皆さんは山本五十六という人物をご存知でしょうか。
真珠湾攻撃に携わり、第二次世界大戦中に命を落とした軍人さんです。
しかし、山本五十六とはどのような人だったのか知らないという人が多いのではないでしょうか。
ここではその山本五十六という人の生涯をたどってみることとしましょう。
目次
山本五十六のプロフール
- 生誕:1884年4月4日
- 生誕地:新潟県古志郡長岡本町(現在の長岡市)
- 名前:山本五十六(旧姓…高野)
- 死没:1943年4月18日(59歳没)
山本五十六は何をした人?
軍人を目指すきっかけ
山本五十六は旧越後長岡藩士高野貞吉の六男として生まれました。
旧制新潟県立長岡中学校時代に10歳年上の甥である高野力が病死し、その時両親に「五十六が変わって立派な軍人になってくれれば」と言われたことが彼のトラウマとなりました。
それをきっかけに五十六は軍人を目指すようになったのでした。
軍人への訓練
1901年に五十六は官軍兵学校32期に200名中2番の好成績で入学します。
同期生には堀悌吉や塩沢幸一などがおり、特に堀悌吉とは親友になりました。
日露戦争中の1904年に192名中11番で卒業した五十六は少尉候補生として練習艦「韓崎丸(からさきまる)」に乗船します。
1905年には装甲巡洋艦「日進」に乗り込み日本海海戦に参加しました。
この時彼は左手の人差し指と中指を失い、左大腿部に重傷を負うことになります。
その後は防護巡洋艦「須磨」や戦艦「鹿島」、海防艦「見島」、駆逐艦「陽炎」などに勤務します。
その間海軍砲術学校や海軍水雷学校などでの教育も受けました。
教育の後は駆逐艦「春雨」や装甲巡洋艦「阿蘇」に乗り込んだ後、三等巡洋艦「宗谷」に配属となります。
1909年にはアメリカに駐在し、1911年海軍大学校乙種学生を卒業後海軍経理学校と海軍砲術学校の教官となり、同僚の米内光政と盟友となっています。
高野五十六から山本五十六へ
1913年両親を亡くし、五十六は海軍大学校に入学します。
この間の1915年旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続しました。
海軍大学校を卒業した翌年彼は腸チフスにかかり、また虫垂炎も起こし命の危機に瀕します。
大手術の末なんとか命を取り止めることができたのでした。
1917年海軍教育本部第一勤務となった頃、友人の紹介で三好礼子と結婚しています。
アメリカへ留学
1919年アメリカ駐在を命じられ、ハーバード大学に留学しました。
アメリカ国内を視察し、油田や自動車産業、飛行位産業などに強い印象を持ちました。
このアメリカ滞在時に超米海軍武官の上田吉武大佐より受けた指導と視察、研究の影響が航空機に着目するきっかけになった可能性があります。
上田吉武大佐は海軍航空開発の第一人者です。
1921年に一旦帰国したものの、1925年には再びアメリカに滞在しています。
この時もアメリカの石油や自動車、航空機や船舶などの生産流通を視察研究し、この経験が後の対米戦の戦略を立てることに大いに影響したのでした。
軍縮会議
1928年には帰国し軽巡洋艦「五十鈴」や多段式空母「赤城」の艦長を務めていましたが、1929年に海軍少尉に進級しロンドン軍縮会議に参加しました。
この軍縮会議では艦隊派と条約派という派閥争いも生じ、この一件が山本が艦隊派だと受け止められ五十六の出世のきっかけになりました。
結局軍縮会議では日本は補助艦全体の保有率を対米比6.975とされたのでした。
1934年第二次ロンドン海軍軍縮会が行われました。
この会議で日本は軍縮条約からの脱退を決意し、ワシントン海軍軍縮条約の破棄も決めていました。
その後から日本はドイツに近付き始めました。
1936年五十六は海軍次官に就任します。
これは五十六の政治手腕を買っていた永野修身の熱望によるものでした。
その後盧溝橋事件が起こり日中戦争に拡大し、第二次上海事変が起きると海軍航空隊も本格的に投入されることとなります。
この時海軍によりアメリカ艦艇への誤認砲撃があり五十六はすぐに対米交渉を行いました。
アメリカ視察を経験した五十六にはアメリカを敵に回すことはとても恐ろしいことだとわかっていましたから。
