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	<title>飛鳥時代の有名な人物一覧｜歴史上の人物外伝</title>
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	<description></description>
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		<title>大津皇子はどんな人？万葉集の歌から紐解く石川郎女との関係</title>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 03 Jul 2019 04:24:50 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
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					<description><![CDATA[持統天皇に暗殺された悲劇の皇子、大津皇子。 なぜ、大津皇子は殺されなくてはいけなかったのでしょうか？ そもそも大津皇子って誰？という方もいるでしょう。 そこでこの記事では大津皇子を取り上げてみました。 陰謀うずまく飛鳥時]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>持統天皇に暗殺された悲劇の皇子、大津皇子。</p>
<p>なぜ、大津皇子は殺されなくてはいけなかったのでしょうか？</p>
<p>そもそも大津皇子って誰？という方もいるでしょう。</p>
<p>そこでこの記事では大津皇子を取り上げてみました。</p>
<p>陰謀うずまく飛鳥時代の悲劇の皇子の人生を紐解いていきます。</p>
<h2>大津皇子のプロフィール</h2>
<p>大津皇子（おおつのみこ）は、天智2年（663年）に、父、<a href="https://rekishigaiden.com/tenmutenno/">天武天皇（大海人皇子）</a>、母、<a href="https://rekishigaiden.com/jitotenno/">持統天皇（讃良皇女）</a>の姉、大田皇女の長男として生まれました。</p>
<p>持統天皇の息子、草壁皇子の1歳下になります。</p>
<p>2歳年上に姉、大伯皇女（おおくのひめみこ）がいますが、天智6年（667年）、大津が4歳の時に母の大田皇女が亡くなります。</p>
<p>この母、大田皇女の早すぎる死が後々、大津皇子に影響を与えることになります。</p>
<p>天武10年（681年）頃、山辺皇女（やまべのひめみこ）と結婚します。</p>
<p>山辺皇女は、父は<a href="https://rekishigaiden.com/tenditenno/">天智天皇</a>、母は蘇我赤兄の娘、常陸娘です。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
難しい話になりますが、大津皇子は叔母さんにあたる人と結婚したのですね。
</div>
</div></div>
<p>古代は本当に血族結婚が多いです。</p>
<p>この結婚に対し、持統天皇はあまりいい顔をしませんでした。</p>
<p>なぜかというと、山辺皇女の母が蘇我赤兄の娘で、蘇我赤兄は持統天皇の初恋の人、有間皇子（ありまのみこ）の暗殺を企てた、張本人だったからです。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
飛鳥時代はサスペンスドラマのような話がゴロゴロしていますね。
</div>
</div></div>
<p>天武14年（685年）、大津皇子に浄大弐が授けられます。</p>
<p>朱鳥元年（686年）10月2日、川島皇子の密告で大津皇子の他30人余りが逮捕されます。</p>
<p>有名な<span class="marker">大津皇子の変</span>と言われる事件ですが、この事件は、大津皇子が処刑された後、大半が赦免されていることから大津皇子のことが邪魔になった持統天皇のでっちあげと最近では言われています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
自分の子供可愛さに血のつながった甥を消してしまうとは持統天皇はすぐれた政治家でしたが母親の気持ちも強い人だったのですね。
</div>
</div></div>
<p>10月3日には早くも大津皇子は、磐余・訳後田（おさだ）の家で死を賜りました。</p>
<p>才気はふれる大津皇子は、ここで24歳という若さで亡くなりました。</p>
<p>大津皇子は、奈良県葛城市の二上山に葬られました。</p>
<h2>大津皇子は、何をした人？</h2>
<p>大津皇子は、いったい何をした人だったのでしょう。</p>
<p>大津皇子の功績は、日本書記などの文献には書かれていませんが、8世紀半ばに作られた漢詩集「懐風藻」には、「大津皇子の容姿は大きく立派で度量が広く文武両道に秀で、小さなことにこだわらず礼節をもって人に接したため多くの者に慕われた」と書かれています。</p>
<p>これが本当なら大津皇子は王者の風格をもった人だったのでしょう。</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/tenmutenno/">天武天皇</a>もそれがわかっていたから<a href="https://rekishigaiden.com/jitotenno/">持統天皇</a>が産んだ草壁皇子を皇太子にしていましたが、大津皇子も政治に参加させていました。</p>
<p>このことも持統天皇の癪にさわっていたのでしょう。</p>
<p>大津皇子の変が起きるのは、時間の問題だったのだと思います。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
飛鳥時代は本当にサスペンスドラマが作れるほどの陰謀が絡み合っています。
</div>
</div></div>
<h2>万葉集から見る大津皇子のエピソード</h2>
<p>大津皇子と草壁皇子は、一人の女性を巡って恋のさや当てをしたと万葉集は言っています。</p>
<p>相手の女性は、石川郎女（いしかわのいらつめ）です。</p>
<p>彼女のことは謎に包まれていますが、どうやら蘇我一族だったようです。</p>
<p>ここで、大津皇子・石川郎女・草壁皇子との間に交わされた万葉集をご紹介します。</p>
<div class="simple-box9">
<p>【大津皇子の、石川郎女に送りし御歌一首】</p>
<p>あしひきの　山のしづくに　妹待つと　われ立ち濡れぬ　山のしづくに<br />
（山のしずくに、あなたを待ち続けて、立ち濡れてしまいました、山のしずくに）</p>
</div>
<div class="simple-box9">
<p>【石川郎女の返歌一首】</p>
<p>我を待つと　君が濡れけむ　あしひきの　山のしづくに　ならましものを<br />
（私を待ってあなたが濡れたという、山のしずくに、私はなりたかった）</p>
</div>
<div class="simple-box9">
<p>【大津皇子が密かに石川郎女と男女の関係になったときに、津守連道がその事実を占いにより、露見したときに大津皇子がお作りになった歌一首（事情ははっきりしていない）】</p>
<p>大船の　津守が占に　告（の）らむとは　　まさしく知りて　我が二人寝し<br />
（津守の占いで、知られてしまうなど、承知の上で私たちは、二人寝をしたのだ）</p>
</div>
<div class="simple-box9">
<p>【日並皇子尊（ひなしめのみこみこと・草壁皇子）の、石川郎女に贈り賜いし御歌一首】</p>
<p>大名児を　彼方野辺（をちかたのへ）に　刈る草の　束の間も　われ忘れめや<br />
（大名児を、向こうの野原に刈る草の、一束の間も、私は忘れることができるのだろうか）</p>
</div>
<p>順に追っていくと、石川郎女は大津皇子と逢瀬を重ね、やがて露見してしまいます。</p>
<p>しかし石川郎女のことが好きだった草壁皇子は「あなたを忘れるものか」と歌を贈ります。</p>
<p>石川郎女は、この草壁皇子の歌の返歌はしていません。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
まぁ、要するに草壁皇子は振られてしまったわけですが、石川郎女も当代きっての大物の大津皇子と草壁皇子に好かれていてどんな美女だったのでしょうか。
</div>
</div></div>
<p>もう一つ、エピソードなのですが、これは天武天皇崩御の直後、大津皇子は都から行方をくらましていました。</p>
<p>どこに行っていたかというと、伊勢神宮に斎宮になっていた姉、大伯皇女のところに行っていました。</p>
<p>これも万葉集でわかったことですが、万葉集に「大津皇子、密かに伊勢の神宮に下りて上り来ましし時の大伯皇女の作りませる御作歌　わが背子を　大和へ遣ると　さ夜深けて　暁露に　わが立ち濡れし」とあります。</p>
<p>大和に戻っていく弟を心配し、見送った後もそこにたちつくしている大伯皇女。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
大津皇子はいったい何が目的で天武天皇のお葬式を抜けだしたのでしょうか。
</div>
</div></div>
<h2>大津皇子のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>大津皇子は、天智2年（663年）に生まれ、父は天武天皇（大海人皇子）、母は持統天皇（讃良皇女）の姉・大田皇女。</li>
<li>天武10年（681年）頃、山辺皇女（やまべのひめみこ）と結婚。</li>
<li>天武14年（685年）、大津皇子に浄大弐が授けられる。</li>
<li>朱鳥元年（686年）10月2日逮捕される。</li>
<li>朱鳥元年（686年）10月3日、24歳で死去。</li>
<li>大津皇子と草壁皇子は、石川郎女を巡って恋のさや当てをした。</li>
<li>天武天皇崩御の直後、大津皇子は伊勢の大伯皇女の元に行った。</li>
</ul>
</div>
<p>大津皇子の悲劇は天武天皇が崩御した後に起こりました。</p>
<p>最大の庇護者を失った大津皇子。</p>
<p>もっと長く生きていたら、もしかしたら日本の歴史ももっと変わっていたかもしれません。</p>
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			</item>
		<item>
		<title>小野妹子は何をした人？遣隋使についてわかりやすく簡単にまとめてみました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/ononoimoko/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 30 Jun 2019 03:50:16 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
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					<description><![CDATA[個人的に、「一見女性っぽいけど実は男性な名前」ランキングで1位の小野妹子。 記憶には残りやすい名前なので、一応覚えてるって人も多いはずです。 では、具体的にはどんなことをしたのでしょうか。また、そのエピソードや逸話は？ ]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>個人的に、「一見女性っぽいけど実は男性な名前」ランキングで1位の小野妹子。</p>
