戦国時代

森長可はどんな人?バーサーカーと称された槍の名手は初陣からすごかった!

森長可

バーサーカー。
北欧神話に登場する無敵の戦士のことで、日本では「狂戦士」とも訳されています。

RPGやファンタジーに登場するこのバーサーカーが、日本に実在したと言ったら信じますか?

かつて日本に本当に存在したリアルバーサーカー。
それが、森長可(もり ながよし)です。

森長可のプロフィール

森長可が生まれたのは1558年。

この年は、後の豊臣秀吉、木下藤吉郎が織田信長家来になった年だといいます。

父親は、森可成(よしなり)。

元は美濃の守護大名・土岐頼芸の家臣で、土岐頼芸が斎藤道三に追放された後は織田信長の家臣となっています。

可成は槍の名人として知られていて、信長が斎藤龍興を滅ぼした美濃攻めで武功をあげ、美濃烏峰城を与えられています。

美濃烏峰城は、後に金山城(兼山城)と改称されました。

長可13歳のとき、父可成と、兄可隆が戦死したため、次男の長可が森家の当主となって金山城を受け継ぎます。

初陣は15歳のとき。

信長の長男の織田信忠の配下として長島一向一揆征伐に参加。

初陣にして27人もの首級をあげます。

長篠の戦いの後、信長は武田勝頼の掃討に乗り出します。

その先鋒として選ばれたのが信忠の軍団でした。

長可もこの戦に参加して、高遠城攻めにおいて手柄を立て、もとは武田の領地だった信濃川中島と、川中島の合戦のおり信玄が前線基地とした海津城を与えられました。

まさむね
まさむね
ちなみに、長可の弟は信長の側小姓として知られる森蘭丸。

長可に海津城が与えられたと同時に、蘭丸にはそれまで長可の居城だった金山城が与えられています。

本能寺の変で信長が討たれた後は、羽柴秀吉の麾下に入りました。

そして、安土城を秀吉に追い出された信長の次男・織田信雄が徳川家康とともに秀吉に挑んだ小牧長久手の戦いにおいて、徳川軍の奇襲を受け、人生で初めての敗北を喫します。

失地回復しようとした長可は、覚悟の白装束で家康の岡崎城攻めの総大将として反抗に転じたものの、井伊直政の部隊の狙撃により戦死。

享年わずか27歳でした。

長可の首は、徳川軍になりすました長可の小姓が持ち帰ったといいます。

森長可は何した人?

森長可は「鬼武蔵」と呼ばれた織田軍団の中でも一二を争う猛将です。

27歳という短い生涯のうちに、輝かしい軍功をあげつづけました。

父ゆずりの槍の名手

長可の父・森可成は槍の名人として知られていました。

長可は、戦に生きた父とはあまり時を共にすることはなかったようなので、直接槍の指導を受けていたわけでもないようです。

しかし、天性の才覚があったのか、初陣から槍で武功を上げ続けました。

初陣の長島一向一揆征伐では、船で一人一向衆の軍団に乗り込んで、27人を討ち取っています。

長可はどうやら軍団を指揮するのが性に合わなかった様子。

戦では常に先陣をきって敵陣に突進していくという戦法をとっていました。

まるで人間に骨がないかのように突き抜けていくその槍は「人間無骨」という銘だったといいます。

内政で領地を富ませる

森長可は、とにかく戦いにあけくれた猪武者のようなイメージのほうが強いです。

しかし、実は内政にも力を入れていました。

美濃の金山城の城主だったころは、城下町の整備に着手。

美濃、つまり現在の岐阜県可児市のあたりは内陸であり、魚介類や塩が入手しにくい土地です。

そこで長可は、塩、魚介類を専売制とし、城下の商人に専売の特権を与えました。

この専売制度は明治時代にまで受け継がれます。

また、城下に木曽川が流れる利を活かし、兼山湊を整備。

木材の輸出、塩などの輸入などの船運の基地として栄えました。

こうした商業振興により、金山城下は豊かになりました。

まさむね
まさむね
あるいは優秀な家老の施策だったかもしれませんが、長可がただの猪武者ではなかったという一面がうかがわれます。

森長可のエピソード・逸話

森長可のエピソードとして伝わっているものは、とにかく残虐なものが多いです。

日本の武将の中にも時折残虐な人物が出現します。

しかし、長可の残虐さは、どちらかというと中国の武将に通じるレベルのものです。

バーサーカー長可の無差別殺戮

スマホゲーム『Fate/Grand Order』などにバーサーカーとして登場する森長可。

史実でも大量の人を殺しています。

例えば武田勝頼を滅ぼすための甲斐征伐に参加した時は、信長の想定外の勢いで武田領を攻め進み、高遠城へ侵攻。

本隊の信忠の到着まで待てという信長の命令を無視して城攻めを始めます。

高遠城三の丸の屋根に登った長可とその配下は、城の瓦を剥がして城内にいた人を、女子供誰彼かまわず鉄砲で射撃。

さらには本丸に攻め寄せ、人間無骨で死体の山を築きます。

遅れて到着した信忠は、長可が血まみれになっているのを見て手傷を負ったのかと訪ねますが、その血は全て敵の返り血でした。

海津城領有時には、残っていた旧武田軍との抗争が勃発。

しかし、敵8000に対して手勢わずか3000で挑み、わずか2日で鎮圧し、地元領主たちを服属させ、反抗しないように妻子を人質にとって城に住まわせました。

しかしほどなく本能寺の変が起こり、それを知った地元領主たちは反旗を翻して人質の返還を求めます。

信長の仇討ちを理由に海津城から撤退した長可は、要求を無視して人質を引き連れていきました。

そして信濃から出た時に、人質を全て殺してしまいます。

遺言状に秀吉が困らされる

小牧・長久手の戦いで徳川に滅ぼされた森長可。

彼は戦に際して遺言を残していました。

まず遺言は、自分が集めていた茶器などを秀吉に献上しなさいという指示から始まります。

そして

「自分が死んだら母と弟の仙千代は秀吉様に世話してもらいなさい」

「(仙千代は)秀吉様に、跡目を次ぐのは嫌だ、金山城は要衝だから、もっと確かな人を置いてくれるように言いなさい」

「十万に一つ、百万に一つ負けてしまったら、おまえたちは城に火をかけて死ね」

さてこの後、長可は実際負けて討ち死にしてしまいます。

この遺言状をのこされた家族、家臣も困ったでしょう。

しかし遺言は遺言ですから、こんな遺言状が残っていましたと秀吉に報告します。

さて困ったのは秀吉。

母や弟を引き取ってくれとか、領地は誰か他の人に引き取らせてくださいとか言われても、いくら家臣とはいえ、というか、ちゃんと跡継ぎがある家臣の領地だからこそ、勝手に他人に与えるわけにもいきません。

結局秀吉は遺言は無視して領地を長可の弟の仙千代に継がせました。

4行でわかる森長可のまとめ

まとめ
  • 初陣で27人を討ち取る
  • 超人的な武力で数々の武功をあげる
  • 非戦闘員まで大量に殺戮
  • 意外と内政能力が高い

信長は、こんな長可が命令違反を犯したり、殺す必要がない人を殺しても文書で注意する程度で許していたといいます。

それだけかわいがっていたのだというのが一般的な解釈です。

しかし、秀吉は長可が死んだのを聞いて胸をなでおろしたといいます。

信長もまた、凶暴な長可がいつ自分に牙をむくか気が気ではなく、つい甘くしてしまっていたのかもしれません。

しかし、領地の経済を発展させたことから見て、平時に生まれていたら意外と名君になっていたかも(?)しれませんね。

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