江戸時代

大久保利通ってどんな人?あまり語られていない西郷隆盛との関係とは?

大久保利通

西郷隆盛木戸孝允と並んで維新三傑の一角を担うのが大久保利通です。

最近放送された大河ドラマでもヒール役として描かれているように、西郷・木戸に比べて大久保はあまり人気がありません。

むしろ嫌われていると言っていいかもしれません。

しかし、大久保がいなければ江戸幕府滅亡の後の日本は立ち行かなかったでしょう。

明治維新の一番の功労者は間違いなく大久保利通です。

では、そんな彼がなぜ嫌われているのか、実際はどのような人物だったのかを大久保の生涯と功績を見ながらご説明します。

大久保利通のプロフィール

  • 1830年(文政13)8月10日、薩摩藩(現在の鹿児島県)に生まれる。
  • 幼名 一蔵
  • 幕末~明治初期の政治家。
  • 明治維新の指導者。
  • 1878年(明治11)5月14日、不平士族に暗殺される。享年49歳。
  • 維新三傑の一人。

大久保利通は何をした人?

ここからは大久保利通の生涯と、その功績について見ていきたいと思います。

キャリアの始まり

1846年(弘化3)、18歳の時に薩摩藩の記録所役助の職に就きます。

ここから大久保のキャリアは始まりました。

しかし1850年(嘉永3)、21歳の時に「お由羅騒動」と呼ばれる、藩主・島津家のお家騒動に巻き込まれ、父親とともに罷免されてしまいます。

3年後に島津斉彬が藩主になるとともに復帰しますが、その間の大久保家は貧しい生活を強いられました。

斉彬の死後は新藩主・島津茂久の実父であり、薩摩藩の最高権力者の島津久光の下でその能力を発揮します。

公武合体から討幕へ

当初大久保は島津久光の下で公武合体路線を指向していました。

公武合体とは、朝廷の伝統的権威と幕府及び諸藩を結び付けて、政治を立て直し、外国からの脅威に立ち向かおうという考え方です。

しかし大久保のこの考え方に転機が訪れます。

1867年(慶応3)5月に薩摩藩主導で、四侯会議が開かれます。

この会議で政治的主導権を幕府から雄藩連合が奪取し、朝廷中心の政治体制へ変換する計画でした。

しかしこれを徳川慶喜に邪魔され、失敗してしまいます。

このことから、大久保は今までの公武合体路線の指向を改め、武力討幕へと考え方を変えたのです。

討幕の詔(密勅)から王政復古

四侯会議が行われた年の10月14日に大久保は討幕の詔(密勅)を引き出すことに成功します。

討幕の詔とは、天皇が薩長に「幕府を倒しなさい!」と命令した詔書のことです。

これにより、薩長は武力で幕府を倒す大義名分を得たのです。

しかし、これをまたしても徳川慶喜に邪魔されます。

慶喜は大政奉還により、討幕の大義名分を潰してしまったのです。

大政奉還とは、「幕府が政権を朝廷に返しますよ」ということです。

薩長が倒そうとした幕府には政権がないのですから、薩長にとって幕府を攻撃する理由がなくなってしまったのです。

武力による討幕を目指していた薩長は肩透かしを食らった状態です。

そこで同年12月9日、岩倉具視らと王政復古のクーデターを画策し、幕府の廃止と新政府の樹立を宣言し、これを以て江戸幕府の終わりと明治の始まりを迎えました。

版籍奉還と廃藩置県

1869年(明治2)、参議に就任し、以下の政策を実施しました。

  • 版籍奉還・・・人や土地を天皇に返すこと
  • 廃藩置県・・・藩を廃止し、府県を置く

これらの政策により、それまでは藩がそれぞれ独立国家のような状態だったのが、明治政府の中央主権体制へと変わりました。

しかし、それは同時に武士の失業を意味していました。

討幕は武士の力によって成し遂げられたものだったにも関わらず、武士から職を奪ってしまったのです。

当然、武士は反発します。

しかし大久保は日本の近代化を最優先に政策を進めていくのです。

盟友西郷との別れ

1871年(明治4)、大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として外遊します。

しかし外遊中に朝鮮出兵を巡る征韓論争が起こり、西郷・板垣らと対立します。

西郷らは朝鮮への出兵を主張しましたが、大久保ら外遊組は今朝鮮と戦争をすると、欧米列強に付け入る隙を与えてしまうと判断し、これを強硬に反対しました。

この結果、西郷・板垣らは下野します。

