日本の紙幣五千円札のモデルとなっている女性は、みなさんがよく知っている樋口一葉ですね。
今では五千円のちょっと高価な人の感じがしますが、実は無一文だったこともあるようです。
有名な「たけくらべ」などを書き24歳で早逝した女流作家樋口一葉はどのような人だったのでしょうか。
この記事ではその生涯をたどってみることにしましょう。
目次
樋口一葉のプロフィール
生誕 | 1872年5月2日 |
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生誕地 |
東京府第二大区一小区内幸町 (現在の東京都千代田区) |
名前 |
樋口奈津(戸籍名) 夏子、なつ(通称) |
没年 | 1896年11月23日(24歳没) |
樋口一葉は何をした人?
裕福で利発な幼少期
樋口一葉は東京府の下級役人の樋口則義と多喜との間に次女として生まれました。
姉と2人の兄、そして妹の4人の兄弟がいました。
一葉は幼い頃から物覚えもよくとても利発だったので、満4歳で公立本郷小学校に入学します。
しかしやはり幼すぎたため退学したのですが、半年後には私立吉川学校に入学しています。
一葉は自分の日記「塵之中」で、幼少期は友達と遊ぶことより絵草紙などを読むことが好きだったと書いており、曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」を3日で読破したとも伝えられています。
1881年に次兄の虎之助が素行の悪さから勘当されます。
その年一家は御徒町へ引っ越し、一葉は私立青海学校に転校しました。
ここで初めて和歌を習います。
1883年高等科第四級を首席で卒業しましたが、母親が女は勉学より、家事や裁縫などを優先するべきだという意見から進学を諦めざるを得ませんでした。
「萩の舎」での活躍
向学心のある一葉のことを思って、父親は1886年に中島歌子の歌塾「萩の舎(はぎのや)」に入門させました。
中島歌子は当時を代表する日本の歌人でした。
この「萩の舎」は公家や旧大名などや明治政府の政治家や軍人の夫人や令嬢が通い、門人は1000人を超えるほどでした。
入門の翌年に行われた歌会では、令嬢たちの晴れ着の話題についていけなかったものの母が借りてきてくれた古着で参加し一葉は最高点を出しています。
このように入門当初は才能を惜しむことなく発揮していた一葉でしたが、やはり周囲との格差から内向的になり「ものつつみの君」を呼ばれるようになったそうです。
苦労の生活へ
樋口家の戸主だった長男の泉太郎は1885年に明治法律学校(現在の明治大学)に入学しましたが1887年に中退し、大蔵省出納局に勤務していました。
しかし12月肺結核で死去しました。
次兄は勘当されており、姉は嫁いでいたため、一葉が戸主になることになりました。
1889年警視庁を退職し、家屋敷を売った金をつぎ込み荷車請負業組合設立の事業に参加した父は、その出資金を騙し取られ借金を残したまま亡くなりました。
一葉は17歳で樋口家を背負って立つことになったのです。
一葉にはその頃渋谷三郎という許嫁がいました。
しかし父の死をきっかけに婚約は解消となります。
渋谷三郎は当時東京専門学校(現在の早稲田大学)の法科で学んでおり、その学費や生活費の保証を樋口家に求めたことで母の怒りをかったのでした。
その後渋谷三郎は高等文官試験に合格し、新潟の裁判所司法官試補などを経て月俸50円の検事となり、再び一葉と復縁しようとしました。
ここで認めておけば生活苦からは逃れられたかもしれませんが、母親はそれを許しませんでした。
一葉は1890年に「萩の舎」の内弟子として中島家に住み込みましたが、歌塾の手伝いだけではなく、女中の仕事までさせられたため5か月でやめてしまいます。
そして9月には本郷菊坂(現在の東京都文京区)に移り、母と妹との3人で針仕事や洗い張りなどをして生活するのでしたが、それだけではとうてい足らず、あちこちに借金を繰り返すようになりました。
小説家へ
「萩の舎」の田辺花圃が1888年に小説「藪の鶯」を出版し33円という多額の原稿料を得たことを知った一葉は、小説家になろうと考えました。
1891年「かれ尾花」などいくつか書きます。
その年作家の半井桃水(なからいとうすい)に師事し指導を受けます。
翌年半井は同人誌「武蔵野」を創刊し一葉も「闇桜」を「一葉」の名前で発表しました。
