支倉常長は江戸時代初期にヨーロッパにわたった侍です。
主君・伊達政宗の命をおびて、遠くローマまで派遣された常長を今回はご紹介したいと思います。
その生涯を探っていくと、時代に翻弄された悲劇の人物としての姿とともに、あの時代に二つの大洋を横断して日本に戻るという並外れた冒険を成し遂げた偉大な人物としての姿が浮かび上がってきます。
それでは、彼の生涯から説明していきましょう。
目次
支倉常長のプロフィール
- 生誕 1571年
- 死没 1622年7月1日
- 享年 52歳
支倉常長(はせくら つねなが)は、慶長遣欧使節としてヨーロッパに渡った人物として知られています。
1571年、現在の米沢市に、山口常成(やまぐちつねしげ)の次男として生まれました。
山口常成は伊達輝宗・政宗に仕えた武士で、その祖先をたどれば桓武天皇のひ孫・高望王にさかのぼるといいますから、かなりの名家の出身だったと推測されます。
ただ、常成は1600年に政宗に自害を命ぜられて亡くなっています。
名誉挽回のためにも主君・政宗のためにより一層の忠節を果たす必要があったのではないかと推測されます。
伊達政宗が城下町・仙台にキリスト教の布教を許可したとき、当地の仏教寺院とトラブルになったことがあります。
1611年のことです。
政宗はトラブルになった寺院の仏像破壊や、僧侶たちの殺害を支倉常長に命じており、常長はその仕事を忠実に遂行しました。
幕府がキリスト教の禁教令を出したのは1612年3月21日(直轄領のみ)、翌年1613年12月19日には全国に波及させていきます。
常長が慶長遣欧使節として石巻を出帆したのが、1613年9月15日です。
サン・ファン・バウティスタ号で太平洋を横断し、メキシコを越え、ヨーロッパに上陸した常長らは、スペインでは国王フェリペ3世と謁見し、ローマでは教皇パウロ5世にも謁見しました。
その道中、常長は洗礼を受け、クリスチャンとなっています。
この遣欧使節派遣の目的は、さまざまな推測がなされていますが、表向きは通商を求めたものです。
しかし、日本におけるキリスト教弾圧の情報は遠くローマまで届いていました。
そのこともあってか、この使節派遣はさしたる成果も生まず、常長らは帰国せざるを得ませんでした。
常長は1620年に仙台に帰国しますが、日本におけるキリスト教をめぐる環境は激変していました。
しかも、主命であるヨーロッパとの通商交渉もまとまらないなかで帰国しなければならなかった常長は、さぞ無念だったのではないでしょうか。
常長は失意のうちに1622年に没したと伝えられています。
支倉常長は何をした人?
日本の戦国時代は、世界史においては大航海時代と重なり、その交流がかつてないほど拡大・深化した画期的な時代でもあります。
日本人も日本列島から中国、東南アジアへとその行動範囲を広げ、田中勝介のようなアメリカ大陸まで進出する商人もあらわれました。
「下剋上」という言葉が示すように、身分制度が崩壊し、実力がものをいう社会が出現した戦国日本は、まさに沸騰するエネルギーの場だったといえるでしょう。
そのエネルギーの爆発が日本人の海外進出となってあらわれたのです。
しかし、常長の場合は、その戦国が終結しつつあり、国内があらたな身分制度の確立に向かう過渡期にあたっていました。
沸騰したマグマが冷え固まり、あらたな土壌を形成しつつあったのです。
時代の変わり目に生きた常長の大きな仕事である慶長遣欧使節について、少し詳しく説明していきます。
慶長遣欧使節の道のり
使節団をのせたサン・ファン・バウティスタ号は1613年9月15に出帆しました。
スペイン国王やローマ法王に手渡すための書状は、日本語とラテン語の2種類作成され、ラテン文は伊達政宗の信頼厚い宣教師のルイス・ソテロによってしたためられました。
食料や水を十分に積載した船は、まず太平洋を横断するという大仕事にとりかかります。
暴風雨や乗員の病気、食料の問題など、考えられるトラブルは枚挙に暇がありません。
しかし幸いにも、3か月ほどで使節団はメキシコに無事たどり着くことができました。
アカプルコから今度は陸路でメキシコを横断し、メキシコ湾にのぞむウルワから別の船で大西洋に進みます。
ハバナでまた別の船に乗り換えたあと、いよいよ大西洋横断です。
一行は60日ほどでスペインのサン・ルカルに到着します。
1614年10月5日のことです。
