中臣鎌足って、名前の響きだけ覚えている人も多いのではないでしょうか。
なかとみのかまたり……覚えにくそうで逆に覚えやすい名前ですよね。
いくらそっちの方が覚えやすいからって間違えないように(笑)。
さて、そんな彼ですが、いったい歴史上で何を成し遂げた人なのでしょうか。
また、他にはどんなエピソードが?
この記事では中臣鎌足の経歴や偉業を簡単にまとめてみました!
目次
中臣鎌足のプロフィール
中臣鎌足(なかとみのかまたり)614-669。
晩年に藤原鎌足(ふじわらのかまたり)と姓を変えています。
実は、あの「藤原氏」の始祖にあたる人物なのです。
つまり、普通に彼を語るときは「中臣鎌足」で問題ないということですね。
中臣鎌足は何した人?
中臣鎌足といえば、必ずセットで覚えておきたい2大事件があります。
それがこちら!
- 乙巳の変
- 大化の改新
それでは、詳しく見ていきましょう。
乙巳の変
645年、中大兄皇子(後の天智天皇)や石川麻呂たちと協力して、当時暴政を働いていた蘇我入鹿を暗殺、入鹿の父の蘇我蝦夷を自殺に追いやり、蘇我氏を滅亡させた一大事件です。
中臣鎌足はこの暗殺事件に際し、かなり密な計画を企てました。
一人では成功は不可能だと分かっていた彼は、協力者を探します。
その一人、特にこの事件の重要人物でもある中大兄皇子とは、脱げた靴を拾ってくれたことがきっかけで知り合ったそうです。
鎌足が巧みな話術を持っていたのか、もしくはそれほど蘇我氏の横暴さが目に付いていたのでしょう。
中大兄皇子についてはこちらの記事で詳しくまとめていますので、良ければご覧ください。

また、鎌足はこの功績から、内臣という役職に任じられ、国の軍事を指揮する権利を手に入れました。
ただし、内臣は「国の重要なお目付け役」というような意味で用いられ、正式な官職ではありません。
あくまで信頼できる参謀として、国を任されていたのですね。
大化の改新
大化の改新とは、乙巳の変をきっかけに行われた、それ以降の国政改革全般を指します。
それまで蘇我氏の横暴により荒らされていた政治を、正しいものに修正しようとすることが目的で、協力者には中大兄皇子などがいました。
中臣鎌足は、その中でも特に中心的な役割を果たしました。
改革を実行したのはほとんど彼だと言ってもよいでしょう。
具体的には、日本初の元号や新たな施政方針の制定などですね。
この改革は日本の歴史上でかなり重要な意味を持つもので、その後の国政の基盤が形作られました。
おそらくこの改革がなければ、これ以降の日本の歴史は大きく変わっていたことでしょう。
それゆえ、その実質的な主導者だった中臣鎌足は、歴史上でも偉大な人物だったと語り継がれているわけですね。
中臣鎌足のエピソード・逸話
あの「藤原氏」の始祖!
先にも書いたように、鎌足は後の日本の歴史でも頻繁に登場する大氏族「藤原氏」を名乗った最初の人物です。
要するに、彼はその実績だけでなく名前でも後々にとてつもない影響を与えていることになります。
この意味でも、日本史を語るうえで欠かしてはいけない人物であることが分かりますね。
初期の頃には中臣鎌子(なかとみのかまこ)と名乗っていた
鎌子……現代だとなかなかインパクトのある名前ですよね。
加えて男性ですから、なおのことです。
ただ、研究者によっては、「鎌」が名前であり「子」や「足」はあくまで敬称として使う語尾である、とする説もあるようですね。
「藤原」の姓を賜った翌日に死んでしまった
天智天皇から「藤原」姓を賜った彼は、なんとその翌日に亡くなってしまいました。
つまり、彼が「藤原鎌足」だった期間はたった1日だけだったということになります。
これが後々まで続く大氏族の始まりになるわけですから、日本の歴史上でとても重要な1日だったと言えるでしょう。
4行でわかる中臣鎌足のまとめ
- 乙巳の変で蘇我氏を滅ぼし、それまでの悪政を終わらせた
- 後に続く大化の改新では実行の中心的な人物として国政改革に携わり、日本の基盤に大きな役割を果たした
- 大氏族「藤原氏」の始祖であるが、彼自身は姓を賜った翌日に亡くなった
- もともとは「中臣鎌子」と名乗っていたこともある
中臣鎌足が日本に与えた影響はとても大きく、彼がその後の日本の基盤を作り上げたといっても過言ではないでしょう。
暗殺を計画し、実行する勇気。
国を主導し、自ら改革を行う手腕。
彼の類稀なる決断力が、日本に大きな変革をもたらしたのです。
役に立ちました
学校の宿題として写してもらいました