半井は東京朝日新聞主筆の小宮山佳介に一葉の作品を紹介しましたが、小説は採用されませんでした。
その上一葉と半井の醜聞が広まり、一葉は半井と絶縁することとなります。
その後田辺花圃の紹介で、幸田露伴風の理想主義的な小説「うもれ木」を雑誌「都之花」に発表し、一葉は初めて原稿料11円50銭を受け取りました。
その後「文学界」創刊号に「雪の日」を発表しますが、その後なかなか筆が進みませんでした。
一葉は生活のため1893年吉原遊廓近くの下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉)で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開きます。
この時の経験が後の「たけくらべ」の題材となるのです。
その年末「琴の音」を文学界に発表しました。
翌年同業者が近所にできたため商売は苦しくなり5月には店を辞め、本郷区円山福山町(源内の文京区西片一丁目)に移ります。
その頃「萩の舎」に交渉し月2円の助教料がもらえるようになりました。
この年の年末にも文学界に「大つごもり」を発表しています。
1895年博文館の大橋乙羽から小説の依頼を受けました。
この年は1月から「たけくらべ」を7回発表し、その合間に乙羽の依頼の「ゆく雲」を書き、また大橋ときの依頼で「経つくえ」を書き改めた上で「文藝倶楽部」へ再掲載しました。
そのほかにも「にごりえ」や「十三夜」などを発表しています。
この年には樋口家に島崎藤村などの著名な文筆家などが訪れ、文学サロンのようになっていました。
生活苦は相変わらずでしたがお客さんを歓迎し、寿司やうなぎを取り寄せて接待したと言います。
一葉の最期
1896年「文藝倶楽部」に「たけくらべ」が一括掲載されると、森鴎外や幸田露伴は一葉を高く評価しました。
5月には「われから」を文藝倶楽部より、「日曜百科全書」に「通俗書簡文」を発表しました。
しかしこの頃一葉は肺結核に罹っており、かなり病状が進行していたのでした。
森鴎外が当代随一と言える医師を往診に頼みましたが、回復は絶望との診断でした。
そして一葉は11月23日自宅で亡くなりました。
まだ24歳と6か月の若さでした。
樋口一葉のエピソード・逸話
田辺花圃の一葉への第一印象
田辺花圃は「思い出の人々」という自伝の中で、「萩の舎」の月例会の折、
「清風徐(おもむ)ろに吹来つて水波起こらず」
という赤壁の賦の一節を読み上げていたところ、給仕をしていた猫背の女が
「酒を挙げて客に属し、明月の詩を誦(そらん)じ窈窕(ようちょう)の章を歌ふ」
と口ずさんだのに気づき生意気な女だと思ったのでしたが、それが一葉だとわかり、先生から特別に目をかけてあげてほしいと紹介されたエピソードを書いています。
田辺から見た一葉は、女中と内弟子を兼ねた働く人のように見えたと書いています。
日記やメモ魔だった
一葉は短期間の間にとても多くの小説を書いていますが、そのほかに膨大な日記やメモを残しています。
日記は1891年から以降でその数は40冊にもなります。
またその日記とは別にメモも書き継がれています。
一葉はこの世を去る前に、日記とメモを焼きすてるよう妹に言い残すのですが、妹はそれに背き、大事に保管してきました。
この日記やメモから研究者たちは彼女についていろんなことを知ることができたのです。
一葉と5000円札
2004年から発行されている5000円札の肖像が樋口一葉なのはみなさんご存知ですね。
日本銀行券の肖像に女性が登場したのはこの樋口一葉が初めてなのです。
女性でありながら小説家として身を立てていこうと考えた一葉は、女性の社会進出へのきっかけとなった人だと財務省の役人が判断したからだということです。
3行でわかる樋口一葉のまとめ
- 「たけくらべ」などで有名な小説家
- 生活に苦しみながら小説家として多くの作品を残した
- 5千円札の肖像画になっており、日本銀行券では初の女性
女性小説家として有名な樋口一葉についてその生涯を見てきました。
兄や父が亡くなってからは、お金で苦労し、許嫁には去られ、恋した人とは引き裂かれるといった決して運のいい方の女性ではなかったですね。
それでも、生活のため、自分のため必死に小説を書いた人でした。
自分が死病に侵されながらも最後まで小説を書き続けた樋口一葉は、本当に強くて素晴らしい女性だったと言えるでしょう。