平安時代

武蔵坊弁慶ってどんな人?実在した?逸話をまとめてみた

武蔵坊弁慶

武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)といえば、源義経の忠臣として知られ、義経を守るために立ったまま亡くなったことで有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。

京都の五条大橋で元服前の義経(牛若丸)と出会い、その能力に惹かれたことをきっかけに主従関係を結び、度重なる危機を救いながら最後まで義経を守ったとされていますが、弁慶に関する伝承の多くは脚色されたものであるため、実際はどうだったのかよく分かっていません。

この記事では謎だらけの武蔵坊弁慶についてどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。

武蔵坊弁慶のプロフィール

  • 武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)
  • 幼名:鬼若(おにわか)
  • 父:弁昌?・弁心?・湛増?・山伏?
  • 母:二位大納言の姫?・弁吉?
  • 享年?(1151年3月3日?~1189年閏4月30日?)

武蔵坊弁慶は何をした人?

武蔵坊弁慶には不明なことが多く、実在したのかさえ疑われていますが、鎌倉時代に成立した歴史書である『吾妻鏡』のなかに、源義経の郎党として名前があるので、実在はしていたようです。

しかし、出自や功績などについては記されていないため、詳細は分かっていません。

そのため、弁慶の生涯を知るには、『義経記』や『弁慶物語』など、後世につくられた物語に頼るしか方法がなく、真偽のほどは定かではありません。

弁慶の生い立ち

武蔵坊弁慶の出生地については諸説ありますが、紀伊国と出雲国が有力とされています。

弁慶の出生地を紀伊国としている『義経記』によると、弁慶の父は熊野別当の弁昌、母は二位大納言の娘で、病気平癒のお礼参りのために熊野を参詣していた娘に惚れた熊野別当が、衆徒に娘をさらってくるように命じて妻にしました。

その後、熊野別当は娘との間に子どもを儲けましたが、なかなか生まれて来ず、18ヶ月してやっと生まれました。

生れた子どもは3歳くらいの大きさで、肩が隠れるほどの長い髪を生やし、奥歯も前歯も生えていたため、これは鬼の子に違いないと思った熊野別当は、水中に沈めるか山で磔にするように命じます。

しかし、哀れに思った熊野別当の妹が、その子を下さいと申し出たので、叔母の養子になりました。

叔母に鬼若という名前を付けられ、京都で大切に育てられた鬼若は、5歳でありながら13歳くらいに見えるほど立派に成長します。

その後、鬼若は法師になるために、比叡山に預けられました。

比叡山で生活を始めた鬼若は学問の覚えが早く、誰よりも学問ができるようになりましたが、立派な体格だったため、相撲や腕押しなどの力勝負を好んで行うようになります。

そのため、鬼若を非難する訴えが相次ぐと、鬼若は訴え出た者を敵とみなし、その者がいる宿坊の戸を壊すなどの悪事を働きましたが、父が熊野別当だったので咎められませんでした。

その結果、乱暴が過ぎるようになってしまい、鬼若は比叡山を去ることになります。

自ら剃髪した鬼若は、悪行で有名な西塔の武蔵坊の名前を継ぎ、父の弁昌と、弁昌の師匠である観慶から1字ずつもらい、武蔵坊弁慶と名乗りました。

弁慶の父について、『弁慶物語』は熊野別当の弁心、『橋弁慶』では熊野別当の湛増(たんぞう)とされていますが、熊野別当だったということは共通しています。

熊野別当とは、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を統括する役職のことで、21代別当である湛増の頃に最も勢力を誇っていました。

弁慶と義経の出会い

比叡山を出た弁慶は書写山圓教寺(兵庫県姫路市)の堂塔を炎上させてしまいましたが、罪に問われなかったため、もっと悪事を働くようになります。

そして、人は貴重な宝物を1000集めることにならい、太刀を1000本奪い取ろうと考えた弁慶は、夜になると京都の町中に現れて太刀を奪い続け、その数は999本になりました。

弁慶が最後の1本を奪うために待ち構えていると、まだ若い男が笛を吹きながら近づいてきました。

その男が見事な太刀を身に付けていたため、弁慶は何としてでも奪い取ってやろうと思います。

弁慶は知らなかったのですが、この男は源氏の御曹司である源義経でした。

弁慶は義経に挑みかかりましたが、義経は攻撃をかわして欄干の上に飛び上がり、弁慶の胸を蹴り飛ばしました。

返り討ちにあった弁慶は、今度は清水寺の門前で義経を待ち構えます。

そして、弁慶は再び義経に挑み、力の限り打ち合いましたが、義経に打ち込まれてしまいました。

弁慶に馬乗りになった義経が「私に従うか」と言うと、弁慶は「負けたのだから従おう」と答え、弁慶は義経の家来となります。

弁慶と義経の決闘は五条大橋とされていますが、当時、五条大橋はまだ完成していなかったので、『義経記』では堀川小路から清水寺での出来事とされています。

弁慶の活躍

弁慶は義経の忠臣として平家打倒のために活躍し、源平合戦で多くの手柄をあげました。

しかし、義経が兄の源頼朝と敵対したため、京都を離れて平泉に逃れることになります。

山伏の姿に変装した義経一行は、船で出羽国に向かうため、加賀国を目指していました。

その途中、安宅の関(あたかのせき)にたどり着いた義経一行は、東大寺再建のための勧進だと言いましたが、関守の富樫泰家に怪しまれ、勧進帳を読むことを迫られます。

弁慶が偽の勧進帳を見事に読み上げたため、関を越えることが許されましたが、強力(荷物運びの下人)に変装していた義経が疑われてしまったので、弁慶は疑われた義経を金剛杖で打ちのめしました。

