平安時代

藤原道長ってどんな人?摂関政治や歌の意味について簡単にまとめてみました

藤原道長

「藤原道長と言えば、摂関政治。」
無条件にこう答えてしまう人、結構多いのではないでしょうか。

もちろん、間違いではありません。
摂関政治という言葉は、日本史を勉強していた人なら真っ先に覚えるべきワードの筆頭ですよね。

ではここで一つ問題です。

摂関政治の「摂関」って、何のことですか?

……はい、時間切れです。

すぐに答えられなかったそこのあなた、気持ちは非常に分かります。
なぜなら「藤原道長=摂関政治」と答えられさえすれば、ほとんどの試験ではオッケーでしたから。

しかし、せっかく勉強したのですから、どうせなら摂関政治とはどういう政治のことなのか、また藤原道長という人物は具体的にどんなことをしたのかを知りたくはありませんか?

というわけで、今回は藤原道長についてのお話です。

藤原道長のプロフィールは?
どんなことをして、どんなエピソードや逸話があるのか?

簡単にまとめてみました!

藤原道長のプロフィール

  • 藤原道長(ふじわらのみちなが)966-1028。
  • 父:藤原兼家、母:藤原時姫
  • 官位:従一位、摂政、太政大臣、准三后
  • 正室:鷹司殿(源雅信の娘)
  • 側室:高松殿(盛明親王の養女)

平安時代中期の公家で、後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたります。

藤原道長は何をした人?

摂関政治

摂関政治とは、自分が天皇の外戚となり、摂政や関白といった地位に着くことで政治の実権を実質的に握る政治である。

と書いてしまえばそれまでですが、そう簡単には理解できませんよね。

外戚とはつまり天皇の親戚になること。

具体的にどうしたかというと、自分の娘を天皇の后として嫁がせ、その間に出来た子供(後の天皇)の親戚になる、というなんとも回りくどいやり方です。

もちろん、生まれたばかりの子供に政治のことなんてわかりません。

摂政は幼少期にその代わりとして働く立場、関白は成人後の補佐役として天皇を支える立場……なのですが、実質的にはこれらの要職に就いた人物が当時の政治を動かすことができました。

まさむね
まさむね
何を言われても「私は天皇の代わりだぞ!」と主張すれば誰も逆らえませんからね。

そしてそれを効果的に活用し、平安時代中期を支配したのが、藤原氏の一族だったというわけです。

従弟である伊調との後継者争い

990年ごろ、当時摂政の立場で政治を操っていた藤原道隆(道長の兄)の後を継ぐために、後継者争いが起こります。

弟である藤原道長と、長男である伊調との争いです。

『大鏡』によれば、道長は伊調が関白になり政治を行えば天下が乱れると考え、自らが摂関になろうとしたそうです。

当時の一条天皇は妃の中宮定子を深く寵愛しており、その兄である伊調のことも気に入っていたため、初めは伊調が優勢でした。

しかし、一条天皇の母后・東三条院はかねてより道長のことを愛しており、逆に伊周を疎ましく思っていたため、次の摂関は道長にするべきだと主張します。

それでも天皇は考えを変えません。

そこで彼女は、涙を流してまで天皇に切願しました。

流石にそこまで切実に迫られては断れなかったのか、最終的には天皇も道長に決定したというわけです。

まさむね
まさむね
涙は女の武器、というやつなのでしょうか。

少しずるいような気もしますが、そこは政治の世界。

使えるものは何でも使う、ということですね(笑)

ちなみに、その後伊調は女性関係で事件を起こし、その処罰を受け失脚しています。

結果的には、東三条院の見立ては間違ってなかったということですね。

藤原道長のエピソード・逸話

豪快で勝気な性格だった

道長が若いころ、父の兼家は関白・頼忠の子であり優秀な公任を羨み、息子たちに「まだまだお前たちは公任には遠く及ばない。影すら踏めていない」と、厳しい言葉を放ちました。

兄の道隆や道兼らが言葉を失う中で、道長は堂々とこう答えます。

「影を踏むことはできませんが、その面を踏んでやりましょう」

まさむね
まさむね
自らに相当の自信がなければ、とてもじゃないけど口に出せないセリフですね。

また、有名なものとしては、1018年に詠んだ次の歌がありますね。

この世をばわが世とぞ思ふ望月の虧(かけ)たることもなしと思へば
(この世はまるで自分のためにあるようなものだと思う。満月のように、何も欠けているものがないのだから)

現代で誰かがこんなことを言った日には日本中から袋叩きにされるに違いありませんが、当時はそう言っても許されていいほどに道長の天下だったということでもあります。

それを歌にまでしてしまうのは、彼ならではと言えるでしょう。

まさむね
まさむね
このような勝気な性格があったからこそ、政治を支配することが出来たのだと思います。

文学を愛好した

文学が好きだった道長は、当時の文学者だった紫式部和泉式部らを庇護し、自ら積極的に作文会や歌合を催しました。

また、あの「源氏物語」の第一読者でもあったそうで、紫式部のもとを訪ねては、「続きはまだか?」と急かしていたとも言います。

一説には、自分が登場していたことが嬉しかったからという理由もあったみたいです。

まさむね
まさむね
紫式部の立場からすると、嬉しかったのか迷惑だったのか……。

でも、天下を取るほどの人物にもこうした庶民的な楽しみがあったという話を聞くと、なんだか親近感が湧きますね(笑)

4行でわかる藤原道長のまとめ

まとめ
  • 自らが天皇の外戚になり実質的に政治を支配する摂関政治により、平安時代中期の日本のトップに立った
  • 従弟である伊調との間で継承争いが行われ、東三条院からの天皇への熱い要望により勝利した
  • 若いころから勝気な性格で、常に自分の才能を信じて疑わなかった
  • 文学が大好きで、『源氏物語』を心待ちにしていた

摂関政治は自分がトップに立つ人物の代わりに政治を行う立場になるという少し回りくどいやり方であり、才能や頭脳がなければ失敗しやすい政治の形であるとも言えます。

それを上手く立ち回り、長く支配できたのも、道長が自分なら絶対に出来ると自負していたからなのでしょう。

才能と自身、その両方を兼ね備えていた道長は、天下人に相応しい人物であったと言えますね。

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