江戸時代

徳川家茂ってどんな人?死因は虫歯?上洛のエピソードなどをまとめました

徳川家茂

徳川家茂(とくがわいえもち)といえば、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)と第14代将軍の座をめぐって争ったことで有名ですが、どんなことをした人物なのでしょうか。

この記事では徳川家茂はどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。

徳川家茂のプロフィール

  • 徳川家茂(とくがわいえもち)
  • 幼名:菊千代(きくちよ)
  • 初名:慶福(よしとみ)
  • 父:徳川斉順(第11代紀州藩主)、母:実成院(徳川斉順の側室)
  • 享年21(1846年閏5月24日~1866年7月20日)
  • 江戸幕府第14代征夷大将軍(在位:1858年~1866年)

徳川家茂は何をした人?

幕末の動乱のさなかに13歳で第14代将軍となり、21歳という若さで亡くなった徳川家茂の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。

特に関係がある出来事を並べてみると、

  • 将軍継嗣問題
  • 和宮降嫁
  • 禁門の変
  • 長州征伐

などがあります。

順番に紹介していきますね。

将軍継嗣問題

徳川家茂は第11代紀州藩主徳川斉順(なりゆき)の2男として生まれましたが、1849年父の弟である第12代紀州藩主徳川斉彊(なりかつ)が死去したため、4歳で第13代紀州藩主となりました。

1853年ペリーが開国と通商を求めて浦賀に来た直後、第12代将軍徳川家慶(いえよし)が亡くなります。

家慶の跡を継いだ第13代将軍徳川家定(いえさだ)は、とても病弱で子供を儲ける見込みがなかったので、「第14代将軍は誰にする?」と後継者争いが起こりました。

候補となったのは、家茂と第9代一橋家当主である一橋慶喜です。

家茂が候補となった理由は、家茂の父である斉順が家慶の異母弟で、家茂と家定が従弟だったからです。

「家定の従弟で、将軍家に血統が最も近い家茂こそが次期将軍に相応しい!」と推薦したのが、井伊直弼(いいなおすけ)を筆頭とする譜代大名たちでした。

さらに、慶喜の父である第9代水戸藩主徳川斉昭(なりあき)が、大奥の女性たちにセクハラ発言をしたうえに、大奥の浪費にケチをつけて嫌われていたため、家茂は大奥からの支持も受けていました。

一方、慶喜を推薦したのは、徳川斉昭、第16代越前藩主松平慶永(よしなが)、第11代薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)たちです。

水戸藩・越前藩・薩摩藩はいずれも雄藩(勢力の強い藩)で、「聡明な慶喜を将軍にして、雄藩と幕府が協力して国難を乗り越えよう!」と考えていました。

家茂を推薦した「南紀派」と慶喜を推薦した「一橋派」の争いは、井伊直弼が大老(江戸幕府の最高職)に就任したことで南紀派が勝利します。

和宮降嫁

1858年13歳で家茂は第14代将軍となりましたが、争いに負けた一橋派が井伊直弼の政策をガンガン批判したため、一橋派は安政の大獄で弾圧されました。

その結果、1860年桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されてしまい、独断で政治を行ったことで暗殺された井伊直弼の二の舞にならないために、幕府は公武合体を目指すことにします。

公武合体とは「朝廷(公)と幕府(武)が一つになって強い日本を作ろう!」という考えで、その象徴として孝明天皇の妹である和宮(かずのみや)を家茂に嫁がせることが提案されました。

外国を嫌う孝明天皇は攘夷を求めており、「幕府と朝廷が一つになって強い日本を作り(公武合体)、外国を追い出そう(攘夷)!」を条件に、家茂と和宮の結婚を認めます。

1862年和宮と結婚した家茂は、1863年将軍としては約230年ぶりに上洛しました。

そして、家茂は1863年5月11日に攘夷を決行することを孝明天皇に約束します。

長州征伐

家茂が推進する公武合体に反対したのが、「天皇を中心にして(尊王)外国を追い出そう(攘夷)!」と考える尊王攘夷派でした。

公武合体に反対して京都で暗躍する尊王攘夷派を追い出すために、1863年八月十八日の政変が実行され、長州藩を中心とする尊王攘夷派は京都から追放されました。

さらに、1864年池田屋事件で京都に残っていた尊王攘夷派を殺傷・捕縛するなど、幕府は長州藩に追い討ちをかけます。

これに激怒した長州藩の急進派が1864年京都に攻め上り、薩摩藩・会津藩・桑名藩と戦いましたが敗れました。

これを禁門の変(蛤御門の変)といいます。

禁門の変に対する長州藩の罪を問うため、朝廷が幕府に長州征討の勅書を出したことで、1864年第一次長州征伐が行われました。

長州藩が謝罪して恭順の意を示したので幕府は戦わずに撤兵しましたが、だんだん強硬派が幕府に対抗する態度をとるようになったので、1865年第二次長州征伐が行われることになります。

