石田三成という名は、豊臣秀吉とセットでよく出てきます。
彼の生涯のほとんどは、秀吉の忠実な家臣としての人生です。
彼はその側近として、人生をかけて秀吉をサポートしました。
では、石田三成は具体的にどのようなことを成し遂げたのか?
また、どのようなエピソード・逸話があるのでしょうか。
簡単にまとめてみました!
目次
石田三成のプロフィール
石田 三成(いしだ みつなり)1560-1600。
安土桃山時代の武将・大名であり、豊臣家家臣。
また、佐和山城主でもありました。
1574年から、父・兄とともに秀吉に仕官し、当初は小姓として仕えています。
石田三成は何した人?
石田三成を語る上で外せない出来事は以下の通りです。
- 豊臣秀吉の側近
- 朝鮮出兵
- 五奉行
- 関ヶ原の戦い
それでは、詳しく見ていきましょう。
豊臣秀吉の側近
1582年に起きた本能寺の変により織田信長の死後、次の天下人として頭角を現したのが豊臣秀吉です。
次第に地位を高めていく中で、その側近として長く活躍したのが石田三成でした。
彼は賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦い、九州平定、小田原征伐など数々の戦で功績を残し、秀吉政権の最重要人物としてその名を挙げていきます。
また、堺奉行や博多奉行にも任じられ、知略を生かした地方内政にも尽力しました。
まさに秀吉の「右腕」と呼べる存在だったわけですね。
朝鮮出兵
1592年から行われた朝鮮出兵では、漢城に駐留して総奉行として群を率いています。
また、明(中国)との講和交渉にも関与し、海外進出への橋渡しとなりました。
しかし、これらの積極的な行動は、与えられた役割を逸脱しているものだと捉えられ、豊臣家の中には反発を覚えるものもいたそうです。
五奉行
1598年の豊臣秀吉の死後、政権の実務を担った5人の中心的人物を、五奉行と呼びます。
その中でも、石田三成は主に行政担当として、秀吉亡きあとの豊臣政権を支えました。
五奉行には他に、浅野長政、前田玄以、増田長盛、長束正家がいます。
彼らは生前の豊臣秀吉を支え、その中核を担った優秀な人材たちとして選ばれていますが、意見の食い違いから、のちの関ヶ原の戦いではバラバラに敵として戦いました。
関ヶ原の戦い
秀吉が亡くなって以来、豊臣政権内部の政争は収まることを知らず、日に日に軋轢は大きくなっていきます。
そして1600年、ついに雌雄を決する天下分け目の大合戦が行われることになるのです。
石田三成は毛利輝元を総大将とした西軍側として、徳川家康を中心に構成された東軍と戦いました。
西軍は初め、東軍よりもやや有利な状態で戦を進めます。
しかしその矢先、なんと西軍側の小早川秀秋と脇坂安治らによる裏切りにより、瞬く間に追い詰められてしまうのです。
この裏切りは、西軍東軍どちらに着くべきか迷った秀秋の陣に家康が鉄砲を打ち込んだため思わず西軍側に攻撃を仕掛けた説と、開戦直後にすぐ裏切ったとする説があるようです。
敗北した彼は罪人として捉えられ、大阪・堺を引き回しの刑にされた挙句、斬首されました。
石田三成のエピソード・逸話
「三杯のお茶」が、彼の人生を大きく変えた
ある日お寺に立ち寄った秀吉が茶を所望した際、光成はまず最初に大きめの茶碗にぬるめのお茶を入れ、次にそれよりも少し小さな茶碗にやや集めのお茶を入れ、最後に小さな茶碗にお茶を出した、というエピソードがあります。
ぬるめのお茶を最初に出すことで、熱いお茶を十分に味わわせようとするその心遣いに秀吉は感服し、光成を自分の家臣としたそうです。
無益な殺生は拒んだ
1596年、キリシタンの弾圧に動いた秀吉は、石田三成にその任を命じます。
しかし、彼は捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りを宥めて信徒達が処刑されないように奔走したりするなどしました。
無益な殺生だと分かっていたからなのか、信念に反することはたとえ忠誠を誓う主からの命でも受けられない、ということでしょうか。
斬首間際でさえ、その信念を曲げなかった
関ヶ原の敗北後、三成が京都の町を引廻されている最中のこと。
水が飲みたくなった彼は警護の者に伝えたところ、代わりに干柿を差出されます。
しかし三成は「痰(たん)の毒であるから食べない」と言って断りました。
人々は「もうすぐ斬首される人間が毒など気にしてどうするんだ」と笑いましたが、三成は
「大義を思うものは、最期の瞬間まで命を大事にするもの。
それは、何としてでも自らの本望を達したいという思いがあるからだ。」
と言い放ったそうです。
4行でわかる石田三成のまとめ
- 豊臣秀吉の側近として、戦や内政で大きな役割を果たした。
- 秀吉の死後、五奉行として豊臣政権を支えた。
- 関ヶ原の戦いでは西軍側として戦うも、味方の裏切りにより敗北し、斬首された。
- 信念を貫く姿勢や、人情を感じさせる数々の逸話があった。
豊臣秀吉は、石田三成なしではここまで大きな存在として歴史に名を残さなかったでしょう。
忠実な家臣として尽くした彼は、主の死後もその信念を貫き通しました。
見方の裏切りという皮肉な最期に、光成は何を思ったのでしょうか。
それは、彼だけが知ることですね。