「インド独立の父」と呼ばれているガンジー。
イギリスの植民地化にあったインドをなんとか独立させようと頑張った人です。
しかし独立運動とともに、宗教面でもヒンズー教とイスラム教が対立していた時代でもありました。
この記事ではガンジーの生涯を暗殺という最期を遂げるところまでみていきましょう。
目次
ガンジーのプロフィール
生誕 | 1869年10月2日 |
---|---|
生誕地 | イギリス領インド帝国グジャラート州ポールバンダル |
名前 | モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー 通称:マハトマ・ガンディー |
没年 | 1948年1月30日(78歳没) |
彼の名前に関しては、現在現地の発音に近づけるためにガンディーと呼ぶようになっていますが、本記事ではみなさんの聞き慣れたガンジーで進めて行きます。
ガンジーは何をした人?
素行の悪い子供時代
ガンジーはポールバンダル藩王国の宰相カラムチャンド・ガーンディーとその夫人プタリーバーイの間に生まれました。
ガンジーはポールバンダルの小学校に入学しましたが、その後ラージコートの小学校に入り直しています。
どうも成績が悪く、素行も悪かったようです。
ヒンドゥー教で禁止されている肉食を繰り返し、タバコも吸っており、そのタバコ代を工面するために、召使のお金を盗んだこともあったと言います。
その後12歳でアルフレッドハイスクールに入学し、13歳で生涯の妻となるカストゥルパと結婚しました。
早いと思われるかもしれませんが、インドでは若い頃の結婚が普通だったようです。
18歳になると宗主国であるイギリスの首都ロンドンへ行き、インナー・テンプル法曹院に入学し、法廷弁護士になるための勉強をしました。
猛勉強の結果1891年に弁護士資格に合格しました。
南アフリカへ
インドへ戻ったガンジーでしたが、インドでの弁護士業はうまく行きませんでした。
兄の勧めもあり、ガンジーはイギリス領南アフリカ連邦(現在の南アフリカ共和国)で弁護士をすることになりました。
しかし白人優位の人種差別を受け、列車の中で紳士的に振舞っていたのに人夫扱いをされました。
南アフリカでガンジーはヒンドゥー教やインド哲学の学びを深め、精神的な柱として崇めるようになっていきました。
また1880年代以降ロシアの小説家トルストイの影響を受けていたとも言われています。
新約聖書の山上の垂訓などにも触れ、「非所有」の生涯を決意しました。
1913年原住民土地法が制定されるなど人権差別のもとでインド系移民の権利回復活動に参加し、自由と平等を求めトランスバールでデモを行います。
このデモでガンジーは逮捕されてしまいました。
しかしデモの更新は5000人を超え、マスコミや白人の中でもガンジーを支援する人々が現れました。
その成果が実り1914年ガンジーらは勝利したのでした。
インドへ帰国
1915年インドに帰国したガンジーは、南アフリカでの功績を知っていた人たちに歓迎されました。
そして「インド独立運動」に加わり、不服従運動で世界に知られるようになります。
またイギリス製品を着用せず、インドの綿製品を着用するなど、不買運動を行いました。
このような運動のためにガンジーは度々投獄されました。
1922年には6年間の懲役刑の判決を受けています。
不服従運動
第一次不服従運動はインドの民衆が警察署を襲撃し、20人ほどの警官を焼死させてしまい中止となりました。
1930年不服従運動が再開されました。
その中でも「塩の行進」が有名です。
「塩の行進」とはイギリスの塩税に抗議したものでガンジーをはじめとして、彼の支持者がグジャラート州からダーンディー海岸までの約387キロメートルを行進した抗議行動のこと言います。
ガンジーは不暴力運動にこだわり、暴力で運動を止めさせようとする兵士に対しても反撃せず、逃げもしないという態度で真の強さと忍耐を見せました。
第二次世界大戦と独立
