戦国時代

亀井茲矩はどんな人?山中鹿之助との関係や亀井琉球守殿について

亀井茲矩

戦国時代という時代は多くの戦国大名が誕生し滅んでゆきました。

また、その大名に仕えた家来たちも家族や一族を守るために、所属する勢力や主人を代えながら巧みに生き抜いてゆきました。

そして、上手く世渡りをした者たちが数百年続いた江戸時代の末期まで武士として存続する事ができたのでした。

この記事で取り上げる亀井茲矩(かめいこれのり)もそんな世渡り上手だった戦国武将の1人と言えるのではないでしょうか。

茲矩がどのようにして戦国時代と江戸時代を生き抜いたのか詳しく見てゆきましょう。

亀井茲矩のプロフィール

  • 本名:亀井茲矩(かめいこれのり)
  • 通称・官位:新十郎、武蔵守、琉球守
  • 享年:54歳(1557年~1612年2月27日)
  • 戦国大名尼子氏に仕えた武将。徳川政権下で大名となり幕末まで存続する。

亀井茲矩は何をした人?

亀井茲矩は出雲国の尼子氏に仕える家来でした。

最初は湯茲矩(ゆこれのり)と言いましたが、亀井氏に婿養子として入る事になったために亀井茲矩と名乗るようになりました。

しかし、茲矩が大人になった頃には主人の尼子氏が毛利氏に滅ぼされてしまい主人を失ってしまいました。

そんな中、毛利氏に対抗する勢力である織田信長・羽柴秀吉・徳川家康と巧みに所属する勢力を替える事で大名としての立場を築き上げる事に成功します。

亀井家は幕末まで存在し、尼子氏の家臣の中で一番出世した武将になりました。

では、具体的にどのようなエピソードがあるのか見てゆきたいと思います。

亀井茲矩のエピソード・逸話

山中鹿之助とは義兄弟であり義親子?

尼子氏の家臣に山中鹿之助(やまなかしかのすけ)という人がいます。

実は茲矩にとっては切り離せない人物なのです。

茲矩は幼少の頃に亀井家を継ぐ事になりましたが、実は先に鹿之助が亀井家を継いでいたのです。

ところが、鹿之助の兄は体が弱かったため、鹿之助が山中家に戻る事になり、急きょ茲矩が亀井家を継ぐことになったのです。

茲矩の義父である亀井秀綱の娘二人は山中鹿之助、亀井茲矩と結婚したので二人は義兄弟という間柄になります。

しかも、後で山中鹿之助の娘は茲矩の後室として嫁ぐ事になるので、茲矩から見て鹿之助は義兄弟であり義父でもあるという複雑な間柄なのです。

まさむね
まさむね
血縁関係上、立場を同じにする機会が多かったことでしょう。

年上で尚且つ義父の鹿之助から命の危険性が伴う合戦の誘いがあったとしても、茲矩は断る事ができなかったのかもしれませんね。

そんな山中鹿之助についてはこちらの記事で詳しくまとめていますので、良ければご覧ください。

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運よく生き残る!生死を分けた上月城の戦い

茲矩は毛利氏と織田氏の戦いの中で織田方に所属して、信長の家臣であった羽柴秀吉とともに近畿地方各地で戦いを繰り広げます。

毛利氏との戦いで尼子氏が奪い取った上月城(こうづきじょう)でしたが、反撃を行った毛利氏の大軍によって包囲されてしまいました。

毛利氏から降伏勧告が出る中、茲矩は救援を得るために毛利氏の包囲網を突破して秀吉の下までたどり着く事に成功します。

しかし、秀吉に援軍を送る余裕は無く尼子勝久(あまごかつひさ)の一族や重臣らは切腹する事となり、一緒に戦った義父の山中鹿之助も殺害されてしまいました。

まさむね
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茲矩も重臣という立場だったので、もし城に残っていたら他の家来と同様に死んでいたのかもしれません。

秀吉に仕え珍しい官位を名乗る

茲矩はその後、豊臣秀吉に仕えて因幡国(現鳥取県)の鹿野という場所に領地を持ちます。

この時に秀吉に許可をもらって銀山開発や貿易などを行ったという記録も残っています。

秀吉に出雲国の領地を望みましたが、叶わなかったので代わりに琉球はどうかと尋ねたので、気に入られて「亀井琉球守殿」という扇子を送ったと言われています。

朝鮮国に名前を残した男

茲矩は秀吉の朝鮮出兵の際に水軍として参加しますが、朝鮮国の李舜水に攻撃され船を奪われてしまいました。

この時に秀吉からもらった大事な扇子を敵に拾われていたようで、朝鮮国の記録に「亀井琉球守」という名前が残っているようです。

まさむね
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日本側、朝鮮側双方に同じ記録が残っている面白いエピソードです。

徳川家康に仕える

秀吉の死後は徳川家康側の立場になり関ヶ原の合戦後には加増されて、初代鹿野藩の藩主となりました。

茲矩はこの地で亡くなりましたが子孫は津和野藩(現島根県)に移る事になり、家は幕末まで存続する事になりました。

まさむね
まさむね
戦国大名尼子氏の家臣はその多くが浪人となりましたが、亀井家は武士として一番出世した家と言えるのではないでしょうか。

血縁者である義父鹿之助を弔う

現在、鳥取市鹿野町には山中鹿之助を弔った「幸盛寺(こうせいじ)」という寺があります。

戦死した義兄弟であり義父でもあった鹿之助を弔い彼の本名「幸盛(ゆきもり)」という名前の寺を建立したのです。

まさむね
まさむね
苦労を共にした血縁者である鹿之助を大事にしたかったという茲矩の思いの表れではないでしょうか。

4行でわかる亀井茲矩のまとめ

まとめ
  • 山中鹿之助らとともに尼子氏再興軍として各地を転戦する。
  • 銀山開発や海外貿易などを行う先進的な考えの持ち主。
  • 主人を代えながら戦国時代を巧みに生き抜き、家は幕末まで存続した。
  • 滅亡した尼子氏家臣の中で一番の出世頭。

亀井茲矩は、尼子氏に仕える一介の戦国武将にすぎませんせしたが、自分の身の振り方を上手く考えて、巧みに仕える人物を選び徳川政権下で幕末まで家が存続する事になりました。

また、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という時代を切り開いた全員に謁見しているというのも、茲矩が後に生き残るためのパイプを作ったという意味で、大きな価値があったのではないでしょうか。

まさむね
まさむね
尼子氏から織田方、豊臣方、徳川方と主を代える事で、結果論ですが一番理想的な形のレールを歩んだ大名とも言えると思います。

また、主人は代えながらも自分が一番お世話になった山中鹿之助の事は切っても切れない間柄であり、終生鹿之助を弔ったと言われています。

知識人でもあり海外との貿易や銀山開発にも大きな影響力を持っていました。

このように新しい事に対して積極的な意欲を持った事も、茲矩の世渡り上手さに加えて時の支配者に気に入られる魅力の一つになったのかもしれません。

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