一年あまりをかけて、常長らは太平洋と大西洋の二つの海を渡ったのです。
その後、マドリードではスペイン国王フェリペ3世に謁見しました。
8か月ほど滞在したあと、一行はバルセロナから船でフランスを経てイタリア・サヴォナに上陸します。
そして、1615年10月18日についにローマへと到着しました。
ここまで来るのに2年あまりを費やしました。
アジアからヨーロッパまでの長い旅です。
現在とは比べ物にならない危険と隣り合わせの航海でした。
使節派遣の目的
一方でキリスト教を禁じ、もう一方では交易を望むというアンビバレントな幕府の姿勢には、当時の世界情勢と深い関係があります。
1588年にスペインの無敵艦隊がイギリスに敗れ、ヨーロッパの勢力図が変わろうとしていたといえ、当時、世界でもっとも勢いのあったのはスペインです。
アメリカ大陸を勢力圏におさめ、フィリピンを植民地化したスペインは、虎視眈々と中国や日本をその支配下におさめようと企んでいました。
スペインの常とう手段は、まず宣教師を送り込み、現地の民衆をキリスト教に教化し、しかる後に軍隊を送り込むというもので、日本に来る宣教師が植民地化のための尖兵であることを、豊臣秀吉や徳川家康、伊達政宗など為政者たちはよく見抜いていました。
それでも、西洋との交易は莫大な利益を生むため、キリスト教の布教も一定の範囲内で許容していたにすぎません。
慶長遣欧使節の目的も、西洋との貿易にあると断言していいでしょう。
その際、注意すべきは、この使節派遣を企てたのが伊達政宗だったということ。
政宗が絡んでいるため、スペインと組んで幕府転覆の陰謀があったのではないか、などの憶測がされますが、この使節派遣は幕府も了承しており、というより積極的に援助しており、幕府と伊達家の共同作業というほうが適切かもしれません。
日本帰国後の支倉家
常長が日本に帰国してからの詳しい記録は残っていません。
どこで亡くなったのかも確定しがたいのです。
さらに、常長帰国後、伊達政宗によるキリシタン迫害はいよいよ厳しくなります。
常長死後、支倉家を継いだ長男の常頼は、家臣にキリシタンがいたという理由で処刑されています。
次男の常道もその最期がはっきりしません。
行方不明になったとも処刑されたとも伝えられます。
なお、幸いに常頼の子である常信のときに支倉家は再興することができました。
支倉常長のエピソード・逸話
ローマ教皇パウロ5世に謁見する
常長は1615年11月3日にローマ法王パウロ5世に謁見しています。
目的はもちろん、主君・伊達政宗の書状を手渡すことですが、政宗の書状は書記官によりその場で読み上げられました。
書状には日本語とラテン語の2種類があり、読み上げられたのは、ラテン語のほうです。
その内容は、
- 政宗がメキシコとの通商を欲していること
- メキシコを領有しているスペインの許可を斡旋してほしいこと
などが述べられていました。
これに対する法王の回答は、スペイン国王に依頼することを約束する、というものです。
この謁見が成功であったかどうかというのは判断が難しいところです。
なぜなら常長一行は、ローマに到着する前にスペインで国王フェリペ3世に謁見しており、その後ローマで法王にスペインとの斡旋を頼むというのは、スペインとの交渉がうまくいかなかったことを想像させるからです。
ローマ市公民権を授与される
常長ら一行は、ローマにおいて大変な歓迎を受けました。
ローマの元老院より公民権を授与されただけではなく、貴族にも列せられています。
遠く極東の日本からやってきた異邦人に対して、きわめて丁重なもてなしというべきでしょう。
現在とは違い、遠洋航海というのはきわめて危険な旅であったことを考えれば、ローマにおける歓待も納得できるというものです。
3行でわかる支倉常長のまとめ
- 慶長遣欧使節としてヨーロッパに渡った
- ヨーロッパで洗礼を受けてクリスチャンになる
- 伊達政宗に自害を命ぜられて亡くなる
戦国時代に遠くヨーロッパまで到達した支倉常長。
めずらしい異国からの来訪者に、ヨーロッパの人々も興味津々だったに違いありません。
まさに冒険とよぶにふさわしいこの使節派遣に使われたサン・ファン・バウティスタ号は現代に再建造され、震災も乗り越え、石巻市にその雄姿をたたえています。
宮城県を訪れる機会があれば、ぜひ石巻市にも足を延ばし、サン・ファン・バウティスタ号と支倉常長に思いをはせてみてはいかがでしょう。
参考になった
サンキュー