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戦国時代

尼子経久はどんな人?逸話やエピソードをまとめてみました

尼子経久

「戦国時代」という時代は室町時代の中頃に発生した「応仁の乱」という内乱がきっかけとなりました。

室町幕府に従っていた地方の武士である守護大名同氏の争いが全国に広がり、幕府の力で戦いを止められない状況になってしまったのです。

そんな戦国時代の初期に登場したのが尼子経久であり、弱肉強食の戦国時代を生き抜いて尼子氏という戦国大名の基礎を作り上げて一時代を築きあげた人物です。

では具体的にどのような事をした人物なのか見てゆきたいと思います。

尼子経久のプロフィール

  • 本名:尼子経久(あまごつねひさ)
  • 幼名:又四郎
  • 官位:伊予守
  • 享年:82歳(1458年12月25日~1541年11月30日)
  • 出雲国(現島根県)の戦国大名として中国地方を中心に11ヶ国に影響力を及ぼす。

尼子経久は何をした人?

尼子経久は戦国時代の初期に出雲国(現島根県)で誕生し、周囲の強大な勢力に囲まれる中巧みな戦術や戦略を用いて小さな勢力を盛り上げて戦国大名となりました。

やがては大内義隆や毛利元就といった大名を差し置いて中国地方の大部分を支配する事となります。

自身の能力は非常に高く、優秀な家臣にも恵まれて出雲国内の独立した勢力達にも一目置かれる存在となり、遠方の敵を攻める際にも大勢の協力者を得る事になりました。

そのおかげで戦国大名としての尼子氏の基礎を作り上げた魅力の人でもありました。

しかし、経久にとって不運だったのは、家督を継承すべき能力のある一族に恵まれなかったという事ではないでしょうか。

その為、経久は当時としては異例の82歳という長寿を全うしますが、79歳まで現役で尼子氏の代表として一族を牽引しなければなりませんでした。

そんな、老齢になってまでも奮闘し続けた尼子経久のエピソードをいくつか紹介したいと思います。

尼子経久のエピソード・逸話

下克上で戦国大名になる

当時、尼子氏は出雲国の守護代という立場でした。

出雲国は京極氏という守護がいたのですが、京極氏は京都で室町幕府の仕事が忙しかったので、自分の代わりに出雲国を直接治めてくれる一族を派遣しました。

これが出雲尼子氏のはじまりになりました。

尼子氏は出雲国に派遣されてから、最初こそ主人である京極氏に従っていましたが、経久の父の代になると主人のいう事を聞かず独立志向が強くなったため、主人から守護代の任務を解任されてしまいました。

その後、出雲国内を流浪の身となり放浪したとも伝えられています。

しかし、出雲国で様々な集団や組織とつながりを作り上げていた経久は京極氏の本拠地である月山富田城(がっさんとだじょう)を少人数の奇襲で奪い取ることに成功します。

この月山富田城を奪い独立を宣言した事で、尼子経久は自らの権力を確立させ戦国大名となりました。

武田信玄や毛利元就、織田信長などが活躍するずっと前の事です。

無欲の人

経久は物欲については無欲の人だったと言います。

家来が経久の持ち物を褒めると、すぐにその物を家臣に与えたとの事です。

家臣も恐縮し、なかなか経久の持ち物を褒める事ができずにいる中、ある家臣がさすがにこれは無いだろうと思い庭に植えてある松の木を褒めたところ、経久は松の木を根から掘らせて与えようとしたと伝えられています。

そんな、家臣に対しても極端ともいえるような対応をする経久だったので慕う家臣は多かったと言われています。

まさむね
まさむね
大名たる大きな器が備わっていたあらわれではないでしょうか。

11か国の太守

尼子経久が勢力を拡大するなかで一番最大限に勢力範囲を広げる事になった時に、「11か国の太守」と呼ばれていました。

島根県を中心に山陰地方から山陽地方、遠くは播磨国(現兵庫県)までを支配下に治めたという事ですが、実際に全域に支配が及んでいたという事ではなく11か国にわたって尼子氏に協力する勢力が存在していたという事でした。

しかし、当時の足利将軍家は京の近くまで勢力を広げつつある尼子氏を脅威に感じていたようです。

大内氏との戦いが再発したために京都へ行く事ができなくなりましたが、尼子氏が進軍して京都に行き尼子幕府を作っていた可能性もあったかもしれません。

息子たちの早死と弱体化

尼子経久には3人の息子があり将来の尼子家を担う一族として期待されていました。

しかし、尼子一族に不運が続きます。

まず、長男の政久(まさひさ)が出雲国内で起こった内乱の鎮圧の際に不運にも流れ矢に当たり戦死してしまいます。

長男の戦死には経久も相当落ち込んだと言われています。

その後、三男の興久(おきひさ)が反乱を起こしてしまい鎮圧された後に自刃してしまうという事件も起こりました。

相次いで二人のたくましい息子を失った経久は失意のどん底に落ちます。

ここで、経久の息子のうち生き残ったのは二男の国久(くにひさ)だけでしたが、後に家督を継いだ孫の晴久(はるひさ)が伯父である国久らの一族を攻め滅ぼしてしまう事件が発生し、尼子氏の弱体化の原因になってしまいました。

高い能力を持ち家臣に慕われて強大な尼子氏を築き上げた経久でしたが、息子たちの死去や、経久の死後ではありますが一族同士の争いによって尼子氏は自らの首を絞める事になってしまいます。

5行でわかる尼子経久のまとめ

まとめ
  • 戦国時代の初期に登場し「下剋上」によって戦国大名に成り上がった人物。
  • 無欲の人として知られ、自分の物を欲しがる家臣には何でも分ける心を持っていた。
  • 高い統率能力を持ち、尼子氏の勢力を休息に拡大させた策略家でもある。
  • 戦国時代としては異例の82歳の長寿。しかも79歳まで現役で活躍。
  • 経久自身は能力が高かったが、後継者に恵まれなかった。

尼子経久は父清定とともに出雲国を代わりに支配する家柄として出雲国を治めていましたが、独立精神が芽生えたため、その職を追いやられてしまいます。

しかし、経久らが長年かけて出雲国内で培ってきた地元武士集団との信頼関係などによる協力もあり、守護勢力を追いやって戦国大名として成長してゆきます。

経久は日本の戦国時代の初期に誕生した典型的な「下克上」によってのし上がった戦国大名と言えるでしょう。

まさむね
まさむね
経久の采配によって尼子氏が勢力を拡大できたのも、経久の能力や人間性があったからだったのではないでしょうか。

しかし、エピソードでも述べたように息子たちの相次ぐ死去により経久は79歳という高齢まで当主として活躍し、孫の晴久に家督を相続する事になりました。

孫の晴久は経久の死後に家臣達の反対を押し切り、毛利元就と戦をしますが大敗してしまい、やがては敵のスパイに騙されて尼子氏最強の軍団である伯父国久の「新宮党」という一族を攻め滅ぼしてしまいます。

その後、弱体化した尼子氏は毛利氏に降伏する事になります。

高い能力を持った尼子経久という戦国大名は偉大なまま死去しましたが、老後は一族を取り巻く境遇に恵まれませんでした。

現在でも島根県安来市広瀬にある洞光寺(とうこうじ)には経久の墓があり、経久を慕う人々が訪れています。

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