学校で習った野口英世は、日本の代表的な医師であり研究者でした。
確かに特に伝染病の研究に熱心に取り組みノーベル賞の候補にもなった人です。
「医学の伝道師」と言われた野口英世ですが、その反面ルーズなところもあったようです。
ここでは野口英世はどういう人物だったのか、彼の生涯を見ていきましょう。
目次
野口英世のプロフィール
- 生誕:1876年11月9日
- 生誕地:福島県耶麻郡三ツ和村(現在の猪苗代町)
- 名前:野口清作(後に英世に改名)
- 没年:1928年5月21日(51歳没)
野口英世は何をした人?
貧乏な農家生活と火傷
野口英世は父左之助と母シカの長男として生まれ清作と名付けられました。
父親の左之助は人はいいのですが、酒好きで怠け者でした。
ですから野口家はいつも生活に苦労していました。
野口は1歳の時、囲炉裏に落ち左手に大やけどをしてしまいます。
貧乏な野口家はそんな息子を医者にも見せてやれませんでした。
1883年三ツ和小学校に入学しました。
左手の不自由な野口には農作業は無理だと考えた母は学業で身が立つようにと言い聞かせます。
野口自身も貧乏な農家を継ぐなんて死んだほうがマシだと姉に話したそうです。
手のことで「清ボッコ」といじめられていた野口は、成績は良く猪苗代高等小学校に入学できました。
1891年野口は自分の障害を嘆く作文を書き、それが教師や同級生らの同情を誘いました。
そして左手の手術のための募金が集められたのでした。
翌年アメリカ帰りの医師渡部鼎(わたなべかなえ)に手術をしてもらい、不自由ながらも左手がなんとか使えるようになりました。
野口はこのことがきっかけで医師を目指すようになったのです。
医師を目指して
1893年学校を卒業した野口は渡部鼎の元で書生として住み込みで働きながら約3年半の間医学の基礎を学びました。
1896年に渡部の友人の歯科医で東京都港区の高山江東歯科医学院(現在の東京歯科大学)の講師・血脇守之助と出会います。
その年、小学校時代の恩師小林から40円もの大金を借りて上京し、医術開業試験の前期試験に合格しましたが、放蕩にふけりわずか2ヶ月で資金を使い果たしてしまったのです。
ドイツ語の勉強をしたかった野口は血脇に泣きつき、院長に掛け合い賃金を上げてもらうことに成功し、そのお金でドイツ語を習うことができました。
また、後期試験のために済生学舎(現在の日本医科大学)へ通うために血脇に頼み、血脇は院長から病院の経営を任せてもらうようになり野口は月に15円もの額を得ることができるようになりました。
1897年臨床試験で打診ができないことから、血脇の計らいで近藤次繁に左手の再手術を受け打診ができるようになり後期試験にも無事合格しました。
1898年からは北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)に勤めます。
語学が堪能なことから主に外国人相手の通訳等を担当しました。
この頃野口は坪内逍遥の「当世書生気質」を読み、ことば巧みに借金を繰り返し自堕落な生活を送る登場人物の野々口精作が自分の名前とよく似ており、またその所業も自分と重なるところが気に入らず、名前を清作から英世に改名しています。
アメリカへ
1899年清国でのペスト対策として国際防疫班に選ばれますが、放蕩で資金がなくまた血脇に工面してもらい清国へ渡りました。
翌年義和団の乱が起こり清国の情勢が悪くなり、野口は帰国します。
この年医師を志す女学生の斉藤ます子と婚約し、その持参金を持ってアメリカへ渡航し、ペンシルベニア大学医学部の助手として蛇毒の研究に当たりました。
研究の結果を論文にまとめ、それは高く評価されました。
1903年にはデンマークのコペンハーゲンへ留学し、血清学の研究を続けいくつかの論文を発表しています。
1904年アメリカに戻った野口はロックフェラー医学研究所に勤務しました。
1905年には血脇が婚約者へ野口が持たせた持参金300円を返し、婚約を破棄しています。
1911年野口は京都帝国大学病理学教室に論文を提出し、医学博士の学位を与えられました。
その年アメリカ人女性のメリー・ダージスと結婚しています。
1914年には東京大学より理学博士の学位を授与され、ノーベル医学賞候補になりました。
最後の帰国と晩年
1915年野口は15年ぶりに日本へ帰国し、年老いた母親との再会を果たします。
またこの時にお世話になった小林と血脇に懐中時計を贈っています。
これが野口が日本に帰った最後となります。
またこの年2度目のノーベル医学賞の候補になっています。
1918年から黄熱病の病原体発見のためエクアドルへ派遣されます。
そしてレプトスピラ・イクテロイデスという病原体を発見し、3度目のノーベル医学賞候補となりました。
その後ペルーやメキシコ、アフリカなどへ病原体を探して各国を巡りましたが、1928年野口自身が黄熱病にかかりました。
一度は持ち直したものの再度病状が悪化し、病院で亡くなってしまうのでした。
彼はアフリカへ行くのを決めた時に
「私は何も恐れない。私はこの世に何かを成すために生まれてきたのです。もし死ぬべき時が来たらそれに従うだけです」
と言っています。
野口英世のエピソード・逸話
戸籍の改名
「当世書生気質」の登場人物が名前も行いも、自分と似ていたことから清作から英世に改名したのですが、戸籍を変えることは困難でした。
そこで別の集落に住んでいた清作という人に頼み込んで、自分の生家の近所にあった別の野口家へ養子に入ってもらい、2人目の野口清作を作り、同じ集落に同姓同名がいるのは紛らわしいと主張し戸籍の名前を変えることに成功したのでした。
それほど小説の中の野々口は自分と似ていて、それが恥ずかしかったのでしょう。
血脇守之助との関係
野口はお金に困ると血脇に泣きついていました。
これは野口の遊び好きのせいだったのですが、血脇は何度もその要求に応えています。
留学前に血脇にもらった500円という大金を放蕩で使い切ってしまったと聞いたときは流石に言葉を失うほど呆れたと言います。
1922年に血脇がアメリカを訪れた時、野口は大喜びで何日間も案内をして回ったそうです。
そして「私の大恩人の血脇守之助先生です」と紹介し、大統領にまで会わせたと言います。
別れ際に血脇が世話になったことで、これまでのことはお相子だと言ったら、野口は
「决して恩は忘れていません。昔のように清作と呼び捨てにしてください。その方が私はどんなにありがたいかしれません。」
と言い、改めて血脇に感謝を示したのでした。
3行でわかる野口英世のまとめ
- 病原体を求めてひたすら研究に打ち込んだ
- 幼い頃のやけどで左手が不自由だった
- お金にだらしなく借金上手だった
3度もノーベル医学賞の候補に上がりながらそれを得ることができなかった研究の虫とも言える野口英世の生涯を見てきました。
医学に対する気持ちはすごく立派なものですが、放蕩三昧だったことも驚きましたね。
それでもお金に困った時、何度でも支えてくれた小林先生や血脇先生のような人がいたことは彼にとってとても幸せなことでした。
きっと野口英世には、そこまでしても助けたくなるような魅力があったのでしょう。
そんな野口英世が千円札の肖像になっているのは何か皮肉な気がしますね。
研究していた途中に亡くなってしまったのはとても残念ですが、彼のことですからあちらの世でも、研究や囲碁に夢中になっていることでしょう。