明治時代

松下幸之助は何をした人?どんな人?エピソードをまとめてみました

松下幸之助

日本の電気メーカー・パナソニックの創始者といえば松下幸之助だということはみなさんご存知だと思います。

では彼はどういう人だったのかと言われてもよく知らない人が多いのではないでしょうか。

ここでは松下幸之助がどんな人だったのかみていくことにしましょう。

松下幸之助のプロフィール

  • 生誕:1894年11月27日
  • 生誕地:和歌山県海草郡和佐村(現在の和歌山市)
  • 名前:松下幸之助
  • 死没:1989年4月27日(94歳没)

松下幸之助は何をした人?

丁稚奉公から電気の世界へ

松下幸之助は小地主・松下政楠ととく枝の間に三男として生まれました。

松下という姓は、松の大樹の下に家があったことから用いたと言われています。

1899年父が米相場で失敗し、家も田畑も手放すことになりました。

そこで和歌山市本町に転居し下駄屋を始めますが、これもうまくいきませんでした。

幸之助は尋常小学校を中退し9歳で火鉢店へ丁稚奉公に出されました。

その後すぐに奉公先を五代自転車に変えています。

この頃サントリーの起源である寿屋の鳥井信治郎と出会い、将来にわたり経営の師と仰ぐのでした。

幸之助は大阪市に導入された路面電車に感動し、電気に関わる仕事を志すようになりました。

16歳で大阪電灯(現在の関西電力)に入社し7年間勤務します。

当時の電球は自宅に直接電線を引く方式だったので、電球の取り扱いもとても危険な作業でした。

そこで簡単に取り外すことができる電球ソケットを考案しています。

1913年幸之助は18歳で関西商工学校夜間部予科に入学し、1914年井植むめのという女性と結婚し、1917年大阪電灯を退職しました

会社設立へ

大阪市東成区の自宅で、妻とその弟の井植歳男とそのほかの友人2名を含み5名で電球ソケットの製造販売を始めます。

まさむね
まさむね
井植歳男は戦後に独立し三洋電機を創業した人です。

電球ソケットはあまり売れず、友人2人は去って行きましたが、川北電気(現在のパナソニック エコシステムズ)から扇風機の部品の注文が大量にあり窮地を脱することができました。

その後はアタッチメントプラグや二灯用差込プラグがヒットし事業は軌道に乗り始めました。

1918年に大阪市北区(現在の大阪市福島区)で「松下電気器具製作所(現在のパナソニック)」を創業し、電球ソケットに続き、カンテラ式で取り外し可能な自転車用電池ランプを考案し、乾電池などにも手を広げました。

1929年には社名を「松下電器製作所」へ変えています。

事業拡大と第二次世界大戦

1932年を「命知元年」と定めて5月に第1回創業記念式を開き、「水道哲学」や「250年計画」「適正利益・現金正価」を社員に訓示しています。

また事業拡大のため、本社・工場を大阪市門真市へ移転し、1935年には「松下電器産業株式会社」として会社を法人化しました。

第二次世界大戦中は、軍需品の生産をするとともに、松下造船株式会社や松下航空機株式会社も設立しました。

造船の方は56隻の中型木造船を作りましたが、航空機は7機を試作しただけで失敗に終わりました。

戦後、幸之助や歳男ら役員は戦争協力者として公職追放処分となります。

この頃歳男を暖簾分けの形で社外に出しました。

そのような中で幸之助はPHP研究所を設立し、倫理教育に乗り出し世間の評判を高めました。

社員たちも人員整理をしなかった幸之助の方針に感謝し、GHQに嘆願し1947年会社は復活したのでした。

戦後の事業

1948年に自分の趣味の株式投資を意識して「ナショナル証券」を設立しましたがこちらはうまくいかなかったようです。

1951年テレビ事業視察のため外遊し、オランダのフィリップスと技術導入を提携し1997年に「松下電器」に統合するまで「松下電子工業」として分社化しました。

1954年には今度はレコード事業に参入するため「日本ビクター」を子会社化しましたが、経営上は独立性を保証しました。

1957年現在の「パナソニックショップ」となる系列電器店網へ取り組み、「ナショナルショップ」を誕生させました。

この「ナショナルショップ」は最大で2万7千店を超えたそうです。

そんな功績が認められ1960年には和歌山県の名誉市民に選ばれています。

会長職へ

1961年に会長に就任し第一線から身を引き、1964年には門真市で初の名誉市民に推挙されています。

1970年日本万博博覧会に松下電器館を出店し、「5000年後に開封する」としてタイムカプセルを大阪城公園に埋蔵しました。

まさむね
まさむね
5000年後ってすごい未来の話ですね。

どんな世の中になっているのでしょうか。

1971年には慶應義塾大学工学部へ多額の寄付を行い、松下記念図書館ができました。

引退と最期

1973年に幸之助は80歳を機に引退し、相談役になりました。

翌年には奈良県明日香村の名誉村民となっています。

この年から1983年まで伊勢神宮崇敬会第3代会長を務めています。

1979年には70億円もの私財を投じて財団法人松下政経塾を設立し、政界に貢献しようとしました。

そんな幸之助でしたが、1989年4月気管支肺炎のため病院で亡くなるのでした。

94年間を駆け抜けた人生でした。

松下幸之助のエピソード・逸話

賢い丁稚時代

自転車屋に奉公していた幸之助は度々タバコを買いに行かされました。

そのうちまとめてタバコを買っておけばいちいち買いに行かずに済むし、20個買うと1つオマケでくれたので、その分を自分の儲けにして小銭をためていました。

それを気に入らない丁稚仲間に店主に報告され、すぐに止めるように言われました。

まさむね
まさむね
この頃から商才があったのですね。

水道哲学

松下幸之助の経営哲学は水道哲学と呼ばれています。

水道の水のように低価格で良質なものを大量に供給することで、物価を低くし消費者が手にしやすくなるという思想です。

幸之助は儲けに走ることより、良い製品を低価格でたくさん売ることを目的としていました。

その上彼はまず従業員のことを考えていました。

儲けよりもまず人間大事が信条でした。

人間は偉大であるという徹底した哲学を彼は持ち続けていたのです。

浅草寺の雷門

1960年幸之助は100年近く仮設状態のままになっていた浅草寺の雷門と大提灯を私財を使い現在の形に再建しました。

提灯の雷門の下には「松下電器産業株式会社 松下幸之助」と金文字で大きく書かれたプレートが貼られています。

3行でわかる松下幸之助のまとめ

まとめ
  • パナソニックの創始者
  • 自分なりの哲学を持っていた
  • 色々な事業を手がけた

休むことなく事業に力を注いだ松下幸之助の生涯を見てきました。

彼の死亡時の遺産総額は2450億円と言いますからものすごい額ですね。

その私財を使って色々な慈善事業もしています。

学校も出ていない貧しい生活から、彼は怯むことなく自分の人生に立ち向かっていきました。

その結果大成功をおさめることができたのです。

彼の信じる哲学は、今でもパナソニックの社員に受け継がれていっていることでしょう。

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