江戸時代

徳川斉昭って何した人?わかりやすく簡単にまとめてみました

徳川斉昭

徳川斉昭(とくがわなりあき)といえば、江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の父として有名ですが、どんなことをした人物なのでしょうか。

井伊直弼(なおすけ)のライバルで、遠慮なく幕府にもの申した“天下のご意見番”というイメージがありますが、実際はどうだったのでしょう。

今回は徳川斉昭はどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。

徳川斉昭のプロフィール

  • 徳川斉昭(とくがわなりあき)
  • 幼名:虎三郎・敬三郎
  • 初名:紀教(としのり)
  • 父:徳川治紀(水戸藩第7代藩主)、母:瑛想院(外山氏/日野家一門の公家)
  • 享年61(1800年3月11日~1860年8月15日)

徳川斉昭は何をした人?

水戸徳川家の当主として、混乱が続く幕末を生きた徳川斉昭ですが、そもそも何をした人なのでしょうか?

特に関係がある出来事を並べてみると、

  • 家督相続
  • 藩政改革
  • ペリー来航
  • 安政の大獄

などがあります。

詳しく紹介しますね。

家督相続

徳川斉昭は、第7代水戸藩主徳川治紀(はるとし)の3男として生まれました。

幼い頃から水戸学を学び、聡明なことで知られた斉昭は、3男として生まれたのに他家へ養子に出されることもなく、30歳まで部屋住み扱いをされました。

斉昭が優秀だったので、後継ぎである長兄・徳川斉脩(なりのぶ)に何かあったときのために、実家に残されていたのです。

1829年、第8代藩主斉脩が亡くなりました。

斉脩には子供がいなかったので、「次の藩主は誰に?」と家督争いがおこります。

候補となったのは斉昭のほかに、斉脩の正室・峰姫の弟である恒之丞でした。

峰姫は第11代将軍徳川家斉(いえなり)の8女で、恒之丞は21男です。

家督をめぐるゴタゴタは、お家騒動ギリギリの事態にまでなりましたが、「斉昭を養子とするように」と書かれた斉脩の遺書が見つかったことで、斉昭が第9代藩主となりました。

藩政改革

藩主になった斉昭は、弘道館という藩校(藩士の子弟を教育する学校)を設立し、優秀な人材を育てて、下層藩士たちを登用していきます。

水戸学のほかに、自然科学・武道・医学などが教えられた弘道館には、「学問は一生行うものである」という考えから卒業という制度がありませんでした。

まさむね
まさむね
「生涯学習」という概念が取り入れられていたことが、弘道館の特徴といえます。

こうして、斉昭は有能な人材とともに、藩政改革を実施しました。

領地の検分をやり直して財政を改善させたほか、追鳥狩(おいとりがり)と称する大規模な軍事訓練を実施し、西洋の近代兵器の製造を推進します。

斉昭は開国には反対だったけど、「強くなければ外国に侵略されてしまう!」という危機感があったので、西洋の文化や技術は積極的に取り入れました。

さらに、蝦夷地の開拓や大型船の建造を幕府に提言するなど、斉昭の影響力は幕府だけではなく、全国に及びます。

宗教面では、仏教を弾圧して神道を奨励しました。

村ごとに神社を設置することを義務付けたのに対し、寺院の釣鐘や仏像は没収して大砲の材料にしてしまいます。

このような過激すぎる政策をとってしまったことで、斉昭は幕府から隠居と謹慎を命じられてしまいました。

1844年、斉昭は家督を長男・慶篤(よしあつ)に譲りましたが、復帰を願う運動が行われたことで、謹慎が解除され、1849年には藩政に関与することが許されます。

ペリー来航

斉昭が藩政に復帰した後、日本を揺るがす大事件が起きました。

1853年、ペリーが米大統領フィルモアの国書を持って、浦賀にやって来たのです。

斉昭は老中(幕府の最高責任者)阿部正弘の要請で海防参与として幕政に参加しましたが、強硬な攘夷論(実力行使で外国人を排撃しようという考え)を主張します。

「開国反対!」「開国の交渉を引き延ばして、その間に軍事力を強めるべきだ!」と訴えます。

しかし、1854年、日米和親条約が締結されてしまいました。

和親条約の意味は「平和で親しい」で、和親条約だけでは貿易ができません。

そのため、今度は通商条約を結ぶことを求められました。

斉昭は開国に猛反対し、開国を推進する井伊直弼と対立します。

困った老中堀田正睦(まさよし)は、孝明天皇に条約の勅許(天皇の許可)を出させようとしますが、開国に反対だった孝明天皇は勅許を出さなかったので、条約を締結できませんでした。

