日本の近代医学の道を切り開いた北里柴三郎(きたざと しばさぶろう)。
2024年に20年ぶりに紙幣が新しくなりますが、その千円札の肖像画に採用されると発表され、今大きな注目を集めています。
何となく医学ですごいことをした!というのはご存じだと思いますが、具体的には何をした人なのでしょうか?
簡単にまとめてみました。
目次
北里柴三郎のプロフィール
- 日本の医学者・細菌学者
- 享年78歳(1853年1月29日生 、1931年6月13日没)
- 北里研究所を設立、慶応義塾大学医学科 初代医学科長
北里柴三郎は何した人?
北里柴三郎は、現在の熊本県阿蘇郡小国町で庄屋の長男として生まれました。
子どもの頃はとてもわんぱくで、武士の家系であったこともあり、将来は軍人か政治家になりたいと思っていました。
しかし両親の勧めもあり、18歳のときに熊本医学校に入ります。
現在の東大医学部で学ぶ
次第に医学に魅了され、もっと専門的に学びたいと思い、東京医学校(現在の東京大学医学部)に進みました。
この頃、日本は開国したばかりで、外国からコレラなどの伝染病が入ってきました。
日本でもコレラで多くの人が亡くなり、柴三郎の二人の兄も犠牲になりました。
この経験から「病人を救う医療も大切だが、医療の使命は病気を予防すること」と確信し、医学の道に進むことを決意。
卒業後は内務省衛生局(現在の厚生労働省)で研究者として働きました。
このときの研究熱心な態度が周囲に認められ、伝染病の研究で世界トップのドイツに留学することになったのです。
破傷風の研究に取り組む
1886年から6年間ベルリン大学に留学し、病原微生物学研究の第一人者であるロベルト・コッホに師事、予防医学の研究に励みます。
その中で破傷風という病気に取り組むことになりました。
破傷風とは、傷口から入った菌が出す毒素が原因で、全身が痙攣してしまう病気です。
熱湯にも消毒薬にも耐えて生き延びるため、致死率が高く恐れられていました。
柴三郎は熱心に研究し、1889年に、世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功しました。
これだけでもすごいことですが、さらにその治療法の研究へと突き進みます。
柴三郎は、破傷風菌が出す毒素を少しずつ動物に注射してみました。
すると毒への耐性ができて、大量の毒素を注射しても病気にならないものが出てきました。
病気にならなかった動物を調べると、血液の中に破傷風が出す毒素を消す成分が見つかりました。
その成分を破傷風にかかっている人に注射すると、病気が治ったのです。
この治療法を「血清療法」と言い、破傷風の血清療法の発明で柴三郎は世界的な学者となりました。
日本の細菌学の父
日本に帰国後も熱心に伝染病の研究をし、多くの業績を残しました。
例えば、ペストが蔓延している香港に訪れペスト菌を発見したり、狂犬病・インフルエンザ・赤痢などの血清開発にも取り組みました。
このような数々の発見から「日本の細菌学の父」と呼ばれるようになりました。
また、伝染病専門の研究所をつくることに取り組みました。
これを支援してくれたのは、あの有名な福沢諭吉です。
1914年には北里研究所を設立し、多くの細菌学者を育てました。
その指導は非常に厳しかったようで、弟子たちからは「ドンネル先生」と呼ばれたそうです。
門下生には黄熱病の研究で有名な野口英世もいました。
教育の分野にも尽力し、慶應義塾大学の医学科創設に関わり、初代医学科長に就任しています。
そして、1931年に脳溢血により生涯を終えましたが、1962年に研究所の創設50周年を記念して北里大学も建学されています。
北里柴三郎のエピソード・逸話
北里柴三郎は、留学時代に第1回ノーベル賞にノミネートされています。
当時ヨーロッパで大流行していたジフテリアについて、師事していたコッホの弟子・ベーリングと共に研究していました。
そしてジフテリアの血清療法を発見し、大きな成果を上げました。
この研究でノーベル賞候補になりましたが、なぜか受賞したのはノミネートされていなかったベーリングの方でした。
その理由は、
- ベーリングのサポート役と見なされてしまった
- 当時は欧米中心の考え方で、ノーベル賞受賞者も欧米人ばかりだった
- ドイツが国を挙げてベーリングを応援していた
などと言われています。
3行でわかる北里柴三郎のまとめ
- 予防医学を熱心に研究し、世界で初めて破傷風の血清療法を開発
- 帰国後は研究所を開設し、後継者の育成にも取り組む
- 第1回ノーベル賞にノミネートされるが、受賞は逃す
北里柴三郎の偉大な研究により多くの命が救われ、今もなお、現代医学に大きな影響を与えています。
この功績が讃えられ、新札のデザインにも選ばれたようです。
新しい千円札が発行されたときは、柴三郎のおかげで日々健康でいられることに感謝して使ってみてはいかがでしょうか?!