安国寺恵瓊という人物についてどのようなイメージをお持ちでしょうか。
安国寺という言葉が入っているのでお坊さんの姿が想像できます。
恵瓊は中国地方の大部分を支配した毛利氏や豊臣秀吉らに仕えた僧侶として知られていますが、僧侶でありながら大名並みの領地をもらい政治に介入したりなど、時の政権から異例とも言える待遇を受けているのが確認できます。
そんな戦国大名のような特殊な一面を持つ恵瓊の姿を詳しく見てみたいと思います。
目次
安国寺恵瓊のプロフィール
- 通称:安国寺恵瓊(あんこくじえけい)
- 僧名:瑶甫恵瓊(ようほえけい)
- 幼名:武田若竹丸(たけだわかたけまる)
- 享年:享年60歳(1539年~1600年)
- 毛利氏や豊臣秀吉に仕えた外交僧。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、敗戦後首謀者の一人として処刑される。
安国寺恵瓊は何をした人?
安国寺恵瓊とは、主に毛利氏の外交僧として活躍した人物であり知識や教養などを駆使して外部の勢力との交渉事に当たり、毛利氏の勢力拡大の一翼を担った人物です。
豊臣政権下でも重用されて、秀吉からは領地をもらうなど大名並みの扱いを受ける事になりました。
独自の兵力を持っていたため、関ヶ原の戦いにも兵士を連れて参戦しましたが敗戦の責任を取る形で処刑されてしまいました。
僧侶でありながら処刑されてしまうという異例の扱いを受ける人物ですが、具体的にどんな事をした人物なの紹介してゆきたいと思います。
安国寺恵瓊のエピソード・逸話
毛利氏に滅ぼされたが毛利氏に協力する
安国寺恵瓊の生まれた家はもともと毛利氏と同じ安芸国(現広島県)の安芸武田氏という戦国大名でした。
しかし、毛利氏によって滅ぼされてしまい幼少だった恵瓊は近くのお寺に入る事になりました。
その後、自身の師匠と毛利隆元(毛利元就の長男)との親交がきっかけとなり、毛利氏に協力するようになりました。
心境は複雑だったと思いますが、最初は「家臣になる」というよりも「協力する」という状態だったと思います。
毛利氏の外交官として活躍する
毛利氏は恵瓊の師匠である竺雲恵心(じくうんえしん)を信頼していたので、恵心が京都に戻ると、その弟子である恵瓊も同様に頼りにしました。
恵瓊は、当時毛利氏が敵対していた九州の大友宗麟との交渉や、室町幕府や羽柴秀吉とも毛利氏の代表として話し合いをしたりしました。
織田信長が本能寺の変で亡くなると、敵対していた羽柴秀吉と交渉をまとめた人物としても知られています。
交渉の前にすでに信長の死を知っていたとも言われており、秀吉と裏で繋がっていたのではないかと思われる怪しい一面を持っています。
秀吉から戦国大名並みの扱いを受ける
恵瓊は僧侶という立場ながらも秀吉から伊予国(現愛媛県)に領地をもらっていました。
そのため、独自に動かす事のできる兵士も持っていました。
ただ、大名なのかと言われると判断が分かれるところで、お寺として領地をもらったのだと言われています。
しかし、それだけ秀吉に領地をもらったという事は、安国寺恵瓊個人が信頼されていた証拠にもなります。
この後、九州征伐や小田原攻めの際にも兵士を連れて戦いに参加しています。
関ヶ原の戦いにも参加する
関ヶ原の戦いの際に恵瓊は徳川家康と対抗する西軍として参加します。
西軍の総大将として毛利輝元を担ぎ出したのも安国寺恵瓊でした。
恵瓊の軍の周りには毛利氏一族の軍勢が多くいましたが、家康と内通していた勢力があったため西軍は敗れてしまいました。
その後、恵瓊は京都の寺院を転々と逃亡したのちに捕まり、僧侶の身分でありながらも西軍の中心的人物であったという事から処刑されてしまいました。
4行でわかる安国寺恵瓊のまとめ
- 毛利氏に滅ぼされたが毛利氏に仕える。
- 外交官として活躍し、秀吉から大名並みの扱いを受ける。
- 僧侶として臨済宗のトップに君臨する。
- 関ヶ原の合戦に敗れ、責任者としいて処刑される。
毛利氏や豊臣氏の外交官として様々な交渉事に活躍し、信頼度が向上する中で豊臣政権下ではブレーン的な存在になり得ていたのではないでしょうか。
恵瓊は、外交官として活躍する一方で僧侶としても臨済宗のトップに立つなど、宗教の分野に於いても非常に影響力が高かった人物ともいえます。
関ヶ原の合戦が終わった時に安国寺恵瓊は西軍の中心人物だから処刑されたのか、処刑されるべき理由があったのかわかりません。
しかし、家康にとって恵瓊の存在は後々邪魔になるように思える人物だったから消しておきたかったのではないでしょうか。