<p>記憶には残りやすい名前なので、一応覚えてるって人も多いはずです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
小野妹子と言えば、遣隋使ですよね。</p>
<p>日本史を学ぶ上では、むしろ遣隋使以外では覚えることがないほどです。
</p></div>
</div></div>
<p>では、具体的にはどんなことをしたのでしょうか。また、そのエピソードや逸話は？</p>
<p>簡単にまとめてみました！</p>
<h2>小野妹子のプロフィール</h2>
<p>小野妹子（おののいもこ）生没年不詳。</p>
<p>飛鳥時代の官人であり、<a href="https://rekishigaiden.com/suikotenno/">推古天皇</a>や<a href="https://rekishigaiden.com/syotokutaishi/">聖徳太子</a>を主君としていた人物であるとされています。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
昔の人物なので不明な点も多いです。
</div>
</div></div>
<h2>小野妹子は何をした人？</h2>
<p>小野妹子の成し遂げたことで最も大きいものは、やはり<span class="marker">遣隋使</span>です。</p>
<p>具体的にどんなことをしたのか見ていきましょう。</p>
<h3>1度目の遣隋使</h3>
<p>607年、<a href="https://rekishigaiden.com/syotokutaishi/">聖徳太子</a>の命により、遣隋使として隋（中国）に派遣されました。</p>
<p>その<span class="marker">目的は、隋の先進的な技術や制度を学び、日本に持ち帰ること。</span></p>
<p>実は遣隋使が派遣されたのは小野妹子で2回目のことで、以降も合わせて5回以上の派遣が行われています。</p>
<p>600年に派遣された1回目については『随書』に記述があり、当時の倭国（日本）の政治の在り方について、隋の高祖は納得できなかったため改善を訓令し、それに怒った倭国は『日本書紀』から派遣の事実そのものを除外した、とされています。</p>
<div class="m50"></div>
<p>そして2回目、小野妹子による遣隋使。</p>
<p>こちらは『日本書紀』に記述が残されており、日本の王が煬帝（隋の二代目皇帝）に宛てた国書を持っていったと記されています。</p>
<p>その国書の内容は、まとめると以下の通り。</p>
<p>「日が昇る国（日本）の天子（君主）から、日が没する国（隋）の君主に書を送ります」</p>
<p>しかしこれを見た煬帝、「なんて無礼な手紙だ！今後こんな失礼な手紙は私に見せるな！」と大激怒。</p>
<p>というのも、当時の中国の思想では、「天子」に値するのは中国のトップに君臨するもの1人だけだとされており、自分だけでなく日本の君主が「天子」と名乗ったことが許せなかったのです。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
要は、プライドを傷つけてしまったわけですね。
</div>
</div></div>
<p>さて、そんなわけで<span class="marker">怒りに満ちた煬帝は、日本を遥かに下に見た返書を書き小野妹子に託します。</span></p>
<p>日本の君主に渡しておけ、ということです。</p>
<p>もちろん、そんなものをそのまま渡すわけにはいきません。</p>
<p>関係を築くためにわざわざ海を渡ったのに、このままでは溝が深まるだけです。</p>
<p>困った小野妹子。</p>
<p>しかし、ここでさらなる大問題が発生します。</p>
<p>なんと、小野妹子はその<span class="marker">渡された返書を紛失してしまった</span>のです。</p>
<p>小野妹子はこれを、「百済（朝鮮）に盗まれた」と弁明していますが、一説では返書を見せて怒りを買うことを恐れた妹子がわざと破棄したのでは、という見方もされています。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
確かに、「これ見せたら上司めっちゃ怒るだろうなあ……」と分かっていながら見せるのは相当覚悟がいるでしょうし、自分の立場に置き換えれば後者の発想になってしまうのも仕方ないような気もします(笑)。
</div>
</div></div>
<p>どちらにしても、周囲からすると返書をなくすという大失態を犯したのは紛れもない事実。</p>
<p>彼はその責任を取り流刑に処されますが、のちに恩赦されました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
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2国のお偉いさんに挟まれ雁字搦めになり、最終的にはその責任を負わされる……そう考えると、小野妹子はかなりの苦労人だと言えますよね。
</div>
</div></div>
<h3>2度目の遣隋使</h3>
<p>前回隋から帰ってきた際、煬帝の勅使として裴世清という人物が日本へ来ました。</p>
<p>その翌年、今度は彼を隋へ送り届けるために、再び小野妹子は隋へ向かいます。</p>
<p>この際、多くの留学生が随行しました。</p>
<p>高向玄理、南淵請安、僧旻などです。</p>
<p>彼らは<span class="marker">この時学んだ技術や文化を生かし、日本に帰国後は改革に大きな役割を果たしました。</span></p>
<p>なお、遣隋使が送られたのは614年で最後とされています。</p>
<h2>小野妹子のエピソード・逸話「お墓が2つある」</h2>
<p>生年も没年も詳しく分かっていない小野妹子。</p>
<p>そのお墓とされる場所も、国内に2か所確認されています。</p>
<p>1つ目は大阪府南河内郡太子町にある小高い丘。</p>
<p>もう1つは、滋賀県大津市小野にある、小野妹子公園近くの唐臼山古墳。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
どちらが本物かどうかは定かではありませんが、小野妹子が遣隋使として残した功績はそれだけ大きかったということですね。
</div>
</div></div>
<h2>3行でわかる小野妹子のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>遣隋使として隋を訪れ、煬帝へ日本からの国書を渡したが、その返書を紛失し流刑に処された</li>
<li>2度目の隋への派遣の際には数人の留学生が同行し、隋で知識を蓄えてのちの日本の改革に大きく貢献した</li>
<li>小野妹子が眠っているとされるお墓は2か所存在し、どちらが本物かは未だ分かっていない</li>
</ul>
</div>
<p>遣隋使として、倭国と隋の懸け橋になろうとした小野妹子。</p>
<p>しかし、そこで待ち受けていたのは国書に激怒する煬帝とその返書の紛失という大失態でした。</p>
<p>それが事故なのか故意なのか、それははっきりと分かりませんが、どちらにせよ小野妹子にとっては踏んだり蹴ったりな出来事だったに違いありません。</p>
<p>ただし、その活躍があったからこそ日本が大きな発展をすることができたのです。</p>
<p>小野妹子が取った行動も、長い目で見れば正解だったということなのかもしれませんね。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>天武天皇ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめてみました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/tenmutenno/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 27 Jun 2019 03:38:46 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
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					<description><![CDATA[飛鳥時代の女帝、持統天皇の夫である天武天皇。 この記事では、天武天皇はどんな人物なのか、エピソードや逸話を交えてご紹介します。 天武天皇のプロフィール 天武天皇は、父は舒明天皇、母は斉明天皇の次男として生まれました。 名]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>飛鳥時代の女帝、持統天皇の夫である天武天皇。</p>
<p>この記事では、<span class="marker">天武天皇はどんな人物なのか</span>、エピソードや逸話を交えてご紹介します。</p>
<h2>天武天皇のプロフィール</h2>
<p>天武天皇は、父は舒明天皇、母は斉明天皇の次男として生まれました。<br />
名前は大海人皇子（おおあまのみこ）と言います。</p>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/jitotenno/">持統天皇</a>の叔父であり、夫ですが生まれ年などはいっさい不明で謎に包まれている人物です。</p>
<p>一般には、<a href="https://rekishigaiden.com/tenditenno/">天智天皇（中大兄皇子）</a>の弟になり、皇太弟（こうたいてい）として政治を補佐したことになっていますが、「日本書記」には天武天皇の生年を詳しく示したことは書いてはなく、実際は兄弟ではなかったのではないかと言われています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
「日本書記」はそもそも、天武天皇が命じて書かせた書物なのになんで自分の正確な生年を書かせなかったのでしょうか。</p>
<p>たぶん、はっきりとした生年を書くことに何か不都合があったのかも知れません。
</p></div>
</div></div>
<p>天智11年（672年）、<span class="marker">壬申の乱</span>が起きます。</p>
<p>天武2年（673年）、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇になりました。</p>
<p>天武4年（675年）、日本で初めての占星台（天文台）を建てたほかに五節の舞などの民間習俗を国家的祭祀に取り入れました。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
五節の舞というと、源氏物語にも出てきます。</p>
<p>光源氏の息子のお嫁さんとして出てきますが、五節の舞は天武天皇の時から行っていた習俗だったのですね。
</p></div>
</div></div>
<p>天武15年（686年）5月、天武天皇は病気になり倒れました。</p>
<p>人々は、神仏に祈り快癒を願いましたが効果はなく、9月に崩御しました。</p>
<p>このように、天武天皇の生涯は端的で多くの事は謎の天皇です。</p>
<h2>天武天皇は何をした人？</h2>
<h3>壬申の乱</h3>
<p>天武天皇がしたことで最大の有名なことは、大海人皇子の時に起こった<span class="marker">「壬申の乱」</span>です。</p>
