戦国時代

本多忠勝ってどんな人?わかりやすく簡単にまとめてみました

本多忠勝

徳川四天王のひとりである本多忠勝といえば、勇猛無比、名槍・蜻蛉切の持ち主、生涯57回の戦闘で傷を負わなかった男。

忠勝についてのイメージは、まさにザ・戦国武将といったものです。

そんな忠勝の人となりをクローズアップしてみたいと思います。

まずはその生涯から見ていきましょう。

戦国時代を駆け抜けた男、本多忠勝はどんな人生を送ったのでしょうか。

本多忠勝のプロフィール

  • 生誕 1548年3月17日
  • 死没 1610年12月3日
  • 享年 63歳

本多忠勝は1548年に本多平八郎忠高の長男として、現在の岡崎市西蔵前町で生まれました。

本多家は松平家の古参の臣ですが、父・忠高は忠勝がわずか2歳のときに戦死してしまいます。

忠勝は叔父・忠真のもとで成長しました。

初陣は13歳、現代ではちょっと考えられない年齢です。

まさむね
まさむね
これが戦国時代のシビアなところです。

忠勝が初めて首をとったのが14歳といいますから、さらに驚きです。

現代では中学生にすぎない子どもが、殺し合いをしなければならない、それが戦国の掟です。

しかし、忠勝は戦争においてその本領を発揮するタイプの人間でした。

彼の能力を存分に生かせる場所は戦場なのです。

忠勝は典型的な戦闘的人間でした。

今川義元が桶狭間で討たれ、徳川家康織田信長と同盟を結んで勢力拡大につとめると、忠勝の活躍の場はいよいよ広がります。

戦場で縦横無尽に暴れまわる武人として、その名声を高めていきます。

「鹿角脇立兜」と「蜻蛉切」は彼のトレードマークとして知られていくのです。

  • 1570年の姉川の合戦
  • 1572年の一言坂の戦い、三方ヶ原の戦い
  • 1575年の長篠の戦い
  • 1584年の小牧・長久手の戦い

など、徳川家の重要な戦いには常に忠勝の姿がありました。

「家康にすぎたるものがふたつあり。唐の頭と本多平八」

武田家の小杉左近によるこの狂歌は、のちにさまざまなパロディを生むほど有名になったものです。

豊臣秀吉にも「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と並び称されるほど、有名な存在となっていきます。

関ケ原の合戦以後は、伊勢桑名(三重県桑名市)10万石を領する大名となり、桑名市発展の礎を築いた名君として記憶されています。

1610年に本多忠勝は桑名で死去しました。

享年63歳でした。

本多忠勝は何をした人?

本多忠勝がその勇猛ぶりをいかんなく発揮した有名な戦い2つをご紹介しましょう。

まずは一言坂の戦いからです。

一言坂の戦い

これは1572年の戦いです。

舞台は遠江(静岡県西部)二俣城、プレイヤーは武田信玄徳川家康です。

二俣城は戦略上の要地であり、ここを抑えたものは遠江を勢力圏にできる重要地点です。

なんとしても二俣城を死守したい家康でしたが、数で勝る武田軍は、二俣城への軍勢の展開の速さでも徳川軍を圧倒していました。

勝負は始めからついていたと言っていいでしょう。

本多忠勝はこの戦いにおいて殿をつとめ、徳川本隊を天竜川を越えて浜松に退却させるため、武田軍と死闘を繰り広げます。

本多軍と武田軍が激突したのが一言坂というところで、忠勝の獅子奮迅の働きによって家康は天竜川を越えて退却することに成功しました。

まさむね
まさむね
このとき武田軍で忠勝と戦ったのが小杉左近であり、例の狂歌、「家康に過ぎたるものがふたつあり。唐の頭と本多平八」というのは、この時の戦いの感慨を歌にしたものだと思われます。

小牧・長久手の戦い

織田信長が本能寺に倒れた後、後継者として急速に台頭する羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康は1584年についに刃を交えることとなりました。

いわゆる小牧・長久手の戦いですが、この戦争は半年間にわたる長期戦となり、関ケ原のような両軍の会戦で勝敗を決する類のものではありませんでした。

本多忠勝が一役買ったのは長久手の戦いにおいてです。

両軍あわせて2万ほどの軍勢が激突し、秀吉側の森長可が戦死した戦いですが、実は忠勝はこの激戦には参加していません。

忠勝の出番は、秀吉の本陣約2万を相手に、500人ほどの手勢で悠々と挑発した一件です。

秀吉がその気になれば本多忠勝隊を血祭にあげることもできたでしょうが、秀吉は常識的な行動を好まない男です。

悠然と愛馬に水を飲ませる忠勝を見逃しました。

忠勝の大胆不敵な行動に、敵である秀吉も感服したのです。

本多忠勝のエピソード・逸話

蜻蛉切

忠勝といえば蜻蛉切(とんぼきり)、といってもいいでしょう。

ひらりと飛ぶ蜻蛉が刃先で真っ二つに切れたという逸話をもつこの名槍は、忠勝を語るときになくてはならないものです。

当時の槍は2丈(約6m)が標準の長さといいますから、接近戦用ではなく、突撃を防ぐためのものでしょう。

蜻蛉切は柄の長さ1丈3尺(約4m)といいますから、相当短いです。

まさむね
まさむね
使いやすさを考慮した結果でしょうか。

桑名藩主としての実績

忠勝は藩主として有能な一面もあったようです。

積極的な城下町の区画整理をおこない、現在の桑名市発展の基礎を築いた名君とされています。

戦闘のプロフェッショナルである忠勝が優れた行政能力をもっていたのは意外ですが、よくよく考えれば当然なのです。

戦場で何よりも必要なのは合理的精神です。

生き残るためには、勇猛さだけでは足りません。

合理的精神が絶対に必要です。

常に状況に応じた最適解を見つけ出さなければなりません。

生涯57回の戦場で傷一つ負わなかったという忠勝は、行政の手腕でも合理性を発揮したといえます。

3行でわかる本多忠勝のまとめ

まとめ
  • 根っからの戦争好き。戦いこそが存在理由。
  • 腕っぷしも度胸も一人前以上。
  • 統治者として有能な一面もあった。

本多忠勝を一言でいうとすれば、「迷いのない人」といえるのではないでしょうか。

彼からは葛藤というものが感じられません。

行動原理はあくまでシンプルで、かつ力強いものです。

「主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という」

忠勝の言葉として伝えられているものです。

まさむね
まさむね
忠勝自身の言葉かどうかは不明ですが、彼にふさわしい言葉ではないでしょうか。

本質的に忠勝には葛藤がないため、ドラマがありません。

ドラマがないため一本調子になりがちなのです。

しかし、この点は彼の欠点とばかりはいえません。

戦国時代とは、そんな感傷を許さない世界だったかもしれないからです。

関ケ原の戦いで忠勝軍が首を90個とった、と事も無げに書かれていますが、首をとるということを具体的に想像してみれば、生首を90もぶら下げた軍勢の行進というのは、不気味でおぞましいものです。

忠勝が生きたのはそんな時代だった、ということを少しだけ想像してみるのも、大切なことなのではないでしょうか。

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