1866年第二次長州征伐の指揮をとるために家茂は大軍を率いて上洛しましたが、大坂城で病に倒れ、21歳という若さで亡くなりました。

徳川家茂のエピソード・逸話

死因は虫歯?甘いお菓子を食べ過ぎて……

羊羹・氷砂糖・金平糖・カステラなど、甘いお菓子が大好きだった家茂の歯は虫歯だらけでした。

家茂の遺骨を調査した結果、31本の歯のうち30本が虫歯だったことが判明……。

さらに、甘いモノが大好きだったことで糖質の代謝に用いられるチアミン(ビタミンB1)が欠乏してしまい、家茂は脚気衝心を患っていました。

激務によるストレス発散のためか、甘いお菓子を食べ過ぎたことで虫歯だらけになり、その虫歯によって体力を奪われたことと、脚気衝心が家茂の死因になったと考えられています。

まさむね
まさむね
お菓子を食べたら歯磨きを!

誰もが褒める人柄と配慮

1863年上洛した家茂は、軍艦「順動丸」に乗って大坂視察を行いました。

その際、家茂は同行していた勝海舟(かつかいしゅう)から軍艦の機能に関する説明を受け、勝から「軍艦を動かせる人材を育成したい!」と直訴されます。

軍艦の重要性を理解した家茂は、すぐに神戸海軍操練所を設置することを命じました。

さらに2度目の上洛の際に、家茂は勝の進言を受け容れて海路を使うことを決めましたが、海が荒れたので家臣から陸路への変更を勧められます。

しかし、家茂は「海上のことは軍艦奉行に任せよ」と言い、勝に対する変わらない信頼を表明しました。

家茂からの厚い信任に感激した勝は生涯の忠誠を誓い、家茂を「名君」と称賛します。

また、家茂は書の達人として有名な戸川安清(とがわやすずみ)に習字を習っていました。

ある時、書道を教えていた安清は家茂に頭から水をかけられてしまいます。

そして、謝ることなく「あとは明日にしよう」と言って立ち去った家茂の行動を家臣たちが嘆いていると、安清が泣きながら「老齢なので、実は失禁してしまっていた」と言いました。

安清の粗相に気づいた家茂は、わざと水をかけて粗相をしたことがバレないようにして、安清が罰せられることを防いだのです。

機転を利かせた家茂の細やかな配慮に感激した安清は、涙を流して深く感謝しました。

短すぎたけど仲良し夫婦

家茂と和宮は政略結婚でしたが、夫婦仲はとても良好でした。

婚約者がいながら家茂と結婚させられた和宮は、今までとは全く違う武家の生活と大奥のしきたりに戸惑って馴染めず、とても苦労していました。

そんな和宮を家茂は心から愛しており、和宮以外の女性を傍に置きませんでした。

第二次長州征伐のために上洛する際、家茂が「土産に何が欲しい?」と尋ねると、和宮は「西陣織が欲しい」と答えました。

しかし、家茂は大坂城で亡くなってしまったので、約束した西陣織は家茂の形見として和宮の元に届けられることになりました。

まさむね
まさむね
この西陣織は後に袈裟として仕立てられ「空蝉の袈裟」として現存しており、最後まで和宮との約束を守った家茂の優しさと和宮への深い愛を物語っています。

徳川家茂のまとめ

まとめ
  • 4歳で第13代紀州藩主になる
  • 14代将軍の座をめぐって一橋慶喜と争い、13歳で第14代征夷大将軍になる
  • 公武合体の象徴として、孝明天皇の妹である和宮と結婚する
  • 第二次長州征伐の指揮をとるために上洛したが、大坂城で病死する
  • 甘いお菓子が大好きだったことから歯は虫歯だらけで、虫歯が死因の一つになる
  • 優れた決断力と家臣の意見を聞き入れる度量があり、勝海舟から「名君」と称賛される
  • 先生の粗相に際して、細やかな配慮をする
  • 結婚生活は短かったけど、夫婦仲はとても良好だった

21歳という若さで亡くなった家茂の存在は、将軍の座を争った徳川慶喜の影に隠れて印象が薄く“暗愚”なイメージを持たれていますが、家茂には能力も人望もありました。

若いながらも家臣たちに受け入れられていた家茂が長生きしていたら、幕末の動乱の行方も変わっていたかもしれません。

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