といえば、壇上に先生が立って生徒に対して一方的に話すというイメージがありますよね。

松下村塾の基本は先生・生徒全員参加型の討論形式でした。

また教室で文学を学ぶだけでなく、生徒たちと登山や水泳も行う「生きた学問」でした。

このような形式にとらわれないやり方のなかで、生徒だけでなく松陰も共に学んでいったのです。

規則はなかった

松下村塾には時間割もなければ、登校の義務もありませんでした。

テストもなかったし、簡易な通信簿はありましたが特に重要視されませんでした。

まさむね
まさむね
なんだかうらやましいですね。

塾生が集まれば講義が始まり、活発な議論が交わされました。

また松下村塾では身分や年令による縦割りの意識、上下関係を一切捨て去り、自由闊達な議論と討論が行われました。

このように、従来の教育方法とは全く違ったやり方で松陰は多くの生徒たちを教えました。

まさむね
まさむね
この指導方法のおかげで幕末に活躍した活動家や、明治政府の中心人物を輩出することができたのでしょう。

5行でわかる吉田松陰のまとめ

まとめ
  • 幼少期から学問に非凡な才能があった
  • 行動力が図抜けていた
  • 松下村塾で有能な人材を指導した
  • 講義は討論が中心だった
  • 30歳という若さで処刑された

松陰の生涯は30年と言う短いものでしたが、濃厚な30年だったと言えるでしょう。

松下村塾においても、たった2年余りであれだけの人材を育てたというのは驚きです。

吉田松陰は歴史の本流とは少し離れたところにいた人物かもしれません。

しかし彼が指導した人々は、見事に歴史を動かす人材になりました。

彼らを育てた松陰の功績は、決して小さいものではありません。

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