1941年に第二次世界大戦が始まると、日本は東南アジア一帯のイギリスの植民地からイギリス軍やオーストラリア軍を駆逐しました。
日本軍に乗じて、インドも独立のために戦いましたが、ガンジーは一切関わりませんでした。
やがて終戦を迎え戦勝国となったイギリスですが、インドを統治する力は残っていませんでした。
それでもイギリスはインド国民軍を反逆罪として裁判にかけようとしたので、ガンジーは「インドのために戦った彼らを救わなければならない」と独立運動を起こしたのです。
この運動をきっかけに独立運動はインド全体に広がり、イギリスはこれに耐えられなくなり独立を認めることとなりました。
1947年8月15日デリーの赤い城で、ジャワハルラール・ネルーがヒンドゥー教徒多数地域の独立を宣言し、イギリス国王を元首に戴く英連邦王国であるインド連邦が成立しました。
ガンジーが望んでいたヒンドゥー教とイスラム教が融合したインドとはならず、イスラム教国家のパキスタンとの分離独立となってしまいました。
暗殺
インドとパキスタンはその宗教観により暴動が起きていました。
ガンジーは何度も断食をし、身を挺してこれを防ごうとしましたが自体は好転しませんでした。
第一次インドパキスタン戦争が起こっても、ガンジーは融和を目指し敵であるパキスタンに協調しようとしました。
そのため「ムスリムに対して譲歩しすぎる」とヒンドゥー教徒たちから敵対視され始めました。
そしてその中の人々によりガンジーは暗殺されることになったのです。
1948年1月30日礼拝に向かうガンジーは群衆とともに人に支えてもらいながらビルラー邸の中庭を歩いていました。
そこへ1人の若者が現れ、ガンジーを支えていた人を押しのけ3発の銃弾をガンジーめがけて撃ちこんだのでした。
ガンジーは「へーラーム(おお神よ)」と繰り返してその場に倒れ込み、大量の血に染まっていきました。
すぐに病院に担ぎ込まれましたが、胸腹部を打たれていたガンジーは帰らぬ人となったのでした。
78歳でした。
ガンジーを撃った若者は、ナートゥーラーム・ゴードセーで、ヒンドゥー教徒を犠牲にしてもムスリムに譲歩するガンジーは「イスラム教徒の肩を持つ裏切り者」との理由で暗殺を企てたのでした。
ゴードセーは現行犯で取り押さえられ、後に共謀者として拳銃を調達したナラヤーン・アプテ他数名も逮捕され、ゴードセーとアプテは死刑となりました。
ガンジーのエピソード・逸話
ガンジーの残した資産
ガンジーは「非所有」の精神を貫いていましたから、彼の死後金融資産も不動産も全く持っていませんでした。
ただ、インド綿の衣と草履、眼鏡と入れ歯、竹の杖、糸車などほんの身の回りのものだけでした。
あとは懐中時計と、食事の乳を絞るためのヤギを一頭と、鉛筆、変わったところでは携帯用便器がありました。
ガンジーの葬列
ガンジーの葬儀には多くの人が集まりました。
遺体には赤と白の布が置かれ棺の上にインドの国旗がかけられていました。
棺は兵士たちが麻縄を引いて火葬場へ向かったと言います。
空からインド空軍がバラをまき、道は多くの民衆が敷き詰めた花々で埋め尽くされていました。
ガンジーはノーベル平和賞候補だった
ガンジーはこれまでノーベル平和賞に5回ノミネートされています。
しかし、一度も受賞することができませんでした。
その代わりというわけではないのかもしれませんが、2007年6月にガンジーの誕生日10月12日が「国債非暴力デー」と定められました。
3行でわかるガンジーのまとめ
- イギリスの植民地化にあったインドをなんとか独立させようと頑張った
- 弁護士であり、宗教家であり、政治指導者
- 争いを好まない平和主義だった
インドの独立のために一生を捧げたガンジーの生涯を見てきました。
独立といえばまず戦争をイメージしますが、ガンジーは決して争いをしませんでした。
そんな彼が感情をコントロールできない若者によって命を奪われたことは、とても残念で悲しいことです。
インドのために無欲で生きたガンジーの姿勢はまさにノーベル平和賞以上の価値があると思いませんか。