<p>この乱は、兄、<a href="https://rekishigaiden.com/tenditenno/">天智天皇</a>が崩御後、大海人皇子（天武天皇）は吉野で出家していました。</p>
<p>そこへ、天智11年（672年）5月、家来の朴井雄君（えのいのおきみ）が「近江朝が天智天皇のお墓を作る名目で人夫を集め、彼らに武器を持たせている」といい、また「近江から吉野まで監視人を置いて、家来たちが吉野への食糧を運ぶのを妨害している」という報告も聞き、大海人皇子は、挙兵を決意しました。</p>
<p>壬申の乱は、大海人皇子軍が戦いを優位にすすめて、7月22日、瀬田で最後の決戦が行われ、近江朝廷軍は後退し朝廷軍のトップの大友皇子が自害して終わりました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>大友皇子は、天智天皇の息子ですが、母親の身分が低いのにもかかわらず天皇の位についていました。</p>
<p>この戦いは、大海人皇子が即位するためには、しないといけない戦でしたが大友皇子は、大海人皇子の娘、十市皇女の夫でもあります。</p>
<p>これによって十市皇女は微妙な立場に置かれてしまいます。</p>
<h3>律令国家の建設</h3>
<p>天武天皇は即位をした後、律令国家の建設にむけて邁進します。</p>
<p>天武天皇が行ったことは、</p>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>暦の制定・・・時や暦の編纂を担当する陰陽寮を設置しました。</li>
<li>天皇号の制定・・・それまでの大王から天皇に号を改めました。</li>
<li>正史の編纂に着手・・・皇族や臣下に正史の編纂を命じました。</li>
<li>神祇制度の整備・・・日本古来の神を重んじて神祇信仰を復興させました。</li>
<li>飛鳥浄御原令の編纂・・・唐の政治制度にならった新たな法律の制度にとりかかりました。</li>
<li>宮城の設定と設計・・・新都造営の構想を練りました。</li>
<li>八色の姓の制定・・・真人（まひと）、朝臣（あそん）、宿禰（すくね）、忌寸（いみき）、道師（みちのし）、臣（おみ）、連（むらじ）、稲置（いなぎ）の8つの姓を定めました。</li>
<li>国家仏教の確立・・・仏教を手厚く保護しました。</li>
<li>三種の神器の制定・・・八咫鏡（やたのかがみ）、八尺瓊勾玉（やさかにのまがたま）、草薙の剣（くさなぎのつるぎ）を<span class="marker">「三種の神器」</span>として制度化しました。</li>
<li>践祚大嘗祭の制定・・・天皇の威厳を高めるため、即位の儀式を<span class="marker">「大嘗祭」</span>として制度化しました。</li>
</ul>
</div>
<p>以上、10のことをしましたが、特に三種の神器や大嘗祭は今でも行われていて、なんと1300年以上も天皇家に受け継がれています。</p>
<h2>天武天皇のエピソード・逸話</h2>
<p>天武天皇は、後継者問題にずっと頭を悩ませていました。</p>
<p>「自分に万が一のことがあれば、また壬申の乱のような大乱が起こりかねない」と悩んでいました。</p>
<p>そこで天武8年（679年）、吉野に行幸した天武天皇は皇后と草壁・大津・高市・川島・忍壁（おさかべ）・志貴（しき）の息子たち<span class="marker">6皇子に互いに争わないことを誓わせました。（吉野の盟約）</span></p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
この息子たちというより天武天皇は皇后の<a href="https://rekishigaiden.com/jitotenno/">讃良皇女（持統天皇）</a>のことが心配だったのかもしれません。</p>
<p>現に天武天皇が亡くなってすぐに讃良皇女（持統天皇）は<a href="https://rekishigaiden.com/otsunomiko/">大津皇子</a>を処刑しましたから。
</div>
</div></div>
<p>また、天武天皇のエピソードとしては、動物愛護にものすごく積極的で狩猟や漁猟を制限し、<span class="marker">一部の動物の肉食を禁じました。</span></p>
<p>これがきっかけで「肉食＝悪しきもの」というイメージがつき、肉食文化は明治期まで停滞しました。</p>
<h2>天武天皇のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>天武天皇は、父は舒明天皇、母は斉明天皇の次男として生まれた。名前は大海人皇子（おおあまのみこ）と言う。持統天皇の叔父であり、夫ですが生まれ年などはいっさい不明で謎に包まれている。</li>
<li>天智11年（672年）、壬申の乱がおきる。</li>
<li>天武2年（673年）、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇になる。</li>
<li>天武4年（675年）、日本で初めての占星台（天文台）を建てたほかに五節の舞などの民間習俗を国家的祭祀に取り入れた。</li>
<li>天武15年（686年）5月、天武天皇は病気になり倒れました。人々は、神仏に祈り快癒を願いましたが効果はなく、9月に崩御。</li>
</ul>
</div>
<p>天武天皇と持統天皇は同じお墓に葬られ、持統天皇の病気平癒として天智天皇は薬師寺を建てるなどをしたことで夫婦仲は良かったと言われていますが、しかし、後世の資料によって作られたという説もあります。</p>
<p>天武天皇は持統天皇の事を妻としてより政治のパートナーとしてみていたのかもしれません。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>持統天皇ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめてみました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/jitotenno/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 25 Jun 2019 02:49:35 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
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					<description><![CDATA[飛鳥時代の女帝、持統天皇がどんな人だったのかと言われれば、それは、実績の残る唯一の女帝ということです。 日本には、10代8人の女帝がいますが、どの女帝も実績が曖昧です。 持統天皇だけは、都をつくり、法律も整備したという実]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>飛鳥時代の女帝、持統天皇がどんな人だったのかと言われれば、それは、実績の残る唯一の女帝ということです。</p>
<p>日本には、10代8人の女帝がいますが、どの女帝も実績が曖昧です。</p>
<p>持統天皇だけは、都をつくり、法律も整備したという実績があります。</p>
<p>今回は、女帝・持統天皇をご紹介したいと思います。</p>
<h2>持統天皇のプロフィール</h2>
<p>持統天皇は乙巳の変（大化改新）がおこった大化元年（645年）に生まれました。</p>
<p>名前は、鵜野讃良（うののさらら）です。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
さららちゃんとは何とも今でも通じるような可愛い名前ですね。
</div>
</div></div>
<p>父は、<a href="https://rekishigaiden.com/tenditenno/">中大兄皇子（天智天皇）</a>、母は、蘇我倉山田石川麻呂の娘、越智の娘（おちのいらつめ）です。</p>
<p>同母姉には大田皇女（おおたのひめみこ）がいました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
讃良ちゃん（持統天皇）は、超お嬢様ということですね。
</div>
</div></div>
<h3>母が亡くなり父との間に距離ができる</h3>
<p>そんな讃良皇女に最初の試練がおきます。</p>
<p>大化5年（649年）、讃良皇女が5歳の時、祖父の石川麻呂が自害に追い込まれました。</p>
<p>母の遠智の娘は、心を痛めて亡くなってしまったのです。</p>
<p>遠智の娘は父が亡くなったことにも心を痛めたのでしょうが、このことに中大兄皇子がかかわっていたことが大きな要因だったのです。</p>
<p>5歳とはいえ、讃良皇女もうすうすはわかったのでしょう、これ以来、中大兄皇子と讃良皇女の間に距離が生じました。</p>
<h3>叔父と結婚</h3>
<p>斉明3年（657年）、13歳で叔父の大海人皇子に嫁ぎました。</p>
<p>現在は、叔父、姪の結婚は近親婚として避けますが、このころは血の純潔を守るために良く行われていました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
讃良皇女の同母姉、大田皇女も大海人皇子に嫁いでいましたので、姉妹で同じ人に嫁いだことになりますが、今では事件になるようなことですよね。
</div>
</div></div>
<h3>草壁皇子を出産</h3>
<p>天智元年（662年）、草壁皇子を産みました。</p>
<p>翌年、姉の大田皇女が<a href="https://rekishigaiden.com/otsunomiko/">大津皇子</a>を産みましたが、当時は兄から弟へ皇位を継承するのが一般的で、大海人皇子が天皇につく可能性が高かったのですが、その時は太田皇女が皇后になる予定で皇太子も大津皇子になる可能性がありました。</p>
<p>しかし、天智6年（667年）に大田皇女は亡くなってしまい、讃良皇女が皇后有力候補になってしまったことが後年、大津皇子事件を引き起こしてしまいます。</p>
<h3>即位し持統天皇へ</h3>
<p>天智10年（671年）父の天智天皇が亡くなりますが、夫の大海人皇子はすぐには即位せず、翌年、壬申の乱をへて天武2年（673年）に<a href="https://rekishigaiden.com/tenmutenno/">大海人皇子（天武天皇）</a>は即位し讃良皇女は皇后になりました。</p>
<p>朱鳥元年（686年）、天武天皇が亡くなり、大津皇子の変が起きました。</p>
<p>持統4年（690年）、<span class="marker">讃良皇后は即位し、持統天皇になります。</span></p>
<p>持統8年（694年）、藤原京に遷都し、文武元年（697年）、孫の軽皇子に皇位を譲って上皇になりました。</p>
<p>大宝元年（701年）、大宝律令を制定しそれを見届けた大宝2年（702年）に持統天皇は崩御しました。</p>
<h2>持統天皇は何をした人？</h2>
<p>持統天皇はいったい何をした人なのでしょう。</p>
<p>持統天皇のしたことベスト3をご紹介します。</p>
<h3>大津皇子の変</h3>
<p>変前夜、「懐風藻」に<a href="https://rekishigaiden.com/otsunomiko/">大津皇子</a>の気質について「体格や容姿がたくましかく寛大。幼少時から学問を好み、成人後は武芸をたしなんだ。皇子でありながら謙虚で人々の信望を集めた」とべた褒めしていますが母の大田皇女はなく、後ろ盾がありませんでした。</p>
<div class="concept-box6">
