飛鳥時代

蘇我入鹿ってどんな人?わかりやすく簡単にまとめてみました

蘇我入鹿

有名な乙巳の変(大化改新)で、中大兄皇子・中臣(藤原)鎌足に暗殺された蘇我入鹿(そがのいるか)。

世紀の大悪党と、巷では有名ですが、最近の研究では、「悲劇の秀才」ともいわれ始めています。

蘇我氏は馬子が有名ですが、その子蝦夷(えみし)、孫、入鹿(いるか)も重要な役割を担っていました。

まさむね
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うまこ、えみし、いるかと現代からしたら変な名前ですよね?

それには訳があり、当時は精霊崇拝の思想があり動物の名前を好んでつける風潮がありました。

入鹿という名前も海の神の力を借りるためにイルカの名前にちなんでつけたと入鹿自身が言っています。

今、流行のキラキラネームに似ていますね。

今回は、そんな蘇我入鹿の人となりをわかりやすくご紹介します!

蘇我入鹿のプロフィール

蘇我入鹿は推古18年(610年)に奈良県明日香村で生まれました。
父は蘇我蝦夷です。

青年期に飛鳥時代の僧、旻(みん)の学問所で学んでいました。
旻によると入鹿はとても優秀だったそうです。

まさむね
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だから現在の学者さん達は入鹿のことを「悲劇の秀才」と呼んでいるのですね。

推古34年(626年)、父の蝦夷が大臣に就任し、入鹿は蝦夷から紫冠(しかん)を与えられます。

紫冠とは、大化3年(647年)に制定された七色十三階冠の1つでその中に大紫(だいし)、小紫(こし)の冠位で蘇我氏だけが受け継ぐ冠位のことです。

皇極2年(643年)、父、蝦夷から独断で大臣を譲られました。

皇極3年(644年)、甘樫丘(あまかしのおか)に邸宅を築き、家を上の宮門、谷の宮門と呼びました。

皇極4年(645年)、中大兄皇子・中臣鎌足に暗殺(乙巳の変)されます。
大臣になってからたった2年で暗殺された、濃く短い人生でした。

蘇我入鹿は何をした人?

蘇我入鹿が行ったことで有名なのは、厩戸皇子(聖徳太子)の息子の山背大兄王一族を滅ぼしたことです。

皇極2年(643年)の冬、父蝦夷が病気と称して出仕しなくなり、入鹿に勝手に大臣の位を譲りました。

そのことにより入鹿は天狗になり、蘇我系皇族の古人大兄皇子を次の天皇にしようと思い、次の天皇候補の山背大兄王が邪魔になり暗殺しました。

しかし、藤原氏の家伝「藤家家伝」には、皇極天皇(こうぎょく)の即位に際して山背大兄王が謀反を起こす可能性があるため、他の皇族と一緒に殺害したと書いてあり、日本書紀との矛盾が最近、指摘されています。

まさむね
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日本書記は勝者の藤原氏が書いたものなので、蘇我氏にとっては良いことは書いていないのかも知れません。

このことが乙巳の変(大化の改新)の大義名分になりましたが、山背大兄王暗殺は、現在では襲撃は入鹿の独断専行ではなかったという説が取り沙汰されています。

蘇我入鹿のエピソード・逸話

天皇気取りで幅をきかせていた

蘇我入鹿のエピソードとしては、甘樫丘に自分の邸宅を建て、父、蝦夷の家を「上の宮門」、入鹿自身の家を「谷の宮門」と呼んだり、自分の子供たちを「王子(みこ)」と呼ばせたりしました。

やはり、天皇を自負していた節があります。

蘇我氏の祖廟(おやまつりや)を葛城(かつらぎ)の高宮に建てたときには、中国では天子だけが執り行える「八らの舞(やつら)」を催しました。

さらに、蝦夷・入鹿父子は民を総動員させて自分たちの墓を作らせて蝦夷の墓を「大陵(おおみささぎ)」、入鹿の墓を「小陵(こみささぎ)」と呼ばせました。

ちなみに陵(みささぎ)とは、天皇の墓を指す言葉です。

まさむね
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このように、いくら日本書記が藤原氏の書いたもので蘇我氏を貶めようとしていた書物であっても、蘇我氏の専横ぶりは他の豪族の鼻につくものだったことは確かだと思います。

あっけない最期

ここで、入鹿最大のエピソード、乙巳の変(大化改新)の概要をご紹介します。

皇極4年(645年)、6月12日、朝鮮三国の使者が貢納品を献上する儀式が飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で行われました。

大臣である蘇我入鹿も出席しましたが、そこで中大兄皇子・中臣鎌足は入鹿を暗殺することに決めていました。

入鹿は猜疑心が強く、どんな場所でも刀は手放しませんでしたが、なんとか入鹿を言いくるめて刀をはずさせることに成功しました。

蘇我石川麻呂が上奏文を読んでいる時に佐伯小麻呂(さえきのこまろ)・葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)が入鹿を襲う手はずになっていましたが、中々実行しないので、中大兄皇子が入鹿に切りつけました。

その時入鹿は、皇極天皇に「私に何の罪があるのでしょうか」と問いかけましたが、皇極天皇は何も言わずに退出しました。

その後入鹿は首を切られ、亡骸は庭に投げ捨てられました。

これが乙巳の変(大化改新)の全容ですが、なんともあっけないというか可哀そうな最期だと思います。

いくら蝦夷と入鹿が天皇級の天狗になっていたとしてもなんで暗殺しなくてはならなかったのでしょうか。

まさむね
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よっぽど中大兄皇子・中臣鎌足、特に鎌足にとって、政治的に蘇我氏は目の上のコブだったのでしょう。

入鹿の怨念がこもった山?

三重県松阪市飯高町舟戸に入鹿の首塚という五輪塔があります。

同地の高見山まで入鹿の首が飛んできたという伝承があり、村人が手厚く葬ったとあります。

この高見山に鎌をもって入ると必ず怪我をするとされていて、それは入鹿を殺害した鎌足の鎌の字を忌み嫌ってという逸話があります。

まさむね
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確かに入鹿にしたら自分を殺した人物の名前ほど嫌なものはないでしょうね。

蘇我入鹿のまとめ

まとめ
  • 入鹿は610年、奈良県明日香村で生まれる。
  • 父は蘇我蝦夷。
  • 643年、父、蝦夷から独断で大臣を譲られた。
  • 皇極3年(644年)、甘樫丘(あまかしのおか)に邸宅を築き、家を上の宮門、谷の宮門と呼ばれた。
  • 643年、山背大兄王、暗殺。
  • 皇極4年(645年)乙巳の変(大化改新)で暗殺される。
  • 三重県松阪市飯高町舟戸に入鹿の首塚という五輪塔があり、高見山に鎌をもって入ると必ず怪我をするとされている。

以上、今回は蘇我入鹿についてご紹介しました。

蘇我入鹿が亡くなって、律令制度は一気に進んだと日本書記はいう。

しかし、実際に制度が整うのは乙巳の変(大化改新)の後、数十年先のことでいったいなぜ入鹿は暗殺されなければならなかったのでしょうか。

その謎は1400年たった今でも解明されていません。

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