富樫は弁慶の嘘を見破っていましたが、主君を打ちのめしてまで守った弁慶の忠誠心に感動し、わざと騙されたふりをして見逃したため、義経一行は無事に関を越えることができました。

弁慶の最期

その後、平泉にたどり着いた源義経一行は、藤原秀衡のもとに身を寄せていましたが、秀衡が亡くなってしまいます。

秀衡の後を継いだ藤原泰衡に対し、源頼朝は義経を捕らえるように圧力をかけてきました。

秀衡は「義経の指示を仰げ」と遺言を残していましたが、頼朝の圧力に屈した泰衡は遺言を破り、義経が居る衣川館を襲撃します(衣川の戦い)

500騎で攻めてきた泰衡の軍勢に対し、義経は10数騎で防戦しましたが、相次いで討ち死にするか自害しました。

弁慶は戦いのなかで喉仏を切りつけられ、普通の人なら意識を失うほど出血していましたが、血を流せば流すほど荒れ狂ったので、敵は「あのような不敵な者に近づくな」と言って、離れていきました。

敵を追い払った弁慶は義経のもとへ行き、「もはやこれまで」と伝えます。

経を唱えていた義経は「私が死んだ後も、私を守護せよ」と命じたので、弁慶は「承知いたしました」と答え、義経をじっと見て涙を流していましたが、敵が近づいてきたので義経に別れを告げました。

最期の一人となった弁慶は直立不動に踏ん張り立ち、薙刀で馬から敵を叩き落として首を刎ねるなど暴れ回ります。

しかし、弁慶めがけて無数の矢が放たれました。

弁慶は鎧に刺さった矢を次々に折り、口に笑みを含めて仁王立ちしていたので、敵は弁慶が生きていると思い近づきませんでしたが、ある武士が近づいてみると、すでに弁慶は死んでいました。

自害する義経を守るため、敵を寄せ付けないように立ったまま死んだ弁慶の最期は「弁慶の立往生」として後世に語り継がれています。

武蔵坊弁慶のエピソード・逸話

武蔵坊弁慶生誕伝説

和歌山県には弁慶の生誕に関する伝説があります。

それによると、弁慶の母の弁吉は、20歳になっても結婚相手に恵まれなかったため、縁結びの神である出雲路幸神社に良縁を祈ると、夢で枕木山の長海村で7年間住めば願いが叶うと告げられました。

お告げに従った弁吉が長海村に住み着いていると、3年後に山伏が現れて夫になることが決まったと告げて立ち去ります。

その後、弁吉は妊娠しましたが、つわりがひどかったので鍬を食べ続けました。

しかし、10本目を食べているときに見つかってしまい、半分ほど食べ残してしまいます。

1151年 3月3日、弁吉は出産しましたが、その子は髪が長く、歯も生え揃い、左の肩には「摩利支天」、右の肩には「大天狗」の文字が刻まれており、顔の色は黒く鉄色でしたが、弁吉が鉄を半分食べ残したため、喉のあたりは普通の肌でした。

弁吉は子どもに弁太と名付けて育て、その後、弁太は鬼若と改名して修行を続け、修行を終えた鬼若は弁慶と改名したとされています。

叔父を殺した弁慶

成長した弁慶は出雲で鍛冶屋をしている叔父に薙刀を作ってくれるように頼みました。

3年後に完成した薙刀は物凄い切れ味だったため、弁慶は他人のために作られたら困ると思いましたが、叔父は頼まれたならいくらでも作ると言ったので、弁慶は叔父を斬り殺してしまいます。

叔父を殺した弁慶は出奔しようとしましたが、病気に倒れた弁吉が「菩提を弔おうと思うなら紀州国に行き、誕象一門を訪ねなさい。そして、武士になるなら田那部を、法師になるなら武蔵坊と名乗るように」と遺言して亡くなりました。

その後、弁慶は出雲国を去って京都へ上り、義経と出会ったとされています。

5行でわかる武蔵坊弁慶のまとめ

まとめ
  • 熊野別当の子として生まれる
  • 法師になるために比叡山に預けられるが、乱暴が過ぎて追い出される
  • 1000本の太刀を奪うために義経と戦って敗れ、家来となる
  • 義経の忠臣として危機を救う
  • 義経を守るために立ったまま死ぬ

伝承では、自害した義経の胴体は判官森(宮城県栗原市栗駒沼倉にある山)に埋葬されたと伝えられていますが、この判官森の奥には弁慶森と呼ばれる場所があります。

義経を守るために死んだ弁慶は、義経の命令通り、死んだ後も義経を守っています。

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