いい意味でも悪い意味でも個性的でクセが強い人が多い戦国武将。
そんな中にあって、清廉潔白、戦も強く、戦国武将というより正義のヒーローのような人がいます。
それが上杉謙信。
武田信玄も、織田信長も、上杉謙信のことは一目置いていました。
この記事では、上杉謙信がどんな人物だったか、何をした人なのか、エピソードや逸話を交えながらご紹介していきます。
目次
上杉謙信のプロフィール
上杉謙信の生い立ちに触れる前に、わかりやすいようにキーワードを説明しておきます。
- 守護:幕府(この当時は足利将軍家)により任命される現地司政官。軍権、警察権、裁判権などの権力を持つ。
- 守護代:守護が支配地の豪族などに、実務を代行させるために任命した。
- 関東管領:京都にある幕府が、その支配権を強固にし、関東からの反乱などを抑えるために置いたいわば「幕府関東本社」。
上杉謙信(うえすぎけんしん)は、西暦1530年、越後の国(現在の新潟、富山県、福井県石川県あたり)の守護代だった長尾為景の末子として誕生。
寅年に生まれたため、幼名を虎千代と名付けられました。
母親は為景の後妻で、長兄の長尾晴景とは21歳もの差があります。
虎千代7歳のときに、兄晴景が長尾家を継ぎ、虎千代は禅宗の林泉寺に預けられます。
しかし虎千代13歳のときに兄から呼び戻され、還俗するとともに元服し、長尾景虎を名乗るようになりました。
その後、景虎は晴景の養子に入り、守護代を次ぐことになりました。
景虎20歳のとき、守護の上杉定実が死去。
後継者がいなかったため、時の将軍・足利義輝によって守護と同等の権限を与えられます。
そして、30歳のときには関東管領・上杉憲政に請われて上杉家を継ぎ、以後、上杉政虎、上杉輝虎と名を変えていきますが、ややこしいのでこれ以降は謙信で統一します。
謙信は、領土拡張を企てる武田、北条、織田などと戦い続け、戦に向けての準備中に倒れて死去しました。
享年48歳という若さでした。
上杉謙信は何した人?
上杉謙信は、生涯戦の中にありました。
しかも、その戦のほとんどは、自分のためではなく他人のため。
一言で言うなら「正義のヒーロー」のような人でした。
生涯侵略を行わなかった戦国武将
戦国時代は大雑把にいえば室町幕府の弱体により起こります。
武田信玄の武田氏など、守護からそのまま支配権を増大させて大名になった家、北条早雲や豊臣秀吉のような裸一貫から成り上がった人物は稀で、ほとんどの大名は守護代がその主人筋にあたる守護を打ち倒す下剋上によって誕生しています。
そして、さらに自国領土を拡張するために近隣の国と戦争を繰り返しました。
長尾家も、為景の時代に守護・上杉房能を討伐しています。
しかし、上杉謙信はそのような下剋上、他国の侵略を一切行いませんでした。
それは、謙信が「幕府のもとでの秩序」の回復を目指していたからです。
謙信は幕府に忠節を尽くし、自らを、仏教で北方の守護神とされる毘沙門天の化身だと信じていました。
でも、現代社会で考えれば、自国の利益のために他国を侵略する方と、それをやめさせようとする方、どちらが正しいかわかると思います。
だいたい武田信玄が悪い川中島の合戦
上杉謙信と武田信玄は、川中島を境に5度も合戦を行いました。
きっかけは、武田信玄が自国領土の甲斐の北、信濃を侵略したこと。
信濃守護・小笠原長時と、領地を奪われた村上義清は、武田から領土を回復するように謙信(この当時はまだ長尾景虎)に泣きつきました。
当時はまだ管領ではありませんでしたから、関係ないと突っぱねることができたのに、謙信は武田から信濃を奪回する戦を起こします。
本来領地というのは朝廷、もしくは幕府から与えられるものであり、奪い取っていいものではありません。