連合艦隊司令官と真珠湾攻撃
1939年五十六は連合艦隊司令官に任命されました。
この任命は日独伊三国同盟に納得しない五十六が暗殺されてしまうことを危惧して行われた人事でした。
しかし1940年日独伊三国同盟が締結され、日本はアメリカやイギリスを敵に回すこととなったのでした。
当時の総理大臣だった近衛文麿の日記によると
「是非と言われれば半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。しかしながら2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国同盟ができたのは仕方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避するよう極力ご努力願いたい」
を五十六は語ったそうです。
五十六は1941年真珠湾攻撃を仕掛けます。
これは敵の主力機動部隊を初戦で壊滅させ戦意をくじくという心理作戦の効果と敵の機動力の喪失を目標としていました。
この攻撃で戦艦4隻が大破し戦艦2隻が大・中破するなどアメリカ海軍の太平洋艦隊を行動不能にする戦果をあげました。
しかしこの攻撃から日米開戦を迎えることになったのでした。
これに続きドイツのヒトラーもアメリカへ宣戦布告し、第二次世界大戦はヨーロッパ、北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大していったのでした。
ミッドウェー海戦
ミッドウェー島攻略とアメリカ機動部隊殲滅を目的とした作戦が立てられ、反対の声もありましたが、五十六は奇襲できれば負けないと考え実行に移します。
五十六は敵機動部隊を誘い出し撃滅することを目的としていましたが、軍はミッドウェー島攻略を主に考えていたため、連合艦隊の意図は徹底されませんでした。
この海戦で日本軍は敵機動部隊より攻撃を受け、大敗を期することとなったのでした
海軍甲事件
五十六はブーゲンビル島、ショートランド島の航空基地の将兵をねぎらうため、ラバウルから第705航空隊の一式陸上攻撃機2期に分乗して基地を発進しました。
零式艦上戦闘機6機に護衛されてブイン基地へ移動中、ブーゲンビル島上空でアメリカ陸軍航空隊のP-38ライトニング16機に襲撃され、撃墜してしまいました。
この事件を海軍甲事件と言います。
五十六の遺体は機体の側に放り出されていた座席に着座し、右手で軍刀を握ったまま泰然としていたと言います。
59歳、軍人としての最期でした。
山本五十六のエピソード・逸話
勝気な子供時代
五十六はとても勝気な子供で小学生時代に「なんでも食べるが鉛筆は無理だろう」とからかわれると、その場で鉛筆を食べ出したそうです。
乃木希典を敬愛していた
五十六は乃木大将を尊敬しており、友人の歌人から
「乃木将軍を 稍々口悪く素気なく描けば そこに山本がいる」
と冗談めかして評されています。
反面東郷平八郎に対しては好意的ではなく、東郷神社が出来た時には皮肉を言っていたそうです。
五十六本人にも死後神社を建てようかという動きがあったのですが、彼の意志を知るものが反対し建立は行われませんでした。
甘いもの好き
五十六は酒を飲みませんでしたが、甘いものが好物でした。
特に夜食に汁粉が出ると喜んだそうです。
虎屋の羊羹をいつも切らさぬように部下は気を使っていたくらいでした。
飴や最中も大好きでした。
日本では柿を、南方ではパパイヤを好んで食べていました。
3行でわかる山本五十六のまとめ
- 海軍の軍人で、大将も務めた
- 真珠湾攻撃をしかけた
- ミッドウェー海戦では大敗した
軍人として59年の人生に幕を下ろした山本五十六の生涯を見てきました。
本当はアメリカとは戦いたくなかった五十六でしたが、真珠湾攻撃で先制して有利にことを進めようとした考えが仇となってしまいました。
2度の留学でアメリカの先進化を嫌という程見せつけられていた五十六には、アメリカとは絶対戦ってはいけないという思いがあったはずなのに、結局敵に回すことになり五十六は腹を括ったことでしょう。
それゆえ彼にはこの戦争の結末がわかっていたことは間違い無いでしょう。
それでも軍人として見事に最後まで戦った山本五十六でした。