山中鹿之助(やまなかしかのすけ)という人物に馴染みのある人は多くないかもしれません。
しかし、戦国時代で主人に対して忠誠を誓った人物としてはおそらく日本一の意志を持った武将の一人なのではないでしょうか。
鹿之助の決して諦めない信念や意志の強さは現在でも語り継がれています。
そんな鹿之助の注目のエピソードについて紹介してみたいと思います。
目次
山中鹿之助のプロフィール
- 本名:山中鹿之助幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)鹿助とも
- 享年:33歳(1545年~1578年8月20日没)
- 出雲国(現島根県東部)の尼子氏に仕えた戦国時代の武将
- 尼子十勇士の一人
山中鹿之助は何をした人?
現在、山中鹿之助という名前を聞いてどんな事をした人か分かる方は「信長の野望」のような戦略シミュレーションゲームをしている方くらいかもしれません。
しかし、第二次世界大戦前日本の教育下ではほとんどの児童・生徒が学校で習い知っていた人物です。
山中鹿之助は戦国時代に出雲国の尼子氏に仕えた武将として有名ですが、弱体化した尼子氏から離れる事なく、戦いに敗れてもなお諦めずに主人のために尽くしたという事が美談として語られている人物です。
山中鹿之助の強さと忠誠心を示すエピソードが多く後世に語られているのも、その人物の生き方が広く世間に知られていたという事を示していると思います。
では、具体的にどのようなエピソードがあるのか見ていきたいと思います。
山中鹿之助のエピソード・逸話
一騎打ちで有名になる
山中鹿之助は幼少の頃から武術に励み、剣術は相当の実力があったと言われています。
なんと、初陣(初めての戦い)は8歳の頃で、13歳の頃には敵の武将の首を取っていたとも言われています。
しかし、山中鹿之助が活躍していた頃の主人である尼子氏は弱体化の一方であり、鹿之助一人が強くても勝負としては負け戦ばかりでした。
そんな負け戦の中で味方の士気を上げるために行われたのが1対1のタイマン勝負である「一騎打ち」でした。
正々堂々と1対1の真剣勝負をする事で敵味方の全員が勝負に注目し、勝利した側の士気は一気に上昇したものと言われています。
山中鹿之助はこの一騎打ちを好み、勝利して味方の士気を高めるとともに、敵の勢力に名前をとどろかせる事になりました。
我に七難八苦を与えたまえ
「我に七難八苦を与えたまえ」は、山中鹿之助が残したとされる有名な言葉です。
山中鹿之助の活躍をよそに主人である尼子氏は敵の毛利氏に降伏してしまいます。
主人を失って浪人になってしまった鹿之助でしたが、山陰地方各地で反乱を起こすもことごとく毛利氏によって鎮圧されてしまいます。
そんな中、鹿之助は夜空に浮かぶ三日月を見ながら「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と語ったと言われています。
これは、自分にどんな困難な状況が降りかかったとしても必ず主人である尼子氏を復活させようという強い意志を表明したものです。
捕まっても厠(トイレ)から逃げ出す
武勇に優れた鹿之助でしたが、毛利氏との戦いの中でついに捕まってしまいます。
縄で縛られて敵に監視されてしまいますが、ここで処刑されてしまえばすべてが終わってしまいます。
そこで、鹿之助は持っていた刀で自分の尻を切って血を流すと、「赤痢」だからトイレに行かせてくれと敵の兵士に頼みます。
赤痢は人にうつる病気なので、見張りの兵士も困ってトイレに連れて行きます。
敵の兵士達も最初は逃げないように見張りのためにトイレに同行していましたが、夜中に何度もトイレに行きたがる姿を見てついに目を離してしまいました。
その瞬間を鹿之助は見逃さず、トイレの肥溜めに潜ると外部へと抜け出します。
織田信長に認められた武将
山陰地方から撤退すると、鹿之助は京都に上がり当時勢力を広げていた織田信長に援助を求めました。
京都で初めて織田信長にあった時によい武将であると称えられ馬や刀をもらうと、他の尼子氏の家臣らとともに織田軍の一部として関西地方を中心に戦闘に参加し活躍します。
鹿之助は一生涯を主人である尼子氏のために戦いましたが、もし主人のために戦うという夢を捨て、自身のために戦っていたら織田氏の下で認められ大名になっていたかもしれないとも言われています。
子孫は有名な商人になる
山中鹿之助の子供は武将とはならずに大阪の鴻池という場所に住み商人になったと伝えられています。
これが、江戸時代には日本最大の財閥として知られるようになります。
現在でも鴻池グループは存在しており、武士として果たせなかったご先祖様の夢を商人として大きな勢力に作り上げる事になりました。
4行でわかる山中鹿之助のまとめ
- 主人である尼子氏に一生涯をささげた。
- 弱体化しつつある尼子氏を家臣の中心となって支えた。
- 決して諦めない忠義と一騎打ちの武勇で名を知られた。
- 鹿之助は非業の死を迎えたが、子孫は江戸時代に商人として繁栄する。
人生の大部分を主人である尼子氏に捧げて戦い続け、ついに播磨国(現兵庫県)で敵の毛利氏に降伏します。
そして、山中鹿之助は毛利氏の本拠地である広島に送られる途中で油断したところを切り殺されてしまいます。
33歳でした。
鹿之助は強く有名な存在となっていたために、降伏しても何度も毛利氏にたてついた事が恐れられていたのではないでしょうか。
ただ、あきらめずに主人に一生をささげたという武勇や忠臣という部分が後世に伝えられ今日まで語り継がれているのだと思います。