<p>「懐風藻（かいふうそう）」は日本の漢詩集です。</p>
</div>
<p>一方、持統天皇の息子、草壁皇子は、体が弱く、性格も大人しい性格で君主になるのは難しいと思われていましたが、なんといっても持統天皇という後ろ盾があり、持統天皇も自分の産んだ息子に帝位を継いでもらいたいと思っていました。</p>
<p>持統天皇の後押しで天武10年（681年）に草壁皇子は皇太子になり、これで万事OKと思えましたが、やはり草壁皇子の健康状態は良くないのでいつ亡くなるかわからないという懸念がありました。</p>
<p>そんな時、朱鳥元年（686年）、頼みの夫、<a href="https://rekishigaiden.com/tenmutenno/">天武天皇</a>が亡くなってしまいます。</p>
<p>当時は30歳を過ぎてから即位することが一般的で草壁皇子はまだ25歳、全権は皇后の讃良が握りました。</p>
<p>ここで<span class="marker">大津皇子の謀反</span>が発覚したのです。</p>
<p>皇后はただちに大津皇子と従者30人余りを逮捕し大津皇子は即日、死罪になりました。</p>
<p>こんなタイミングよく謀反がおこるのでしょうか。</p>
<p>「子を潰すため、皇后が謀反をでっちあげたのではないか」と言われています。</p>
<h3>藤原京遷都</h3>
<p>国の体制がある程度整ってくると、今度は国家を動かしていく宮都が必要になってきます。</p>
<p>造都事業は天武天皇の時から動いていましたが、持統天皇が即位したのをきっかけに具体化し、大和三山に囲まれた平地が選ばれました。</p>
<p>持統8年（694年）、古代日本で初めての都城、藤原京が作られ、　藤原京は、平城京に遷都するまで日本の首都でした。</p>
<h3>飛鳥浄御原令</h3>
<p>天武天皇が新たな律令の作成に取り組んでいましたが、完成を見ずに亡くなってしまいました。</p>
<p>その事業を受け継いだ持統天皇は、持統3年（689年）に飛鳥浄後原令（あすかきよみがはらりょう）を完成させました。</p>
<h2>持統天皇のエピソード・逸話</h2>
<p>持統天皇は、天武天皇を愛し、遺志と事業を継承したと信じられていますが、この夫婦の間には溝が流れていました。</p>
<p>万葉集の持統天皇の歌で</p>
<div class="simple-box9">
<p>春過ぎて 夏来たるらし 白たえの 衣乾したり 天の香具山</p>
</div>
<p>というのがあります。</p>
<p>この歌は、万葉学者は牧歌的だと言いますが、大和を代表する霊山に洗濯物が干してあるというのは信じられません。</p>
<p>この歌の中で持統天皇は王朝交代をアピールしています。</p>
<p>「丹後国風土記」に天女・豊受大神が沐浴していると天の羽衣が奪われてしまい天に戻ることができなくなってしまい、やむなくこの地にとどまったとあります。</p>
<p>持統天皇はこの話を利用し、</p>
<div class="simple-box6">
<p>天の香具山に白たえ（天の羽衣）が干してある。<br />
あの羽衣を奪えば天女は身動きできなくなる。<br />
春（平和な天武朝）が過ぎ、夏が来たように、今がチャンスなのだ</p>
</div>
<p>と歌ったという逸話があります。</p>
<p>そんな夫・天武天皇についてはこちらの記事にまとめています。</p>
<a href="https://rekishigaiden.com/tenmutenno/" class="blog-card"><div class="blog-card-hl-box"><i class="jic jin-ifont-post"></i><span class="blog-card-hl"></span></div><div class="blog-card-box"><div class="blog-card-thumbnail"><img src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/tenmutenno-320x180.jpg" class="blog-card-thumb-image wp-post-image" alt="天武天皇" loading="lazy" width ="162" height ="91" /></div><div class="blog-card-content"><span class="blog-card-title">天武天皇ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめてみました</span><span class="blog-card-excerpt">飛鳥時代の女帝、持統天皇の夫である天武天皇。

この記事では、天武天皇はどんな人物なのか、エピソードや逸話を交えてご紹介します。
...</span></div></div></a>
<h2>持統天皇のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>持統天皇は乙巳の変（大化改新）がおこった大化元年（645年）に生まれた。</li>
<li>父は、中大兄皇子（天智天皇）、母は、蘇我倉山田石川麻呂の娘、越智の娘（おちのいらつめ）。</li>
<li>斉明3年（657年）、13歳で叔父の大海人皇子に嫁いだ。</li>
<li>天武2年（673年）に大海人皇子（天武天皇）は即位し讃良皇女は皇后になる。</li>
<li>朱鳥元年（686年）、天武天皇が亡くなり、大津皇子の変が起きた。</li>
<li>持統4年（690年）、讃良皇后は即位し、持統天皇になる。</li>
<li>持統8年（694年）、藤原京に遷都。</li>
<li>文武元年（697年）、孫の軽皇子に皇位を譲って上皇になった。</li>
<li>大宝2年（702年）に崩御。</li>
</ul>
</div>
<p>以上、今回は持統天皇の一生を振り返ってみました。</p>
<p>持統天皇は、天武天皇につくしてきたと思われていますが、本当は仮面夫婦だったのか、甥を死罪に追い込む非道さ。</p>
<p>しかし、日本書記は、持統天皇は、良妻賢母だと書かれています。</p>
<p>聖女なのか悪女だったのか、今となっては遠い飛鳥時代の闇に包まれています。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>蘇我入鹿ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめてみました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/soganoiruka/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 21 Jun 2019 02:35:29 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
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					<description><![CDATA[有名な乙巳の変（大化改新）で、中大兄皇子・中臣（藤原）鎌足に暗殺された蘇我入鹿（そがのいるか）。 世紀の大悪党と、巷では有名ですが、最近の研究では、「悲劇の秀才」ともいわれ始めています。 蘇我氏は馬子が有名ですが、その子]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>有名な乙巳の変（大化改新）で、中大兄皇子・中臣（藤原）鎌足に暗殺された蘇我入鹿（そがのいるか）。</p>
<p>世紀の大悪党と、巷では有名ですが、最近の研究では、「悲劇の秀才」ともいわれ始めています。</p>
<p>蘇我氏は馬子が有名ですが、その子蝦夷（えみし）、孫、入鹿（いるか）も重要な役割を担っていました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
うまこ、えみし、いるかと現代からしたら変な名前ですよね？</p>
<p>それには訳があり、当時は精霊崇拝の思想があり動物の名前を好んでつける風潮がありました。</p>
<p>入鹿という名前も海の神の力を借りるためにイルカの名前にちなんでつけたと入鹿自身が言っています。</p>
<p>今、流行のキラキラネームに似ていますね。
</p></div>
</div></div>
<p>今回は、そんな<span class="marker">蘇我入鹿の人となりをわかりやすくご紹介します！</span></p>
<h2>蘇我入鹿のプロフィール</h2>
<p>蘇我入鹿は推古18年（610年）に奈良県明日香村で生まれました。<br />
父は蘇我蝦夷です。</p>
<p>青年期に飛鳥時代の僧、旻（みん）の学問所で学んでいました。<br />
旻によると入鹿はとても優秀だったそうです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
だから現在の学者さん達は入鹿のことを「悲劇の秀才」と呼んでいるのですね。
</div>
</div></div>
<p>推古34年（626年）、父の蝦夷が大臣に就任し、入鹿は蝦夷から紫冠（しかん）を与えられます。</p>
<div class="concept-box6">
<p>紫冠とは、大化3年（647年）に制定された七色十三階冠の1つでその中に大紫（だいし）、小紫（こし）の冠位で蘇我氏だけが受け継ぐ冠位のことです。</p>
</div>
<p>皇極2年（643年）、父、蝦夷から独断で大臣を譲られました。</p>
<p>皇極3年（644年）、甘樫丘（あまかしのおか）に邸宅を築き、家を上の宮門、谷の宮門と呼びました。</p>
<p>皇極4年（645年）、中大兄皇子・中臣鎌足に暗殺（乙巳の変）されます。<br />
大臣になってからたった2年で暗殺された、濃く短い人生でした。</p>
<h2>蘇我入鹿は何をした人？</h2>
<p>蘇我入鹿が行ったことで有名なのは、<a href="https://rekishigaiden.com/syotokutaishi/">厩戸皇子（聖徳太子）</a>の息子の山背大兄王一族を滅ぼしたことです。</p>
<p>皇極2年（643年）の冬、父蝦夷が病気と称して出仕しなくなり、入鹿に勝手に大臣の位を譲りました。</p>
<p>そのことにより入鹿は天狗になり、蘇我系皇族の古人大兄皇子を次の天皇にしようと思い、次の天皇候補の山背大兄王が邪魔になり暗殺しました。</p>
<p>しかし、藤原氏の家伝「藤家家伝」には、皇極天皇（こうぎょく）の即位に際して山背大兄王が謀反を起こす可能性があるため、他の皇族と一緒に殺害したと書いてあり、日本書紀との矛盾が最近、指摘されています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
日本書記は勝者の藤原氏が書いたものなので、蘇我氏にとっては良いことは書いていないのかも知れません。
</div>
</div></div>
<p>このことが乙巳の変（大化の改新）の大義名分になりましたが、山背大兄王暗殺は、現在では襲撃は入鹿の独断専行ではなかったという説が取り沙汰されています。</p>
<h2>蘇我入鹿のエピソード・逸話</h2>
<h3>天皇気取りで幅をきかせていた</h3>
<p>蘇我入鹿のエピソードとしては、甘樫丘に自分の邸宅を建て、父、蝦夷の家を「上の宮門」、入鹿自身の家を「谷の宮門」と呼んだり、自分の子供たちを「王子（みこ）」と呼ばせたりしました。</p>
<p>やはり、天皇を自負していた節があります。</p>
<p>蘇我氏の祖廟（おやまつりや）を葛城（かつらぎ）の高宮に建てたときには、中国では天子だけが執り行える「八らの舞（やつら）」を催しました。</p>
