鎌倉時代

一遍上人ってどんな人?踊り念仏などのエピソードを簡単にまとめてみました

一遍上人

我が家の母方の菩提寺は「時宗」のお寺です。

浄土真宗や日蓮宗、曹洞宗や臨済宗などと比べると、時宗はちょっとマイナーな宗派と言えるかもしれません。

この時宗の開祖とされるのが一遍上人ですが、あまり馴染みがないかもしれません。

この記事では一遍とはどんな人だったのかをご紹介します。

一遍のプロフィール

一遍(いっぺん)は、鎌倉時代の初期、西暦1239年に産まれました。

父親は伊予国(愛媛県)の豪族・河野通広。
「一遍の父」という以外は特にエピソードはない人です。

ちなみに一遍というのは戒名ではなく房号。

戒名は出家したときに師匠につけてもらう仏弟子としての名前で、房号は住んでいた僧坊の名前がついたニックネームのようなものです。

有名な僧侶にはよくあることですが、一遍にもいくつか戒名があるので、ややこしくならないように一遍で統一します。

10歳で母を亡くした一遍は、天台宗のお寺で出家します。

ところが13歳になると、善入なる僧侶によって九州の大宰府まで連れて行かれて、浄土宗の聖達の弟子となりました。

聖達は、浄土宗の開祖である法然の孫弟子にあたります。

聖達は、まず一遍を同門の華台のもとへ送り、浄土宗の思想を学ばせました。

一遍はその後聖達のもとへ戻って10年以上修行を積みます。

ところが、25歳のときに父の河野通広が死去。

伊予に呼び戻されて還俗しました。

まさむね
まさむね
一遍は通広の次男だということで、なぜわざわざ呼び戻されたのかは不明です。

ただ、それから7年後の32歳のときに、家督争いに嫌気がさして再び出家したといいますから、長男派に反抗する勢力に担ぎ出されたのかもしれません。

一遍はその後信濃の善光寺や、地元伊予の寺で念仏修行を行いました。

法然の浄土宗は「南無阿弥陀仏」をひたすら唱える「専修念仏」が特徴です。

その修業で悟りを得た一遍は、諸国遊行をして布教につとめました。

各地で信者を得ていき、その中でも一遍に強く帰依した人が一遍とともに遊行をするようになりました。

こうした人々は「時衆」と呼ばれます。

一遍は生涯一箇所にとどまることがなく、東北から九州まで遊行を続けて、1289年、播磨の国(兵庫県)で亡くなりました。

享年50歳。

まさに全てを信仰に捧げた生涯でした。

一遍は何した人?

一遍の業績を紹介する前に、浄土宗について少し説明します。

インドで発生した阿弥陀如来信仰は、中国に伝わって浄土教となりました。

それは、阿弥陀如来の仏国土・極楽浄土への転生を願った者、阿弥陀如来を念じた者は必ず極楽浄土に導かれ、阿弥陀如来の教えを受けて成仏するという信仰です。

それが日本で法然によって浄土宗となりました。

法然は「称名念仏」阿弥陀如来の名前をひたすら唱えることで極楽浄土への往生がとげられると教えました。

賦算による布教

一遍は、諸国遊行を行いながら「賦算」という布教を行いました。

これは、「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と書いた算(御札)を賦する(くばる)ということ。

これは60万人の往生が決定されているということではなく、一遍が詠んだ

六字名号一遍法
十界依正一遍体
万行離念一遍証
人中上々妙好華

という詩の頭文字をとったものだといいます。

まさむね
まさむね
とても難しい解釈が必要な詩ですが、大雑把にいえば「阿弥陀如来に照らされればどんな人でも悟りを得られる」というような意味のようです。

この賦算はもちろん無料で行われました。

踊り念仏による布教

信州佐久へ訪れた一遍41歳のとき、一遍と時衆は念仏を唱えながら踊りだしたといいます。

それは、念仏が阿弥陀の教えだということに喜びを見出したあまりに嬉しくなって踊りだしたものだと言われます。

まさむね
まさむね
一種の集団催眠のようなものだったかもしれません。

これ以後、一遍たちはこの「踊り念仏」による布教をするようになりました。

初期はただ踊って念仏を唱えるだけだったものが、後にはステージも設けられ、それを見物にきた民衆はいつしか踊りに巻き込まれていったようです。

こうした一風変わった一遍の布教も、全て人々と阿弥陀如来との縁を結ぶためのきっかけを作るためでした。

一遍のエピソード・逸話

一遍は30代に再び出家して悟りを得た後は、ひたすら布教の旅の中に生きました。

その人生に残されてるのは、ただひたすら経験な修行者としての逸話のみです。

全てを捨てて念仏に身を捧げた

一遍は別名を「捨聖(すてひじり)」といいます。

それは、全てのものを捨て去って念仏に自身を捧げたからです。

一遍は親鸞より後代の人で、親鸞の系統とは違うとはいえ阿弥陀の力による成仏を求める「他力本願」思想を持っていました。

しかし両者の阿弥陀如来への信仰のスタイルはまったく違います。

親鸞は阿弥陀如来に身を委ね、戒律よりもさらには念仏よりも、阿弥陀如来への信仰そのものを重視し、法然のように念仏を繰り返すことはせず、妻帯もしました。

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一方一遍は、法然の専念成仏をさらに突き詰めて、念仏以外は全ていらないという境地に至りました。

財産も家族ももたず、布教の拠点となる寺ももたず、おそらくは自分が健康であることも長生きすることにも興味はなかったのでしょう。

禅宗では「本来無一物」人間は本来「自分自身」というものすら所有していないのだと考えます。

まさむね
まさむね
他力本願を極めた結果、自力修行を旨とする禅宗と同じ境地に至ったのは興味深いです。

むりやり布教していた?

一遍が和歌山県の熊野山中を進んでいたところ、一人の僧侶に出会ったので御札を渡そうとすると断られました。

それでも一遍は無理に御札を渡します。

しかし一遍はそんな無理矢理なことをして良かったのだろうかと疑問に思いました。

そこで熊野神社に至ると祭神の熊野権現にそんなことをして良かったのですかとお伺いを立てました。

熊野権現は、阿弥陀如来が日本の神様の姿をとったものだという設定になっています。

すると熊野権現が現れ、「阿弥陀の救いはすでに定まっているのだから、人を選ばず札を配りなさい」とお告げしました。

まさむね
まさむね
要するに、「阿弥陀への信心が生ずればとにかく救われるのだから、無理矢理でもいいじゃない」という結論に自ら至ったということなのでしょう。

本人にとってそれが本当にいいことだと信じ込んでしまっていると、こういう方向になってしまうのが宗教の困った部分であるのかもしれません。

4行でわかる一遍のまとめ

まとめ
  • 武士の次男として生誕
  • 10歳で出家、13歳で浄土信仰の道へ
  • 一度還俗するも再び出家
  • 修行を経て悟りを得た後は、賦算と踊り念仏で布教

阿弥陀に救われるのはいいことだから無理にでも布教してもいいと考えてしまうちょっと困ったところもあった一遍。

しかし、その信仰への一途さは他に類を見ません。

一遍死後は一遍が行ったような遊行は失われ、時衆も散り散りになりました。

しかし、一遍にはおそらく自分の宗派が残っていくことに興味はなかったでしょう。

阿弥陀如来によって救われる人が増えることだけが彼の望みだったのではないかと思います。

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