森鴎外といえば「舞姫」や「山椒大夫」などを書いた有名な小説家だと学校で習った人も多いでしょう。
そう、鴎外は明治から大正にかけて活躍した小説家です。
でも彼は小説家だけではなく、お医者さんでもあったのです。
医師の彼が小説を書くようになったのは何故なのでしょう。
この記事では森鴎外についてその生涯を見ていくとしましょう。
目次
森鴎外のプロフィール
- 生誕:1862年2月17日
- 生誕地:石見国津和野(現在の島根県津和野町)
- 名前:本名…森林太郎
- 死没:1922年7月9日(60歳没)
森鴎外は何をした人?
期待された幼少期から軍医へ
森鴎外は津和野藩の藩医・森静泰(後に靜男に改名)と峰子の間に長男として生まれました。
藩医の家にふさわしく、幼い頃から論語や孟子、その上オランダ語まで学び、四書五経も複読できるほど優秀な子供で家族の期待を一身に背負っていました。
1872年鴎外が10歳の時、廃藩置県をきっかけに父と上京し墨田区東向島に住むようになります。
翌年には残る家族も津和野を離れ上京し、父の経営する医院がある千住に移り住みました。
1873年鴎外は年齢を2歳多く偽り第一大学区医学校(現在の東京大学医学部)予科に12歳で入学します。
後に本科に進みドイツ人教官たちの講義を受ける一方で、佐藤元長について漢方医書を読み、漢詩や漢文に傾倒し和歌を作ったりしていました。
1881年に本科を卒業し、父の病院を手伝っていましたが陸軍省へ入ることになり、陸軍軍医副(中尉相当)隣東京陸軍病院に勤務することになりました。
ドイツ留学へ
1884年ドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるためにドイツ留学をすることになります。
鴎外はフランスのマルセイユを経由してベルリンに到着します。
最初の1年を過ごしたライプツウィヒでは、生活に慣れていない鴎外を昼食と夜食をとっていたフォーゲル家の人たちが支えました。
また下宿人達とも親しく付き合っています。
次の滞在先のドレスデンでは主に軍医学講習会に参加しました。
王室関係者などとの交際が多く、王宮の舞踏会や宮廷劇場などに出入りしていました。
ここで鴎外はザクセン王国軍医監ウィルヘルム・ロートとヴィルケをいう大切な友人を得ています。
次に訪れたミュンヘンでは洋画家の原田直次郎などと交際をしました。
次のベルリンでも、北里柴三郎に会い、細菌学の勉強をしています。
ウィーンに移動した鴎外らは、万国衛生会に日本代表として参加してから、帰国の途につきました。
帰国後の評論と翻訳活動
1889年に「読売新聞」の付録として「小説論」を書いたのをきっかけに、鴎外は次々と評論や翻訳を始めます。
特に翻訳では「即興詩人」や「ファウスト」などが有名です。
そして「舞姫」を「国民之友」に発表し、「うたかたの記」「文づかひ」の三作品をドイツ三部作と呼ばれるようになります。
このドイツ三部作を巡って石橋忍月と論争をし、「しがらみ草紙」では坪内逍遥の記実主義を批判し、没理想論争を繰り広げています。
日清戦争へ
1894年日清戦争が起こり、翌年下関条約の後鴎外は台湾での勤務を命じられています。
4ヶ月ほどの台湾勤務でした。
帰京した鴎外は1896年に幸田露伴らと「卍」を創刊しています。
1899年鴎外は小倉に左遷されます。
この小倉時代で、鴎外は社会の周縁ないし底辺に生きる人々への親和や慈しみの眼差しを得るようになっていました。
1902年18歳年下の荒木志げと見合い結婚をしています。
軍医として、作家として
1904年から1906年まで日露戦争に第2軍軍医部長として出征していた鴎外は1907年に陸軍軍医総監に昇進し陸軍省医務局長、つまり軍医のトップに就任しました。
その一方では1909年に「スバル」が創刊されると、「半日」や「ヰタ・セクスアリス」「青年」などを次々と発表しました。
1911年には「カズイスチカ」や「雁」など精力的に書いていきました。
1912年乃木希典が明治天皇に殉死したことを受け、「興津弥五右衛門の遺書」を書き、それを機に歴史小説に進み、「阿部一族」や「山椒大夫」「高瀬舟」などを書いています。
晩年の鴎外
1916年に鴎外は陸軍省医務局長を8年半勤めて退任し、予備役に編入となりました。
1918年には帝国美術院(現在の日本芸術院)の初代院長に就任しました。
鴎外は「明治」と「大正」の元号に否定的だったため、天皇の諡(おくりな)と元号の考証と編集に着手しました。
しかしこの頃結核を患っていた鴎外は病状の悪化により、後を吉田増蔵に託すことにします。
そして鴎外は、肺結核と腎萎縮のために1922年家族と親友らが見守る中息を引き取ります。
満60歳でした。
森鴎外のエピソード・逸話
ドイツでの恋
鴎外がドイツから帰国直後、ドイツ人女性が日本を訪れ1ヶ月ほど滞在していたという出来事がありました。
ベルリンで鴎外と交際していた女性が彼を追いかけてきたものの、話し合いの結果帰国することになったのです。
この話は鴎外の有名作「舞姫」の題材の一つになりました。
ドイツと日本に別れていても、2人は文通をするなど生涯その女性を忘れることはなかったといいます。
脚気の研究の誤り
当時は脚気で亡くなる人が年間で1万人から2万人もいたそうです。
鴎外は脚気被害をなくすため努力し、後世に貢献したと言われていますが実はそうではないようです。
脚気はビタミンB1欠乏症のために起こる病気で、放っておくと死に至ります。
しかし当初鴎外は脚気を細菌によるものだと言い、白米を食べることが日本人で、パンを食べるのが西洋人だと誤った考えを唱えます。
その結果日露戦争では傷病者35万人のうち25万人が脚気患者となる驚くような状況にまでなっていたのでした。
1926年鴎外の死後、ビタミンB1が発見され、その欠乏により脚気が起こることがやっと判明しました。
ビタミンB1は、白米以外の麦や肉や魚などほとんどの食品に含まれています。
大の甘党
鴎外はお酒は飲めませんでしたが、アンパンや、焼き芋が大好きでした。
「饅頭の茶漬け」という独自の料理を好み、ご飯の上に四等分した饅頭を乗せ、お茶をかけて食べていたそうです。
本人は「渋く粋な甘み」と言っていたらしいです。
3行でわかる森鴎外のまとめ
- 「舞姫」や「山椒大夫」などを書いた小説家
- 小説家だけではなくトップクラスの軍医だった
- ドイツ留学が作家として目覚めさせた
軍医として小説家として精力的に生きた森鴎外の生涯を見てきました。
幼少時代から頭が良く、若くして大学まで進み、医師にまでなった鴎外。
小説で「舞姫」や「高瀬舟」などを読んでいたので、すっかり有名な小説家だとばかり思っていました。
しかし、軍医として活躍していた一方であれだけの小説を書いていた森鴎外はすごいとしか言いようがありません。
いつそんなに小説を書く時間があったのでしょうか。
ちょっと硬いイメージの鴎外も、饅頭茶漬けを好むところなんかは親しみを感じました。