<p>さらに、蝦夷・入鹿父子は民を総動員させて自分たちの墓を作らせて蝦夷の墓を「大陵（おおみささぎ）」、入鹿の墓を「小陵（こみささぎ）」と呼ばせました。</p>
<p>ちなみに陵（みささぎ）とは、天皇の墓を指す言葉です。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
このように、いくら日本書記が藤原氏の書いたもので蘇我氏を貶めようとしていた書物であっても、蘇我氏の専横ぶりは他の豪族の鼻につくものだったことは確かだと思います。
</div>
</div></div>
<h3>あっけない最期</h3>
<p>ここで、入鹿最大のエピソード、<span class="marker">乙巳の変（大化改新）</span>の概要をご紹介します。</p>
<p>皇極4年（645年）、6月12日、朝鮮三国の使者が貢納品を献上する儀式が飛鳥板蓋宮（あすかいたぶきのみや）で行われました。</p>
<p>大臣である蘇我入鹿も出席しましたが、そこで中大兄皇子・中臣鎌足は入鹿を暗殺することに決めていました。</p>
<p>入鹿は猜疑心が強く、どんな場所でも刀は手放しませんでしたが、なんとか入鹿を言いくるめて刀をはずさせることに成功しました。</p>
<p>蘇我石川麻呂が上奏文を読んでいる時に佐伯小麻呂（さえきのこまろ）・葛城稚犬養網田（かつらぎのわかいぬかいのあみた）が入鹿を襲う手はずになっていましたが、中々実行しないので、<a href="https://rekishigaiden.com/tenditenno/">中大兄皇子</a>が入鹿に切りつけました。</p>
<p>その時入鹿は、皇極天皇に「私に何の罪があるのでしょうか」と問いかけましたが、皇極天皇は何も言わずに退出しました。</p>
<p>その後入鹿は首を切られ、亡骸は庭に投げ捨てられました。</p>
<p>これが乙巳の変（大化改新）の全容ですが、なんともあっけないというか可哀そうな最期だと思います。</p>
<p>いくら蝦夷と入鹿が天皇級の天狗になっていたとしてもなんで暗殺しなくてはならなかったのでしょうか。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
よっぽど中大兄皇子・<a href="https://rekishigaiden.com/nakatominokamatari/">中臣鎌足</a>、特に鎌足にとって、政治的に蘇我氏は目の上のコブだったのでしょう。
</div>
</div></div>
<h3>入鹿の怨念がこもった山？</h3>
<p>三重県松阪市飯高町舟戸に入鹿の首塚という五輪塔があります。</p>
<p>同地の高見山まで入鹿の首が飛んできたという伝承があり、村人が手厚く葬ったとあります。</p>
<p>この高見山に鎌をもって入ると必ず怪我をするとされていて、それは入鹿を殺害した鎌足の鎌の字を忌み嫌ってという逸話があります。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
確かに入鹿にしたら自分を殺した人物の名前ほど嫌なものはないでしょうね。
</div>
</div></div>
<h2>蘇我入鹿のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>入鹿は610年、奈良県明日香村で生まれる。</li>
<li>父は蘇我蝦夷。</li>
<li>643年、父、蝦夷から独断で大臣を譲られた。</li>
<li>皇極3年（644年）、甘樫丘（あまかしのおか）に邸宅を築き、家を上の宮門、谷の宮門と呼ばれた。</li>
<li>643年、山背大兄王、暗殺。</li>
<li>皇極4年（645年）乙巳の変（大化改新）で暗殺される。</li>
<li>三重県松阪市飯高町舟戸に入鹿の首塚という五輪塔があり、高見山に鎌をもって入ると必ず怪我をするとされている。</li>
</ul>
</div>
<p>以上、今回は蘇我入鹿についてご紹介しました。</p>
<p>蘇我入鹿が亡くなって、律令制度は一気に進んだと日本書記はいう。</p>
<p>しかし、実際に制度が整うのは乙巳の変（大化改新）の後、数十年先のことでいったいなぜ入鹿は暗殺されなければならなかったのでしょうか。</p>
<p>その謎は1400年たった今でも解明されていません。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>中臣鎌足ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめてみました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/nakatominokamatari/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/nakatominokamatari/#comments</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 20 Jun 2019 10:14:04 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
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					<description><![CDATA[中臣鎌足って、名前の響きだけ覚えている人も多いのではないでしょうか。 なかとみのかまたり……覚えにくそうで逆に覚えやすい名前ですよね。 さて、そんな彼ですが、いったい歴史上で何を成し遂げた人なのでしょうか。 また、他には]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>中臣鎌足って、名前の響きだけ覚えている人も多いのではないでしょうか。</p>
<p>なかとみのかまたり……覚えにくそうで逆に覚えやすい名前ですよね。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
ちなみに「かたまり」ではなくて「かまたり」ですからね。<br />
いくらそっちの方が覚えやすいからって間違えないように(笑)。
</div>
</div></div>
<p>さて、そんな彼ですが、いったい歴史上で何を成し遂げた人なのでしょうか。</p>
<p>また、他にはどんなエピソードが？</p>
<p>この記事では<span class="marker">中臣鎌足の経歴や偉業</span>を簡単にまとめてみました！</p>
<h2>中臣鎌足のプロフィール</h2>
<p>中臣鎌足（なかとみのかまたり）614-669。</p>
<p>晩年に藤原鎌足（ふじわらのかまたり）と姓を変えています。</p>
<p>実は、あの「藤原氏」の始祖にあたる人物なのです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
ちなみに、「中臣鎌足」と呼ばれる時は生きていた頃の彼を指す場合であり、「藤原鎌足」は彼を「藤原氏の祖」として扱う場合に用いるようです。</p>
<p>つまり、普通に彼を語るときは「中臣鎌足」で問題ないということですね。
</p></div>
</div></div>
<h2>中臣鎌足は何した人？</h2>
<p>中臣鎌足といえば、必ずセットで覚えておきたい2大事件があります。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
正確に言えばまとめて1つの出来事ですが……。
</div>
</div></div>
<p>それがこちら！</p>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>乙巳の変</li>
<li>大化の改新</li>
</ul>
</div>
<p>それでは、詳しく見ていきましょう。</p>
<h3>乙巳の変</h3>
<p>645年、<a href="https://rekishigaiden.com/tenditenno/">中大兄皇子（後の天智天皇）</a>や石川麻呂たちと協力して、当時暴政を働いていた<a href="https://rekishigaiden.com/soganoiruka/">蘇我入鹿</a>を暗殺、入鹿の父の蘇我蝦夷を自殺に追いやり、<span class="marker">蘇我氏を滅亡させた一大事件</span>です。</p>
<p>中臣鎌足はこの暗殺事件に際し、かなり密な計画を企てました。</p>
<p>一人では成功は不可能だと分かっていた彼は、協力者を探します。</p>
<p>その一人、特にこの事件の重要人物でもある中大兄皇子とは、脱げた靴を拾ってくれたことがきっかけで知り合ったそうです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
……なんか庶民的なエピソードに聞こえますが、そこから暗殺を持ちかけ、最終的に「よし、やってやろうぜ！」となるのがすごいですよね(笑)
</div>
</div></div>
<p>鎌足が巧みな話術を持っていたのか、もしくはそれほど蘇我氏の横暴さが目に付いていたのでしょう。</p>
<p>中大兄皇子についてはこちらの記事で詳しくまとめていますので、良ければご覧ください。</p>
<a href="https://rekishigaiden.com/tenditenno/" class="blog-card"><div class="blog-card-hl-box"><i class="jic jin-ifont-post"></i><span class="blog-card-hl"></span></div><div class="blog-card-box"><div class="blog-card-thumbnail"><img src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/tenditenno-320x180.jpg" class="blog-card-thumb-image wp-post-image" alt="中大兄皇子（天智天皇）" loading="lazy" width ="162" height ="91" /></div><div class="blog-card-content"><span class="blog-card-title">中大兄皇子(天智天皇)ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめました</span><span class="blog-card-excerpt">あなたは中大兄皇子、もしくは天智天皇と聞いてまず何を思い浮かべますか？

「あれ、名前は思い出せるけど、そういえば何した人なんだっけ...</span></div></div></a>
<p>また、鎌足はこの功績から、内臣という役職に任じられ、国の軍事を指揮する権利を手に入れました。</p>
<p>ただし、内臣は「国の重要なお目付け役」というような意味で用いられ、正式な官職ではありません。</p>
<p>あくまで信頼できる参謀として、国を任されていたのですね。</p>
<h3>大化の改新</h3>
<p>大化の改新とは、乙巳の変をきっかけに行われた、それ以降の国政改革全般を指します。</p>
<p>それまで蘇我氏の横暴により荒らされていた政治を、正しいものに修正しようとすることが目的で、協力者には<a href="https://rekishigaiden.com/tenditenno/">中大兄皇子</a>などがいました。</p>
<p>中臣鎌足は、その中でも特に中心的な役割を果たしました。</p>
<p>改革を実行したのはほとんど彼だと言ってもよいでしょう。</p>
