戦国時代には何度も大河ドラマにされるようなメジャー級の有名武将が何人もいます。
そんな有名武将たちが敵味方にかかわらず一目置いていた武将がいました。
その名も立花宗茂(たちばなむねしげ)。
東の本多忠勝と並び称された「西国無双」。
人によっては、立花宗茂こそが戦国最強武将であると言う人もいるほどです。
この記事では、そんな立花宗茂がどんな人物だったのか、わかりやすく簡単にまとめてみました
目次
立花宗茂のプロフィール
まず立花宗茂のプロフィールを紹介する前に注釈を。
これから登場する立花宗茂は何度も名前が変わっていてややこしいので立花宗茂で統一します。
また、宗茂の義父となる立花道雪は生前は戸次鑑連と名乗っていましたが、現在一般的に知られているのは立花道雪のほうなので、これも立花道雪で統一します。
このへんの名前の転変を説明すると、文章が倍以上になってしまいますのでご了承ください。
立花宗茂の生年は定かではありませんが、1567年であろうと推定されています。
それが正しければ、同じ年に伊達政宗も生まれています。
父親は、北九州を全ていたキリシタン大名としても知られる大友宗麟の家臣・高橋紹運。
長男なのに養子に出される
長子だった宗茂は、高橋家の跡継ぎとして育てられました。
ところが、宗茂14歳のときに、同じ大友宗麟の家臣である立花道雪から養子にほしいと請われます。
居城の立花山城は娘の誾千代に継がせていたものの、道雪には男子の跡継ぎがいなかったのです。
しかし、他家の跡継ぎと決まっている子供を養子に求めるのは異例のこと。
それだけ宗茂が優秀であり、道雪が跡継ぎとして見込んだためだと言われています。
もちろん高橋紹運は断りました。
しかし、道雪は再三頼み込み、根負けした形で紹運は次男を跡継ぎにし、宗茂を養子に出しました。
道雪は宗茂を誾千代の婿養子という形で迎え入れました。
初陣で手柄を立てる
宗茂が婿養子となったその年、実父と義父に従って初陣に出ます。
宗茂には150人の兵が与えられ、敵を奇襲。
敵将・堀江備前を矢で射てから組討で組み伏せ首級をあげるという手柄を上げています。
当時の九州は大友氏の他に、秋月氏、龍造寺氏、島津氏などが群雄割拠する状態で、宗茂はそうした周辺国との戦いに毎回参加。
包囲された道雪を救出するなどの活躍を見せます。
関ケ原の戦いなどに参加
豊臣秀吉が本州を平定した後には、九州平定の主力となって戦い大功を挙げ、秀吉から直臣、つまり大友氏の家臣から秀吉直下の家臣に格上げされる形で今の福岡県筑後地方あたりを所領として与えられました。
さらに、秀吉が明国への侵攻を図ったために朝鮮半島で起こった文禄の役・慶長の役双方に参加。
関ヶ原の戦いには西軍として参加。
しかし西軍が破れたためにお取り潰しとなり、浪人となります。
浪人となり、京都を経て江戸へ入った宗茂は、本多忠勝の推挙によって徳川秀忠のアドバイザー的な形で取り立てられ大阪の陣に参加。
陸奥国に領地を与えられた後、徳川によって奪われていた筑後の領地を再び与えられます。
島原の乱では70歳の老体にもかかわらず「知恵伊豆」松平伊豆守をサポートしています。
そして1642年、江戸藩邸にて生涯を終えました。
享年76歳でした。
立花宗茂は何した人?