そうした秩序を回復するというためだけに、起こした戦でした。
そんな武田信玄についてはこちらの記事で詳しくまとめています。
小田原城攻めで関東管領に
武田と争っているころ、関東では、新興勢力の北条氏が関東管領上杉憲政を追い落とし、上野の国を支配下に置くという事件が起きました。
越後に亡命した上杉憲政もまた、北条討伐を謙信に依頼します。
関東管領といえば幕府にも等しい存在。
謙信は上野へ出兵し、現地の反北条勢力の力も借りて、北条を打ち破り、そのまま小田原まで攻め下りました。
北条は小田原城に籠城するしかありませんでした。
上杉憲政はこの功に報いるために謙信に家督と関東管領職を譲ることに。
当時、北条の支配下だった鎌倉までわざわざ赴いて、鶴岡八幡宮で相続の儀式を行いました。
上杉謙信のエピソード・逸話
第4次川中島の合戦では、単騎武田の本陣まで乗り込み、信玄に斬りつけたという伝説も残る謙信。
これは謙信のかっこよさを際立たせるための伝説だと思いますが、こういうヒーロー然としたエピソードが多い中で、ちょっと意外なエピソードなども存在します。
嫌になって家出する
これはまだ、謙信が長尾景虎だった20代、長尾家の家督をついだころの話です。
越後は幾多の豪族が入り乱れる土地で、領内だけでも領土争いが行われていました。
守護はそうした争いの調停役でもあります。
当時の長尾家は守護と同等の権力を持っていたため、そうした係争事案がしょっちゅう持ち込まれていました。
ある日、景虎は子供のころ修行した林泉寺の住職に「自分勝手な人ばかりでいやになったからまた出家します」と書き置きを残して、誰にも言わずに出奔。
本当に出家するために高野山へ行ってしまいました。
困ったのは家臣たち。
すぐに追いかけて、必死に懇願して、戻ってきてもらうことができました。
上杉謙信は女性だった説
現在では戦国武将を始め、歴史上の人物が女体化されるのは珍しいことではありません。
上杉謙信も、小説、ゲーム、アニメなど様々なメディアで女体化されています。
でも、実はそうしたフィクション以外にも、実は謙信は女性だったのではないかという説もあるようです。
これを言い出したのは小説家の八切止夫さん。
八切さんは、ゴンザレスさんというスペインの船乗りが、スペイン国王フェリペ2世にあてた報告書に、会津の上杉は叔母が開発した佐渡金山の黄金を得ているという一文があるのに注目。
この会津の上杉とは上杉景勝のことで、「叔母」とは景勝の叔父かつ養父である謙信のことであり、つまり謙信は女の子だったんだよ!ということになったようです。
他にも、江戸時代に記された謙信の死因に「大虫」とあることから、これは月経を表す言葉であるから女の子だったんだよ!という根拠もあるようです。
女体化謙信はフィクションで楽しむだけにしておいたほうがいいでしょう。
5行でわかる上杉謙信のまとめ
- 幼少より仏教(禅宗)に親しむ
- 兄に頼られて家督を継ぐ
- まわりが自分勝手なのがいやになって家出
- いろんなところから頼まれて戦争
- 自国の利益のための戦争は一つもない
上杉謙信という人は、一言で言うなら「クソ真面目」。
他国どころか自国の中も我先に領土を広げ、利益を獲得しようとする中、ただ一人真面目に秩序を回復するための戦いに邁進していました。
そして、戦では自分を毘沙門天の化身だと信じ込んでしまう今で言うなら中二的な性質がプラスに転化され、まさに軍神というべき強さを誇りました。
その清廉さを持つ人が現代日本にいてくれたらと思うこともあるし、そんな苛烈な人が現代日本にいたらかえって困ったことになるとも思います。
クソ真面目な人というのはたいていつまらないものだけれど、謙信の場合それが突き抜けて魅力になっているのかもしれません。