<p>具体的には、<span class="marker">日本初の元号や新たな施政方針の制定</span>などですね。</p>
<p>この改革は日本の歴史上でかなり重要な意味を持つもので、その後の国政の基盤が形作られました。</p>
<p>おそらくこの改革がなければ、これ以降の日本の歴史は大きく変わっていたことでしょう。</p>
<p>それゆえ、その実質的な主導者だった中臣鎌足は、歴史上でも偉大な人物だったと語り継がれているわけですね。</p>
<h2>中臣鎌足のエピソード・逸話</h2>
<h3>あの「藤原氏」の始祖！</h3>
<p>先にも書いたように、鎌足は後の日本の歴史でも頻繁に登場する大氏族<span class="marker">「藤原氏」を名乗った最初の人物</span>です。</p>
<p>要するに、彼はその実績だけでなく名前でも後々にとてつもない影響を与えていることになります。</p>
<p>この意味でも、日本史を語るうえで欠かしてはいけない人物であることが分かりますね。</p>
<h3>初期の頃には中臣鎌子（なかとみのかまこ）と名乗っていた</h3>
<p>鎌子……現代だとなかなかインパクトのある名前ですよね。</p>
<p>加えて男性ですから、なおのことです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
もし「中臣鎌子」のまま歴史に名を残していたら、小野妹子と並んで「男性なのに女性と勘違いされやすい人物」になっていたことでしょう(笑)
</div>
</div></div>
<p>ただ、研究者によっては、「鎌」が名前であり「子」や「足」はあくまで敬称として使う語尾である、とする説もあるようですね。</p>
<h3>「藤原」の姓を賜った翌日に死んでしまった</h3>
<p>天智天皇から「藤原」姓を賜った彼は、なんとその翌日に亡くなってしまいました。</p>
<p>つまり、<span class="marker">彼が「藤原鎌足」だった期間はたった1日だけ</span>だったということになります。</p>
<p>これが後々まで続く大氏族の始まりになるわけですから、日本の歴史上でとても重要な1日だったと言えるでしょう。</p>
<h2>4行でわかる中臣鎌足のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>乙巳の変で蘇我氏を滅ぼし、それまでの悪政を終わらせた</li>
<li>後に続く大化の改新では実行の中心的な人物として国政改革に携わり、日本の基盤に大きな役割を果たした</li>
<li>大氏族「藤原氏」の始祖であるが、彼自身は姓を賜った翌日に亡くなった</li>
<li>もともとは「中臣鎌子」と名乗っていたこともある</li>
</ul>
</div>
<p>中臣鎌足が日本に与えた影響はとても大きく、彼がその後の日本の基盤を作り上げたといっても過言ではないでしょう。</p>
<p>暗殺を計画し、実行する勇気。<br />
国を主導し、自ら改革を行う手腕。</p>
<p>彼の類稀なる決断力が、日本に大きな変革をもたらしたのです。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>推古天皇ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめてみました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/suikotenno/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/suikotenno/#comments</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 20 Jun 2019 02:57:27 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://rekishigaiden.com/?p=94</guid>

					<description><![CDATA[飛鳥時代初期の日本で初めての女帝、推古天皇。 推古天皇は蘇我馬子、聖徳太子の影に隠れてしまってどういう人だったのか今一つわからなく、謎に包まれています。 最近、日本の皇室も女帝誕生を議論されていますが、最初の女帝、推古天]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>飛鳥時代初期の日本で初めての女帝、推古天皇。</p>
<p>推古天皇は蘇我馬子、聖徳太子の影に隠れてしまってどういう人だったのか今一つわからなく、謎に包まれています。</p>
<p>最近、日本の皇室も女帝誕生を議論されていますが、最初の女帝、推古天皇はどういう経緯で女帝になったのでしょうか。</p>
<p>この記事では、女帝<span class="marker">「推古天皇」の経歴や偉業</span>についてご紹介します。</p>
<h2>推古天皇のプロフィール</h2>
<p>推古天皇は554年5月21日、欽明天皇・蘇我稲目の娘、堅塩姫との間に生まれました。</p>
<p>蘇我馬子の姪にあたり、<a href="https://rekishigaiden.com/syotokutaishi/">厩戸皇子（聖徳太子）</a>の叔母になります。</p>
<p>593年、39歳の時に<span class="marker">第33代天皇</span>になり、在位期間36年の長期にわたり君臨しました。</p>
<p>諱を「額田部皇女（ぬかたべのひめみこ）」、和風諡号を「豊御食賀炊屋姫（とよみけかしきやひめ）」と言います。</p>
<div class="m50"></div>
<p>推古天皇は漢風諡号になります。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
古代の人の名前は本当に舌を噛みそうな名前ですね。
</div>
</div></div>
<p>日本書紀の推古記に「幼曰 額田部皇女 姿色端麗 進止軌制 年十八歳 立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后 卅四歳、渟中倉太珠敷天皇崩」とあり、簡単に意味を解釈しますと、「姿は綺麗で、性格は落ち着いていて18歳で敏達天皇の皇后になり34歳の時に敏達天皇が崩御した」ということです。</p>
<p>敏達天皇との間に2男5女（一人早世）、</p>
<ul>
<li>菟道貝蛸皇女（うじのかいたこひめみこ）【聖徳太子妃】</li>
<li>竹田皇子（たけだのみこ）</li>
<li>小墾田皇女（おはりだのひめみこ）【押坂彦人大兄皇子妃】</li>
<li>尾張皇子（おわりのみこ）【聖徳太子の妃橘大郎女の父】</li>
<li>田眼皇女（ためのひめみこ）【田村皇子（後の舒明天皇）妃】</li>
<li>桜井弓張皇女（さくらいゆみはりのひめみこ）【押坂彦人大兄皇子の妃・来目皇子の妃】</li>
</ul>
<p>らを儲けました。</p>
<p>628年4月15日に崩御しました。</p>
<h2>推古天皇は何をした人？</h2>
<h3>第33代天皇に即位</h3>
<p>推古天皇の夫、敏達天皇が585年に崩御した後、聖徳太子の父の用明天皇が2年ほど即位し、その後、推古天皇の兄弟、崇峻天皇（すしゅん）が即位したが、崇峻天皇が592年に蘇我馬子に暗殺されてしまいそのよく月に炊屋姫が推古天皇として即位しました。</p>
<p>推古天皇の本心は息子の竹田皇子を即位させたかったのですが、若年だったため中継ぎとして即位しました。<br />
（竹田皇子は間もなく早世してしまいました。）</p>
<p>推古天皇は特筆すべきことは、残念ながら何もしていません。</p>
<p>政務は蘇我馬子と<a href="https://rekishigaiden.com/syotokutaishi/">厩戸皇子（聖徳太子）</a>がとっていたからです。</p>
<p>しかし、近年の研究で推古天皇は傀儡の天皇だったわけではなく、蘇我馬子と良いパートナーとして政務していたのではないかと言われます。</p>
<p>推古天皇は晩年、「朕は、蘇我の出身である。蘇我馬子は叔父にあたる。馬子のいったことは夜であれば夜の明けぬうちに、朝であれば日が暮れぬうちにどんな言葉でも用いてきたではないか」と語っています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
推古天皇は、蘇我馬子のことを寄らば大樹の陰として良いパートナーシップを築いていこうとしたのかなと思います。
</div>
</div></div>
<h3>遣隋使の派遣</h3>
<p>推古天皇は、生涯にわたる大プロジェクト「遣隋使」を行いました。</p>
<p>遣隋使が何回行われたかは定かではありませんが、推古天皇8年（600年）から推古天皇26年（618年）に隋が滅びるまで18年間に6回ほど派遣されました。</p>
<p>最初の遣隋使は600年に行われましたが、日本側の記録は一切残っていなく「隋書、倭国伝」に隋の初代皇帝、文帝のもとに倭国からの使者が訪ねてきたと記載されています。</p>
<p>遣隋使は618年に隋が滅びるまで続きましたが、中国との国交、留学生の派遣は「遣唐使」として引き継がれていきます。</p>
<h2>推古天皇のエピソード・逸話</h2>
<h3>蘇我氏の要望を断る</h3>
<p>推古天皇のエピソードで有名なのは、624年、蘇我馬子が生誕地である葛城県（かつらぎのあがた）をくれるように推古天皇に頼みました。</p>
<p>当時の葛城県は、大王領だったからです。</p>
<p>しかし推古天皇は「馬子は私の叔父だから要求を受け入れてきたが、これだけは承諾できない」とつっぱねました。</p>
<p>このことは、初めて推古天皇が蘇我馬子に主張したエピソードとして有名な話です。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
推古天皇の反論は、即位してから30年あまり、天皇しての威厳をそなえてきた証ではないでしょうか。
</div>
</div></div>
<h3>国を治めるためのマニュアルを残す</h3>
<p>もうひとつ推古天皇には逸話があります。</p>
<p>推古天皇は亡くなる前日に自分の後継者になるであろう、娘婿の田村皇子と厩戸皇子（聖徳太子）の皇子、山背大兄王を枕元に呼んで遺言を残しました。</p>
<p>田村皇子には「天下を治めるというのは、安易に口にだせるようなことではありません。行動を慎み、物事を見通すように心がけなさい。」</p>
<p>山背大兄王には、「あなたはまだ、未熟なので心でこうしたいと思ってもあれこれ言わず、必ず群臣の意見に耳をかたむけるようにと」と告げました。</p>
<p>結局、田村皇子が次の天皇、舒明天皇（じょめいてんのう）になりましたが、<span class="marker">推古天皇の遺言は国を治めるためのマニュアルがギュッと凝縮されている言葉です。</span></p>
<h2>推古天皇のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>推古天皇は554年5月21日、欽明天皇・蘇我稲目の娘、堅塩姫との間に生まれた。</li>
<li>593年、39歳の時に第33代天皇になり、在位期間36年の長期にわたり君臨した。</li>
<li>姿は綺麗で、性格は落ち着いていて18歳で敏達天皇の皇后になり34歳の時に敏達天皇が崩御した。</li>
<li>崇峻天皇が592年に蘇我馬子に暗殺されてしまいそのよく月に炊屋姫が推古天皇として即位した。</li>
<li>推古天皇は、生涯にわたる大プロジェクト「遣隋使」に行いました。</li>