ところが、大老(幕府の最高職)に就任した井伊直弼が、天皇の許可を得ないまま、1858年、日米修好通商条約を締結してしまったのです。

安政の大獄

斉昭は、跡継ぎがいなかった第13代将軍徳川家定の後継者問題でも井伊直弼と対立して、敗れていました。

怒りと悔しさが限界に到達した斉昭は、無断で江戸城を訪れ、直弼を厳しく問いつめます。

直弼にとって斉昭は、自分を批判するうっとうしい存在でした。

そこで安政の大獄で、直弼に反対する斉昭たちを弾圧します。

井伊直弼についてはこちらの記事で詳しくまとめています。

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斉昭は謹慎を命じられました。

さらに、水戸での永蟄居(一生外出禁止)が命じられたことで、政治生命を絶たれてしまいます。

そして、蟄居処分が解けないまま、1860年8月15日、水戸で亡くなりました。

死因は心筋梗塞とされています。

徳川斉昭のエピソード・逸話

女好きだがセクハラで嫌われる

斉昭の子供の数はなんと37人!

多くの子供を産ませた斉昭は、とにかく女が大好きでした。

死ぬまで異性と関係を持たないと誓っていた兄嫁の女中と密会を重ねて妊娠させたり、長男の嫁にまで手を出して自殺に追い込んだと噂されるほど、精力的に励みます。

しかし、セクハラ的な発言をし続けたことで、大奥の女性たちからは嫌われ、慶喜の将軍就任を妨げることになってしまいました。

まさむね
まさむね
幕末の英雄は色を好み過ぎました…。

倹約家で女にブチギレる

水戸藩は、毎年幕府から1万両の支援金をもらっていました。

しかし斉昭は、「祖先が拝領した35万石で暮らさなければならない」と、支援金の1万両を幕府に返上して、倹約につとめます。

食事を質素なものに変えるなど、自ら率先して取り組んだ斉昭は、倹約のためなら大好きな女も怒りました。

斉昭が寵愛していた側室の地位を引き上げたとき、喜んだ側室は「お金を下さい」と言います。

斉昭が「なぜ?」と理由を尋ねると、「地位に似合った衣装を整えるためのお金が欲しい」と答えました。

「今まで通りの衣装で良い」と斉昭が言っても側室は「それでは体面が保てません」とおねだりします。

これに斉昭はブチ切れ、その側室が目通りを許されることはなかったそうです。

牛肉の恨み!?

斉昭は大の肉好きで、特に牛肉を好んで食べていました。

江戸時代は表向き、肉食が禁止されていましたが、彦根藩だけは牛肉の生産が許されていて、牛肉の味噌漬けを将軍家や諸大名にも贈る習慣がありました。

ところが、彦根藩主となった井伊直弼は、熱心な仏教徒だったので、藩内での牛の殺傷を禁止してしまいます。

当然、牛肉の味噌漬けを贈る習慣もやめました。

彦根藩から牛肉が届けられることを楽しみにしていた斉昭は、直弼に「牛肉を贈って欲しい」という手紙まで送って頼みましたが、直弼は断り続けます。

まさむね
まさむね
この牛肉をめぐる恨みが、桜田門外の変へとつながり、直弼が暗殺されてしまったのでは?と思えるほど、斉昭の牛肉への執着は凄まじいものでした。

食べ物の恨みは本当に恐ろしいですね…。

徳川斉昭のまとめ

まとめ
  • 3男として生まれたが、優秀だったため、水戸藩第9代藩主になる
  • 多くの有能な人材を育てて、藩政改革に取り組む
  • 開国に反対して、井伊直弼と対立する
  • 安政の大獄で弾圧される
  • 子供が多くて、女好き
  • 質素倹約には自ら励む
  • 牛肉への執着が凄かった

荒々しく激しい気性から、「烈公」ともよばれた徳川斉昭は、カリスマ性と行動力があり過ぎたことで、敵をつくり、政治生命を絶たれてしまいました。

しかし、藩政改革に成功した実績と、攘夷論を主張しながら、西洋文明の優れたものを取り入れる柔軟さを持っていたことなどから、斉昭は名君と評価されるに相応しい人物だったといえます。

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