日本は諜報活動、スパイ工作が苦手だと言われます。
しかし、明治時代には、日露戦争で諜報活動に従事し、日本の勝利に貢献した情報将校がいました。
明石元二郎は、近代日本のスパイ王とも呼べる人物です。
目次
明石元二郎のプロフィール
明石元二郎(あかし もとじろう)は1864年生まれ。
日本はまだギリギリ江戸時代で、明石が生まれた4年後の1868年に大政奉還が行われ、明治時代が始まります。
陸軍士官学校から陸軍大学校に入り、25歳の時に卒業してドイツに留学、その後フランス領インドシナ、つまり今のベトナムあたりに赴任し、フィリピンのマニラにアメリカとスペインの戦争における観戦武官として招かれています。
37歳でフランス公使館付きの陸軍武官、翌年にロシア帝国公使館付きの陸軍武官となっています。
1904年に日露戦争が勃発。
在ロシア公使館はスウェーデンに移され、明石もスウェーデンを拠点にします。
日本海や日本海沿岸が主戦場となった日露戦争において、明石は欧州側からの後方撹乱を行い、日露戦争での日本の勝利を支えました。
54歳のときに陸軍大将となり、同時に第7代台湾総督となって台湾に赴任。
その翌年、日本に一時帰国する途中の船上で病気となり、福岡の病院に運ばれてそのまま亡くなりました。
明石元二郎は何をした人?
明石元二郎は日本の歴史の中では稀有な情報将校。
007もかくやというスパイ王でした。
スパイとして日露戦争を勝利に導く
明石元二郎は語学が堪能で、ドイツ語、フランス語、ロシア語、英語など複数の言語に通じていました。
まだ日露戦争が始まる前、欧州でパーティーに招かれたとき、ドイツの軍人にフランス語でドイツ語ができるか聞かれた明石は、とぼけてフランス語しかできませんと答えました。
安心したドイツ軍人は、ロシアの軍人とドイツ語で軍事機密について話し始め、明石はまんまと情報を得ることに成功しました。
日露戦争時には、陸軍大将・児玉源太郎の命をうけて後方撹乱を行います。
ロシア帝国は東欧、北欧、中央アジアなどの国々を支配下に置いており、その各国に独立派、反ロシア派が存在しました。
明石はそうした人々と接近。
抵抗運動を支援しています。
ロシア支配下の各地域では、明石の煽動によってデモやストライキ、武装蜂起が起こり、ロシアは軍を極東に集中できなくなりました。
明石の工作はロシア革命に繋がり、日露戦争における日本の勝利に貢献したどころか、ロシア帝国を崩壊にまで導きました。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、明石のスパイ活動を日本軍20万人に匹敵すると賞賛しています。
しかし、当の日本本国ではスパイ活動を軽視する風潮があり、これ以降は諜報活動が重視されることはなく、後に敗戦する原因の一端ともなっています。
台湾の開発と台湾人の地位向上に活躍
日清戦争での勝利によって、清国から台湾を割譲された日本は、台湾を植民統治します。
第4代総督・児玉源太郎の時代に民政長官に抜擢された後藤新平は、台湾の衛生、教育環境などを改善し、インフラ開発に努めました。
明石も第7代の台湾総督になってから、台湾電力を設立。
台湾西部の苗栗から彰化まで走る鉄道の海岸線を設置しています。
それまで台湾人は日本人より低い地位にされ、学校も日本人と分けられていました。
それを改正して、台湾人でも帝国大学へ入れるようにしました。
当時、台湾南部の嘉南平原は、広大な土地を持ちながらも水利が悪く、旱魃が頻発していました。
その状況を見た水利技師の八田與一は、ダム建設と灌漑事業を総督府に進言。
明石はその計画にゴーサインを出し、またその建設予算の獲得にも尽力しています。
その結果、嘉南平原には肥沃な農地が生まれ、八田與一は現在に至るまで現地の人に感謝を捧げられています。
明石元二郎のエピソード・逸話
スパイという緊張感のある任務についていた明石元二郎。
でも、私生活ではこんな人に本当にスパイがつとまるのかという感じの人だったようです。
ズボラな汚おじさん
明石元二郎は、私生活ではかなりダメな人だったようです。
陸軍大学時代、学校から下宿に帰ると制帽を脱ぎ捨てると、そこに猫が入って寝ていました。
翌朝、明石は猫の毛がついたままの制帽をかぶってまた登校していたそうです。
ある日士官学校を歩いていると、厳格さで知られる寺内正毅校長がやってきました。
明石は一緒に歩いていた友人にくっついて、校長先生をやりすごしました。
なんでくっついたのか聞かれると、サーベルが錆びているのを見られないためとのことでした。
日本人は鎌倉時代のころから歯をみがく習慣があり、江戸時代には歯ブラシ屋が栄えたといいますが、明石はまったく歯を磨くことがなかったそうです。
今も台湾に眠る
台湾総督として台湾に赴任していた明石。
一時帰国の途中で病に倒れました。
そのとき、死体を台湾に埋葬せよ、自分は台民の鎮護となると遺言しました。
明石が亡くなったのは福岡でしたが、その遺言に従い遺骨は台湾の墓地に埋葬され、その墓地に「明石神社」が創建されました。
戦後、明石神社は中国からの難民に占領されます。
しかし、後に総統となる陳水扁市長の時代に不法占拠した家屋が撤去され、林森公園として整備され、明石やその他墓地に埋葬されていた遺骨は、新北市の墓地に改葬されています。
明石神社にあった鳥居は一時期228紀念公園のすみっこに移されていたものが、現在は元あった林森公園に戻されています。
4行でわかる明石元二郎のまとめ
日露戦争勝利の陰の立役者明石元二郎のまとめです。
- 軍人としてドイツに留学、複数の言葉に通じる
- 日露戦争で反ロシア勢力を支援し後方撹乱
- 第7代台湾総督として台湾の発展に尽力する
- 本人の希望で死後台湾に葬られる
いわゆるダメンズだった明石元二郎。
でも人情に厚く、だれからも好かれる好人物だったそうです。
大雑把だけれど何事にも一生懸命な彼は、いわば豪傑と呼ばれる存在なのかもしれません。