<li>624年、蘇我馬子が生誕地である葛城県（かつらぎのあがた）をくれるように推古天皇に頼みましたが、「馬子は私の叔父だから要求を受け入れてきたが、これだけは承諾できない」とつっぱねた。</li>
<li>推古天皇は亡くなる前日に自分の後継者になるであろう、娘婿の田村皇子と厩戸皇子（聖徳太子）の皇子、山背大兄王を枕元に呼んで遺言を残した。</li>
</ul>
</div>
<p>日本の最初の女帝、推古天皇。</p>
<p>権謀渦巻く朝廷でサバイバルに心を砕いて治世36年を生き延びた女帝の姿をここに見る思いがしました。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>中大兄皇子(天智天皇)ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/tenditenno/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/tenditenno/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 18 Jun 2019 11:34:19 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://rekishigaiden.com/?p=50</guid>

					<description><![CDATA[あなたは中大兄皇子、もしくは天智天皇と聞いてまず何を思い浮かべますか？ 「あれ、名前は思い出せるけど、そういえば何した人なんだっけ……」となる方も多いのではないでしょうか。 その厳かな名前の響きから記憶には残りやすいけど]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>あなたは中大兄皇子、もしくは天智天皇と聞いてまず何を思い浮かべますか？</p>
<p>「あれ、名前は思い出せるけど、そういえば何した人なんだっけ……」となる方も多いのではないでしょうか。</p>
<p>その厳かな名前の響きから記憶には残りやすいけど、具体的に何をしたのかって言われたら意外と答えられないですよね。</p>
<p>今回は、そんな<span class="marker">中大兄皇子（天智天皇）の経歴や偉業</span>についてまとめてみました！</p>
<h2>中大兄皇子（天智天皇）のプロフィール</h2>
<p>天智天皇（てんぢてんのう/てんじてんのう、626年-672年1月7日）は<span class="marker">日本の第38代天皇</span>で、一般的には中大兄皇子（なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ）として主に知られています。</p>
<p>「大兄」とは、同じ母親を持つ兄弟の中の長男に与えられた皇位を継承する資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味しています。</p>
<h2>中大兄皇子（天智天皇）は何した人？</h2>
<p>第38代の天皇にまでなった中大兄皇子（天智天皇）は、具体的にどんなことを行ったのでしょうか。</p>
<p>有名なものとしては、以下のものがありますね。</p>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>乙巳の変</li>
<li>大化の改新</li>
<li>遣唐使の派遣</li>
<li>庚午年籍の作成</li>
</ul>
</div>
<p>では、それぞれ詳しく見ていきましょう。</p>
<h3>乙巳の変（いっしのへん）</h3>
<p>645年、当時<a href="https://rekishigaiden.com/syotokutaishi/">聖徳太子</a>の死により横暴を働くようになり始めた蘇我氏に対し、<a href="https://rekishigaiden.com/nakatominokamatari/">中臣鎌足</a>と手を組んでクーデターを起こした事件です。</p>
<p>これは、次に説明する<span class="marker">大化の改新の第一段階</span>としても知られています。</p>
<p>中臣鎌足についてはこちらに詳しくまとめています。</p>
<a href="https://rekishigaiden.com/nakatominokamatari/" class="blog-card"><div class="blog-card-hl-box"><i class="jic jin-ifont-post"></i><span class="blog-card-hl"></span></div><div class="blog-card-box"><div class="blog-card-thumbnail"><img src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/nakatominokamatari-320x180.jpg" class="blog-card-thumb-image wp-post-image" alt="中臣鎌足" loading="lazy" width ="162" height ="91" /></div><div class="blog-card-content"><span class="blog-card-title">中臣鎌足ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめてみました</span><span class="blog-card-excerpt">中臣鎌足って、名前の響きだけ覚えている人も多いのではないでしょうか。

なかとみのかまたり……覚えにくそうで逆に覚えやすい名前ですよ...</span></div></div></a>
<p>当時の蘇我氏は、かの三国志で暴君として知られる董卓と並ぶほどの暴政を働いていました。</p>
<p>それに終止符を打つため、中臣鎌足らを中心に暗殺計画が密に進められたのです。</p>
<p>順調に進んでいた計画……だったのですが、最後の最後で暗殺を実行するはずだった協力者の2人が足を竦めてしまいます。</p>
<p>そこで、咄嗟に「これはいけない！」と判断した中大兄皇子は、自ら剣を振り<a href="https://rekishigaiden.com/soganoiruka/">蘇我入鹿</a>にとどめを刺しました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
か、かっこいい……！</p>
<p>彼がとても優れた勇敢さと冷静さを持っていたことが分かりますね。
</p></div>
</div></div>
<h3>大化の改新</h3>
<p>645年、大化の改新――というふうに年号はなんとなく覚えてはいるけど、中身はよく知らないという方もかなり多いのではないでしょうか。</p>
<p>厳密に言えば、大化の改新が645年に「行われた」、とするのは間違いで、645年から「始まった」といった方が正確でしょう。</p>
<p>乙巳の変を皮切りに、蘇我氏によって荒らされた政治を修正するための大規模な国政改革が行われました。</p>
<p>これらの一連の動きを、まとめて大化の改新と呼びます。</p>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>日本で初めての元号の制定</li>
<li>国博士・内臣・左大臣・右大臣という国に携わる重要な役職の設置</li>
<li>新たな施政方針を示す改新の詔の発布</li>
</ul>
</div>
<p>など様々な改革が施されました。</p>
<p>これらの先導は主に中臣鎌足によって行われ、中大兄皇子は協力という立場だったようです。</p>
<h3>遣唐使の派遣</h3>
<p>中国の先進的な技術や文化、仏教の経典を持ち帰ることを目的に唐に派遣されたのが遣唐使です。</p>
<p>かつて遣隋使を派遣したときと同じように、「日本と唐は対等である」という姿勢で日本側は挑んでいますが、唐側ではそのように扱ったという記録は残されていません。</p>
<p>むしろ、あちらも日本を下に見ていたとされています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
お互いが火花バチバチの、けん制し合いながらの交流だったのですね。
</div>
</div></div>
<h3>庚午年籍（こうごねんじゃく）の作成</h3>
<p>庚午年籍とは、<span class="marker">日本で初めて作成された全国的な戸籍</span>のことです。</p>
<p>ただしこの庚午年籍、現存はしておらず、本当に全国のすべての階層の人々を対象に作成されたのかはまだ疑念が残っています。</p>
<p>ただ、後年の記録では庚午年籍をもとにして作られたという記述が残されており、その存在自体は確かなものとして扱われているようです。</p>
<h2>中大兄皇子（天智天皇）のエピソード・逸話</h2>
<p>ここで、中大兄皇子を語るうえで欠かせない有名なエピソードを2つ紹介いたしましょう。</p>
<h3>長く天皇に即位しなかった</h3>
<p>彼は皇太子という立場で長く活動し、<span class="marker">なかなか天皇に即位しようとしませんでした。</span></p>
<p>その理由には諸説あり、</p>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li><a href="https://rekishigaiden.com/tenmutenno/">天武天皇</a>を推す人々へ気を遣った</li>
<li>女性関係の荒さに反発を覚えた人が多かった</li>
<li>元々有力な後継者ではなかったので、皇太子を長く務めて正当性をアピールしていた</li>
</ul>
</div>
<p>などなど沢山です。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
現存する資料だけでは特定は困難であるため、今後の新たな発見に期待ですね。</p>
<p>個人的には女性関係説であってほしいなと思います(笑)
</p></div>
</div></div>
<h3>歌人として高く評価されていた</h3>
<p>中大兄皇子は、政治の他にも歌人として高く評価されており、<span class="marker">百人一首の冒頭の歌</span>は有名です。</p>
<div class="simple-box9">
<p>秋の田のかりほの庵（いほ）の苫（とま）をあらみわが衣手は露にぬれつつ<br />
（秋の田んぼのほとりにある仮小屋の、その屋根を葺いた苫の編み目が荒いので、私の衣の袖は露に濡れていくばかりである）</p>
</div>
<p>これは収穫期の農作業にいそしむ田園の風景を詠んだ歌ですが、天皇という立場であるにも関わらず農民の苦労も理解できているということから、多くの支持を得ています。</p>
<h2>4行でわかる中大兄皇子（天智天皇）のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>日本の第38代天皇。</li>
<li>乙巳の変・大化の改新・遣唐使の派遣・庚午年籍の作成を行った。</li>
<li>なかなか天皇に即位しようとしなかった（理由は諸説あり）。</li>
<li>政治だけでなく、歌人としても評価されており、百人一首にも載っている。</li>
</ul>
</div>
<p>大化の改新という、日本史を語るうえで欠かすことのできないほど重大な出来事に携わった中心人物、それが中大兄皇子（天智天皇）です。</p>