立花宗茂は典型的な戦国武将で、戦以外の業績はほとんどないですね。
立花家を回復
立花氏は大友氏の分家として大友氏に仕える家系でしたが、大友宗麟のときに、立花氏7代目の立花鑑載(あきとし)が謀反を起こします。
それを鎮圧したのが戸次鑑連、つまり立花道雪でした。
大友宗麟は立花氏の名跡と居城の立花山城を戸次鑑連に継がせたものの、立花氏を名乗ることは許しませんでした。
しかし宗茂15歳のとき、反大友連合軍の一角・原田親秀の城を落とすなどの功をあげ、立花姓を名乗ることを許されたことで、正式に立花家が回復されることになりました。
西国無双
立花宗茂はゲリラ戦を得意としました。
敵側面からの奇襲、城の防衛時に敵本陣に夜襲に打って出るといった遊撃戦により名を挙げています。
文禄の役では火計や伏兵により敵軍を削り、慶長の役では夜襲によって包囲された加藤清正を救出しています。
宗茂は晩年、「自分は2000人ほどの兵を手足のように操れると感じた。用兵は兵数の過多ではなく自分に合った兵を動かすほうが良い結果となる。」というようなことを語っています。
朝鮮半島での戦いに先立つ小田原攻め、つまり秀吉による大規模な北条征伐では、秀吉により東の本多忠勝と西の立花宗茂が東西の無双であると称されています。
花宗川を整備
武勇ばかりが語られる宗茂の歴史の中で伝えられる内政での業績が花宗川の整備です。
宗茂20歳のころ、領地の筑後平野は農業用水が不足しており、その広大な土地を農業生産に活かしきれていませんでした。
そこで宗茂は、その近隣を流れる矢部川を分流させる灌漑工事に着手します。
しかし、その工事が終わらないうちに、宗茂は浪人となって国を追われます。
ただ、その領地を受け継いだ田中吉政が灌漑事業も引き継ぎ、完成させました。
そのおかげで筑後平野は生産力が増し、米と麦の二毛作ができるまでになりました。
立花宗茂のエピソード・逸話
立花宗茂は、西国無双の名に恥じない猛将でありながら、人格は穏やかでだれからも褒められる高潔な人物だったといいます。
しかし、そんな人物でも夫婦関係はあまりうまくいなかなったようで……。
父の仇といえども弱った相手は討たない
関ヶ原の戦いで西軍=豊臣方についた立花宗茂。
同じ西軍には、九州では激しく対立していた島津義弘もいました。
この島津義弘は、宗茂が19歳のおりに実父の高橋紹運を討ち取った仇でした。
島津義弘も関ヶ原終盤であえて敵中突破を選んだ猛将です。
関ヶ原の戦いの後、宗茂は義弘の軍勢とともに九州に戻ることになります。
敵中突破により兵力が激減していた島津軍を見て、宗茂の家臣は仇を討ってはどうかと進言。
しかし宗茂は、弱った相手を討つのは武士の誉れではないとして、逆に島津軍の護衛まで買って出ました。
夫婦仲は最悪
非常に温厚な人格者と知られる宗茂。
ところが、妻の誾千代とは反りが合わなかったようです。
そもそも戦国武将で好きな女性と結婚した人は滅多にいません。
それでも、関係はどうあれ跡継ぎぐらいは残しています。
ところがこの2人、立花道雪がこの世を去ったと同時に別居してしまうほど最悪の仲でした。
道雪が宗茂を養子にしたのは、家督を継がせるとともに後嗣をつくらせるためでもあったのでしょう。
それなのに2人の間には子供ができませんでした。
立花家の跡継ぎには、宗茂の甥が養子として迎えられました。
最悪だったと伝えられる夫婦仲でしたが、誾千代がわずか34歳で死去すると、宗茂は誾千代を丁重に弔っています。
4行でわかる立花宗茂のまとめ
- 長男だったのに他家の養子に
- 14歳の初陣で手柄を立てる
- 少ない兵でのゲリラ戦を得意として数々の武功をあげる
- 灌漑設備の整備など内政にも力を入れる
武勇に優れ、人格者でもあり、さらには茶の湯や連歌にも通じたという文武両道の理想的な武将。
立花宗茂であれば天下を狙えたという人もいるし、関ヶ原の戦いの結果も立花宗茂の配置次第では変わっていたかもしれないとも言われています。
しかし、本人は大軍より寡兵を用いるほうが得意だと自覚しており、また、どうやら上杉謙信を尊敬していたらしく、自らの武勇で天下を覆すなどという気持ちはなかったようです。
義を重んじ利を追わなかった稀有な戦国武将でした。