これにより、幼い頃から共に歩んできた薩摩隼人二人は決別してしまうのです。

富国強兵を掲げて

1873年(明治6)、内務省を設置し、自ら内務卿に就任します。

この頃に学制・地租改正・徴兵制を実施します。

そして富国強兵をスローガンに、殖産産業を推進していきます。

こうした政策により、日本の近代化は更に加速していきました。

しかし内務卿に就任したことにより、大久保の独裁政権のような状態になってしまい、周りからの反発がありました。

板垣退助は議論による政治、つまり日本の民主主義化の推進を訴え、木戸孝允は憲法の制定が先決と主張していました。

しかし大久保は殖産興業こそ最重要課題と考え、産業の促進により欧米列強に負けない強い日本を作ることを第一に考えたのです。

しかしこの専制政治に近いやり方が、のちに悲劇を生んでしまいます。

西南戦争、そして暗殺

1877年(明治10)、西郷隆盛をリーダーとした西南戦争が勃発します。

それまでも士族による反乱はありましたが、これが最大の武士の反乱であり、そして最後の内乱でした。

かつては討幕、そして明治維新へと共に邁進した二人でしたが、西南戦争の勃発により、大久保は西郷を打倒します。

この悲劇的な出来事も一因となり、1878年(明治11)大久保は不平士族に襲撃され、暗殺されてしまいました。

産業の推進により、欧米列強に負けない日本を作るために反発を受けながらも邁進してきた大久保でしたが、ここで凶刃に倒れることとなりました。

大久保利通のエピソード・逸話

ここからは大久保の人物像について見ていき、嫌われている理由とその真偽について説明したいと思います。

最期は借金まみれだった

内務卿に就任し、独裁のような形で殖産興業を推進していた大久保でしたが、決して私腹を肥やすようなことはしませんでした。

大久保の死後、彼の資産は140円だけ、対して借金が8000円あったと言います。

この借金は実は、大久保が近代日本を作るために私財を投じていたためにできたものでした。

大久保が暗殺された理由の一つに「私腹を肥やしている」というものがあったのですが、とんだ濡れ衣だったのです。

そして大久保が借金していた相手は、大久保がなぜ借金をするのか知っていました。

そのため、大久保の死後でも遺族に借金の取り立てをしなかったといいます。

まさむね
まさむね
当時の大久保を知る人は彼を「清廉潔白」、「私欲のない人」と評価しています。

大久保は独裁的な政治手法で多くの敵を作りましたが、それもひとえに日本の近代化を進め、強い日本を作るためだったのです。

西郷の最期に号泣

大久保が嫌われている一因は、盟友西郷隆盛を打倒したことにもあります。

無感情で冷酷に西郷を討伐したようなイメージを持っているかもしれませんが、そのイメージを覆すようなエピソードが残っています。

西郷の死を聞いた大久保は、自宅で半狂乱になりながら泣き続けたと言います。

しかし鴨居に頭をぶつけながらも、歩き回りながらブツブツとこう言いました。

「おはんの死とともに、新しか日本が生まれる。
強か日本が・・・」

大久保は一晩中嘆き続けたと言います。

まさむね
まさむね
盟友の死に打ちひしがれながらも、歯を食いしばって日本の近代化を強く誓う姿が想像できますね。

ドラマの見すぎかもしれませんが、このような姿に歴史ロマンを感じてしまうのは私だけではないはずです。

5行でわかる大久保利通のまとめ

まとめ
  • 討幕・明治維新の功労者
  • 徳川慶喜が天敵
  • 殖産興業を推進し、独裁的な政治を行った
  • 盟友西郷隆盛を討伐した
  • 清廉潔白で私利私欲のない人だった

大久保利通は確かに強引な手法で独裁的な政治を行ってきました。

そして竹馬の友、西郷隆盛を討伐したことも事実です。

しかしこれらは全て日本の近代化を進め、欧米列強に負けない強い日本を作るという一途な思いからだったのです。

これは見逃せない事実です。

西郷が江戸幕府を滅ぼした「破壊」の人なら、大久保は明治の基礎を作り上げた「創造」の人です。

大久保がいなければ、明治日本は全く違うものになっていたでしょう。

このページを最後まで読んだ人の、大久保利通のイメージが良い方に変わってくれていれば幸いです。

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