孝明天皇(こうめいてんのう)といえば、明治天皇の父として有名ですが、どんなことをした人物なのでしょうか。
この記事では孝明天皇はどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。
目次
孝明天皇のプロフィール
- 孝明天皇(こうめいてんのう)
- 諱(いみな/本名):統仁(おさひと)
- 幼名:煕宮(ひろのみや)
- 父:仁孝天皇(第120代天皇)、母:正親町雅子(娘新待賢門院藤原雅子)
- 享年35(1831年6月14日~1866年12月25日)
- 第121代天皇(在位:1846年2月13日~1866年12月25日)
孝明天皇は何をした人?
激動の幕末に即位し、36歳という若さで崩御した孝明天皇の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。
特に関係がある事を並べてみると、
- 条約勅許問題
- 公武合体
などがあります。
順番に紹介していきますね。
条約勅許問題
孝明天皇は仁孝天皇(にんこうてんのう)の第4皇子として生まれました。
第4皇子として生まれたけれど3人の兄宮は亡くなっていたので、1846年仁孝天皇が崩御すると、孝明天皇は15歳で第121代天皇に即位します。
孝明天皇が即位したころ、多くの外国船が日本を訪れるようになっていました。
欧米列強諸国が侵攻してくることを恐れた孝明天皇は、幕府に海防強化と外国船の状況を報告するように命じます。
しかし、1853年アメリカのペリー提督が開国と通商を求めてやって来て、1854年日米和親条約が締結されました。
孝明天皇は外国が嫌いで開国に反対していましたが、日米和親条約は貿易を認めて完全に開国するものではなかったので許可しました。
ところが、日本と貿易をしたいアメリカが通商条約を締結することを求めてきます。
困った幕府は天皇の権威を借りて条約を締結しようと考え、条約の勅許(天皇の許可)を出させようとしましたが、開国に反対して攘夷を求める孝明天皇は勅許を出しませんでした。
攘夷とは「外国を撃退する」「外国人を追い出す」という考えで、孝明天皇は「私の代に開国するようなことになってしまったら、末代までの恥になる」と、条約締結による開国を「絶対嫌だ!」と拒否します。
しかし、大老(幕府の最高職)・井伊直弼(いいなおすけ)が孝明天皇の許可を得ずに、1858年日米修好通商条約を締結してしまいました。
公武合体
勝手に日米修好通商条約が締結されたことに孝明天皇は激怒し、「もう天皇を辞める!」と譲位することまで表明して、幕府に抗議します。
しかし、孝明天皇には「倒幕」という考えはありませんでした。
孝明天皇は「朝廷と幕府が一つになって強い日本をつくり(公武合体)、外国を追い出そう(攘夷)」と考えていたのです。
これに反対したのが、「天皇を中心にして(尊王)外国を追い出そう(攘夷)」と考える尊王攘夷派でした。
尊王攘夷派による過激な倒幕運動に反対していた孝明天皇は、公武合体の象徴として妹の和宮(かずのみや)を第14代将軍徳川家茂(いえもち)に降嫁させます。
そして、1863年5月11日に攘夷を決行することを徳川家茂に約束させましたが、1866年12月25日孝明天皇は急死しました。
享年36(満35歳没)でした。
孝明天皇のエピソード・実話
暗殺された説
孝明天皇の死因は天然痘とされていますが、あまりにも急だったことと、倒幕派にとってタイミングが良すぎたので、「誰かに暗殺されたのでは?」と言われています。
孝明天皇が亡くなった経過は、1866年12月11日から風邪をひいて発熱すると、なかなか回復しなかったので、16日からは天然痘に感染したことを疑い、24時間体制で診察が行われます。
その結果、順調に回復していましたが、25日に病状が急変して苦しみながら亡くなりました。
このように、一度は回復に向かっていたのに急死したことと、悪性の痔に悩まされていた以外は健康そのものだったことから、孝明天皇はヒ素によって毒殺されたのでは?と疑われています。
なぜ開国を嫌ったのか?
孝明天皇は「攘夷」を最後まで貫きましたが、なぜそこまで開国することを嫌ったのでしょうか?
もともと皇室は「浄」「不浄」という考えについて敏感です。
つまり、皇室特有の価値観によって開国することを嫌っていたのだと思われます。
孝明天皇は御所での西洋医学を禁止するなど、西洋文明を受け入れない姿勢を示していました。
しかし、遺品にアメリカ製の時計が残っていることから、孝明天皇は西洋文明を全て否定していたわけではなかったようです。
お気に入りは松平容保
孝明天皇は、第9代会津藩主松平容保をとても信任していました。
尊王攘夷派が暗躍したことで京都の治安は乱れてしまい、幕府は京都を警護するために京都守護職を置くことを決めて松平容保が就任します。
初めて容保と会った孝明天皇は容保の誠実さに好感を抱き、「陣羽織にでも仕立てよ」と緋の御衣を与えました。
さらに、容保が江戸に帰るよう命じられた際には宸翰(しんかん/天皇自筆の文書)を送り、「容保を江戸へ行かせることを私は少しも望んでいない」「私は会津を最も頼りにしている」と伝えます。
孝明天皇の言葉に容保は感涙し、宸翰を死ぬまで肌身離さず身につけていました。
孝明天皇のまとめ
- 15歳で第121代天皇に即位する
- 開国に反対して攘夷を求める
- 倒幕を望まず、公武合体による鎖国を目指す
- 公武合体の象徴として、妹の和宮を降嫁させる
- 倒幕派にとってタイミングが良すぎる急死に、暗殺説が囁かれる
- 皇室特有の価値観から開国することを嫌う
- 京都守護職・松平容保への信任が厚かった
終始一貫して攘夷を望みながら倒幕への意思を示さず、むしろ幕府の存在を認めていた孝明天皇は、36歳という若さで崩御しました。
突然すぎる崩御に毒殺説が囁かれるほどでしたが、公武合体派だった孝明天皇が崩御したことで、倒幕派にとって有利な状況がつくられたことは間違いなく、江戸幕府は終焉へと向かっていくことになります。