千利休と言えば、お茶の名手として有名です。
ただ、彼に関する話はお茶だけには留まりません。
実は、あの織田信長や豊臣秀吉とも深く関わる人物なのです。
彼はどんなことを成し遂げたのでしょうか。
また、エピソードや逸話は?
簡単にまとめてみました!
目次
千利休のプロフィール
千利休(せんのりきゅう)1522-1591。
戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。
主にわび茶の完成者として知られ、黒の帽子と衣を羽織った姿絵で有名です。
千利休は何をした人?
豊臣秀吉の側近
1569年以降、織田信長は境を直轄地としていきますが、その過程で千利休は茶堂として召し抱えられることとなります。
そして1582年の本能寺の変により信長が亡くなると、豊臣秀吉に仕えるようになりました。
豊臣秀吉は利休に茶室を作るように命じ、約半年をかけて待庵を完成させ、以降はそこで茶会を開いていきます。
その後は大阪城内にも茶室を作り、1587年には聚楽第内に屋敷を構え、禄を3千石も賜るなど、茶人として大きく評価されるようになりました。
また、日枝佳乃側近として政事にも大きく関わり、豊臣秀長は「公儀のことは私に、内々のとは利休に」と語っていたといいます。
こうして順風満帆に思えた利休でしたが、1591年、突然悲劇が訪れます。
秀吉の怒りを買い、切腹を命じられてしまうのです。
その原因には様々な説が唱えられていますが、未だ確定はされていません。
一つには、茶器を高額で売り私腹を肥やしたという疑いを持たれたから。
他には、秀吉と茶堂に対する考え方で対立したからや、朝鮮出兵を批判したからなどの理由が挙げられています。
中には、茶会で秀吉に茶をこぼしてしまったからという、本当なら理不尽に思える説まであります。
いずれにせよ、切腹を命じられたからには逃れることはできません。
弟子たちの懇願も空しく、利休は京都で最期を迎えました。
当時70歳でした。
わび茶の完成
わび茶とは茶の湯の一様式であり、書院における豪華な茶の湯に対して、簡素簡略の境地である「わび」の精神を重んじたものです。
村田珠光が初めて以降、弟子の宗珠、武野紹鴎などが発展させ、千利休が完成させたと言われています。
彼は受け継がれてきたわび茶の概念をさらに独自に発展させ、道具を自分でデザインしたり、竹で作った簡易なものを用いたりしました。
これらは他からすれば粗末な道具とみなされていましたが、あえてそれを使うことに「わび」の精神が宿るとしていたのです。
他にも茶を飲む空間にも革新を行い、元々は「部屋の一部」でしかなかった茶室を、独立した建物である「草庵」として新しく生み出しました。
この茶への新たな考え方は孫の千宗旦にも引き継がれ、「わび茶」のイメージは完成されました。
このように、利休はそれまでの茶に対する考え方を根本から変えていき、現代に至るまでに多大な影響を与えることになったのです。
千利休のエピソード・逸話
身長がかなり高かった
利休の身長は、180cmもあったと推定されています。
現代でもかなり高い方ですが、当時の平均身長からすれば並外れた体格の持ち主だったと言えるでしょう。
切腹を命じられても動じなかった
豊臣秀吉が千利休の切腹を決断した後、利休のもとに使者が来ました。
それを伝えられた利休は、「茶室の鍵をなくしてしまいました」と、動じることもなく答えたと言います。
朝顔で秀吉を感動させた
ある時、利休に招かれた秀吉は庭の朝顔がすべて切り取られていることに気付きました。
不思議に感じながらも茶室に入ると、そこにあったのは一輪の朝顔。
普段なら何も感じない朝顔でも、たった一輪だけという状況だとより一層その美しさを際立たせてくれます。
それを見た秀吉は、利休の心意気に深く感動しました。
他の誰もやらないことをやることができる彼の精神が、秀吉を惹きつけたのだと思います。
3行でわかる千利休のまとめ
- 織田信長・豊臣秀吉に仕え、側近や茶人として大成していくが、秀吉の怒りを買い切腹をさせられた
- 村田珠光が生み出した「わび茶」の精神を受け継ぎ、完成させた
- 切腹を伝えられても動じないような強い心を持っていた
千利休の人生はすべて茶と共にあり、彼のおかげで茶に対する世間の関心は大きく向上しました。
秀吉の側近としても優秀で、大きな信頼も持たれていましたが、最期には怒らせてしまい自害するというのは、なんとも悲しい終わり方だと思います。
しかし、それもきっと利休自身が信念を曲げなかったゆえのことだったのでしょう。
茶で培われた精神は、後世にも受け継がれ、そして現代にも多くの影響を残しています。