<p>悪政を終わらせるために暗殺を自ら実行する勇敢さや国政の大幅な改革、農民の気持ちも理解できる庶民的な姿などからすると、当時も多くの民衆から支持をされていたのではないかと考えられますね。</p>
<p>長く即位しなかったことなどまだまだ謎の多い人物ではありますが、日本の歴史に大きな役割を果たしたのは間違いないでしょう！</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>聖徳太子ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめました</title>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 16 Jun 2019 01:02:49 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
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					<description><![CDATA[聖徳太子といえば、日本最大の偉人といってもいい人物。 昭和の時代には1万円札に描かれてもいました。 近年「聖徳太子は実在しなかった」という話題が出たことがあります。 専門家の間でも喧々諤々様々な説が出て、実在した派と実在]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span class="marker">聖徳太子</span>といえば、日本最大の偉人といってもいい人物。</p>
<p>昭和の時代には1万円札に描かれてもいました。</p>
<p>近年「聖徳太子は実在しなかった」という話題が出たことがあります。</p>
<p>専門家の間でも喧々諤々様々な説が出て、実在した派と実在しなかった派の間に論争が繰り広げられました。</p>
<p>現在では、聖徳太子のモデルである厩戸皇子（または厩戸王）は実在したが、聖徳太子の業績として伝わっているものは厩戸皇子が関与していたとははっきりしないというところに落ち着いているようです。</p>
<p>それを受け、高校の日本史教科書でも現在では「厩戸王（聖徳太子）」などという表記になっているようです。</p>
<p>ここでは、実在したかしなかったかはひとまず置いておいて、日本の歴史の中で伝えられてきた聖徳太子について見ていこうと思います。</p>
<h2>聖徳太子のプロフィール</h2>
<p>『日本書紀』の記述によれば、後の聖徳太子、つまり厩戸皇子が生まれたのは、第30代天皇、敏達天皇の3年。<br />
西暦に直すと574年。</p>
<p>ちなみに、日本で元号が用いられたのは「大化の改新」で有名な大化からで、厩戸皇子が生まれた頃にはまだ元号は使われていなかったので、史書では時の天皇の在位の年で著されます。</p>
<p>厩戸皇子の父君は橘豊日皇子。<br />
第29代天皇・欽明天皇の皇子で、敏達天皇の弟にあたります。</p>
<p>そして母君は穴穂部間人皇女。<br />
実は、厩戸皇子のご両親は異母兄妹の間柄にあります。</p>
<div class="m50"></div>
<p>厩戸皇子が11歳の西暦585年、敏達天皇が崩御され、橘豊日皇子が天皇に即位、しかしわずか2年で天然痘により崩御（諡号用明天皇）。</p>
<p>用明天皇の弟の泊瀬部皇子が天皇に即位したものの、西暦592年に蘇我馬子により暗殺（諡号崇峻天皇）。</p>
<p>崇峻天皇の異母姉が天皇として擁立（崩御後の諡号は<a href="https://rekishigaiden.com/suikotenno/">推古天皇</a>）され、厩戸皇子は皇太子となりました。</p>
<p>そして、摂政として天皇を補佐。<br />
数々の献策を行います。</p>
<div class="m50"></div>
<p>推古天皇の30年、西暦622年、厩戸皇子は病に倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。<br />
享年は49歳だったといいます。</p>
<h2>聖徳太子は何した人？</h2>
<p>さてでは、次に史書に聖徳太子の業績として記されているものを見ていきましょう。</p>
<p>現代の研究では「厩戸皇子」がここに関与している明確な史料は見つかっていませんが、あくまで「聖徳太子」の業績として記していきたいと思います。</p>
<h3>遣隋使の派遣と冊封体制からの脱出</h3>
<p><a href="https://rekishigaiden.com/suikotenno/">推古天皇</a>の御代、中国を支配していたのは隋帝国でした。</p>
<p>『隋書』によれば、日本は西暦600年に初めての遣隋使を送っています。<br />
ただ、これは『日本書紀』には記されていません。</p>
<p>聖徳太子によると『日本書紀』に記されているのが、推古天皇15年、西暦607年に<a href="https://rekishigaiden.com/ononoimoko/">小野妹子</a>を派遣した2回目の遣隋使です。</p>
<p>このとき、小野妹子が携え、隋帝に差し出したのが「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」で知られる国書です。</p>
<p>それまで日本は中国の皇帝に王と認められることで権威を保っていました。<br />
卑弥呼然り、倭の五王然りです。</p>
<div class="concept-box6">
<p>他国の王が中華帝国の家臣として認められることを冊封といいます。</p>
</div>
<p>天子は天命を受けて即位した中国皇帝のみが名乗れるというのが、当時の東アジアの常識です。</p>
<p>ところが、聖徳太子は<span class="marker">日本の天皇も天子であるとして、隋と日本が対等の関係であると表明しました。</span></p>
<p>もちろんこれは隋側を怒らせました。</p>
<p>しかし、これから後、日本は冊封体制から脱し、現代に至るまで中華帝国の属国となることはありませんでした。</p>
<p>ただ、この後も遣隋使、遣唐使などの朝貢は行っています。</p>
<h3>実力主義による冠位十二階の制定</h3>
<p>聖徳太子以前の日本の朝廷では「氏姓制度」が用いられていました。</p>
<p>これは、朝廷から役職を伴う氏（うじ）、姓（かばね）が下賜され、それが世襲されるというもの。</p>
<p>つまり特権階級の固定化が行われていました。</p>
<p>聖徳太子はそれを改め、<span class="marker">世襲ではなく個人の能力によって冠位が決まる冠位十二階を導入</span>しています。</p>
<p>これは、有能な人材を得るためと、中華帝国に模した制度を取り入れ、国としての権威を高めようとしたためという2つの目的があったと考えられています。</p>
<h3>十七条憲法の制定</h3>
<p>次に聖徳太子は「十七条憲法」を制定しました。</p>
<p>よく知られる「和を以て貴しとなす」で始まる十七条の条文です。</p>
<p>ただし、内容としては他に</p>
<p>「仏教を敬いましょう」<br />
「君臣の分をわきまえましょう」<br />
「人それぞれに心があるから、違いがあることを認めて怒らないようにしましょう」</p>
<p>といったことが書かれており、現代の感覚でいう憲法というよりは、みんなが守るべき心構え的な文言が並んでいます。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
十七条憲法については、</p>
<ul>
<li>江戸時代から聖徳太子が制定したのではなく、まったくの創作であるという説</li>
<li>十七条憲法自体は実在するが、聖徳太子より後の時代に制定されたものであるという説</li>
</ul>
<p>などがあります。
</p></div>
</div></div>
<h2>聖徳太子のエピソード・逸話</h2>
<p>次に、史書や、その他の書物などで伝えられた聖徳太子伝説です。</p>
<p>こちらはだいたい荒唐無稽で、話を盛りすぎた感が強いですが、お話としてはおもしろいです。</p>
<h3>聖徳太子馬に乗って富士山を飛び越える</h3>
<p>聖徳太子は全国から馬を集めたといいます。</p>
<p>そして、その中から甲斐の国より献上されたたてがみとしっぽが白い黒駒を選びました。</p>
<p>その<span class="marker">黒駒に太子が乗ると、馬は空を飛んで、富士山を飛び越えた</span>というのです。</p>
<p>そして、そのまま甲斐の国まで飛んでいき、飛び越えた山が「駒ヶ岳」と名付けられました。</p>
<p>さらに、駒ケ岳のふもとを流れる川は、馬のしっぽが白かったことから尾白川と名付けられたといいます。</p>
<p>ちなみに尾白川の源流では、サントリーがウイスキーの仕込み水、天然水の水などを採水しています。</p>
<h3>聖徳太子聖人を助ける</h3>
<p>聖徳太子が奈良県の片岡山を訪れたときのこと、道端に旅人が倒れていました。</p>
<p>太子は旅人が飢えていた様子だったので、食べ物を与えて、服をかけてあげました。</p>
<p>次の日に太子がその旅人の様子を見に行かせると、旅人がすでに亡くなっていたという知らせ。</p>
<p>そこで太子は、旅人を埋葬して墓をつくってあげました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>それから何日か後、太子はあれはきっと「真人」だったはずだと墓を見に行かせると、果たして棺の中には遺体がなく、服だけが残されていたので、人々は聖人は聖人を知るものだなあと感心したといいます。</p>
<p>真人というのは、中国の道教における道を得た人のこと。<br />
イコール仙人であると言ってもいいでしょう。</p>
<p>誰かが亡くなった後、棺を開けると服だけが残っていた、剣だけが残っていたというのは、中国の説話によく見られるオチ。</p>
<p>これは「尸解仙」といい、その人が死んだ後に仙人となって天に登ったことを表します。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
要するに、聖徳太子が仙人になる直前の人を見抜いた！すげえ！ということを言いたいわけです。
</div>
</div></div>
<h3>聖徳太子「忍びの者」を使う</h3>
<p>聖徳太子が、<span class="marker">伊賀国の大伴細人なる人物を「志能備（シノビ）」として使い、周囲の情報を探らせていた</span>という伝説があります。</p>
<p>つまり、忍者は聖徳太子が使った「志能備」がルーツにあるというのですね。</p>
<p>聖徳太子には、<span class="marker">10人の人が一度に喋ったことを全て聞き分けた</span>という伝説もありますが、これは「志能備」により情報を集め、様々なことに通じていたことがそのような形で伝わったのだという人もいます。</p>
<p>もっとも大伴細人や志能備自体、民間伝承に過ぎません。</p>
<h2>聖徳太子まとめ</h2>
<p>これまで見てきたように、聖徳太子には実像と虚像が入り混じっています。</p>
<p>ただ、そこに古代日本の現実が反映されていることも事実だと思います。</p>
<p>「盛り過ぎだから実在しない」と、ばっさり切って捨ててしまうのはちょっと短絡過ぎるのではないでしょうか？</p>
<p>聖徳太子は、日本が日本として成り立っていく最中に行きた人物です。</p>
<p>聖徳太子を通じて、古代の日本にアクセスしてみるのもきっとおもしろいですよ？</p>
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