平安時代

紫式部ってどんな人?清少納言との関係や源氏物語を書いた理由など

紫式部

紫式部(むらさきしきぶ)といえば、日本で最初の長編小説である『源氏物語』の作者として有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。

『枕草子』の作者で、同じ時代に活躍した清少納言とはライバル扱いされ、仲が悪かったとされていますが、実際はどうだったのでしょう。

今回は平安時代を代表する女流作家である紫式部についてどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。

紫式部のプロフィール

  • 紫式部(むらさきしきぶ)
  • 父:藤原為時
  • 母:藤原為信の女
  • 享年?(973年頃?~1014年頃?)

紫式部は何した人?

中流階級の出身でありながら、なぜ紫式部は54帖にも及ぶ『源氏物語』を書き上げることができたのでしょうか。

紫式部の生い立ち

正確な誕生年は不明ですが、平安時代中期に紫式部は藤原為時(藤原北家良門流)の娘として生まれました。

藤原北家とは藤原房前(ふささき)を始祖とし、平安時代以降に最も栄えた藤原四家の一つで、良門流は藤原北家を代表する一族です。

紫式部は本名も不明ですが、紫式部という呼称は、式部大丞(式部省の官僚)だった為時の官位と、『源氏物語』の登場人物である「紫の上」に由来しているといわれています。

幼いときに母を亡くした紫式部は為時に育てられましたが、為時は花山天皇に漢学を教えていたこともある知識人だったので、その影響を受けて学問に励んだ紫式部は、兄弟の藤原惟規(のぶのり)よりも先に漢文を覚えてしまうほど優秀でした。

まさむね
まさむね
そのため、為時は「男子でなかったことが残念だ」と嘆いたそうです。

藤原宣孝との結婚

998年頃、紫式部は中流貴族の藤原宣孝(のぶたか)と結婚しました。

結婚時、紫式部は26歳で宣孝は46歳とされていることから、二人の年齢差は20歳もありましたが、999年に長女の藤原賢子が生まれます。

しかし1001年、宣孝が病気で亡くなり、紫式部の結婚生活は約3年で終わってしまいました。

宮仕えと源氏物語の完成

当時、藤原道長は甥の藤原伊周(道長の兄・藤原道隆の嫡男)と対立していましたが、伊周の妹・藤原定子が一条天皇に入内していたので、道長には付け入る隙がありませんでした。

しかし、伊周は女性関係が原因で失脚します。

伊周は思いを寄せている女性のもとに、別の男性が通っているという噂を知り、待ち伏せしてその男性に矢を射かけましたが、その男性とは花山法皇だったため、大宰府に左遷されてしまったのです。

好機が訪れた道長は、娘の藤原彰子を一条天皇に入内させましたが、一条天皇と定子の間には敦康(あつやす)親王が生まれていました。

その後、定子は亡くなりましたが彰子はなかなか懐妊しなかったため、焦った道長は知的な女性を迎え入れ、文芸を好む一条天皇の気を引くためのサロンをつくろうとします。

当時、紫式部は宣孝を亡くした悲しみを紛らわせるために『源氏物語』を書き始めていましたが、その評判を知った道長に任じられ、彰子に仕えることになりました。

紫式部を教育係として迎えたことで、彰子のサロンには和泉式部や赤染衛門(あかぞめえもん)などの有名人が集まるようになります。

その結果、一条天皇の寵愛も深まり、紫式部が彰子に仕えるようになってから2年半後の1108年、敦成(あつひら)親王が生まれました。

思惑通りになったことを喜んだ道長は、紫式部に高価な紙や筆を与え続けます。

道長の経済的支援を得た紫式部は思う存分に執筆に励むことができ、1008年頃に『源氏物語』が完成しました。

その後、紫式部は1012年頃に彰子のもとを去り、1014年頃に亡くなったとされています。

紫式部のエピソード・逸話

仲が悪かった?ライバル清少納言との関係

紫式部と清少納言はともに宮仕えをしていましたが、宮中にいた時期が違うので直接の面識はなかったとされています。

しかし、紫式部は『紫式部日記』のなかで、「清少納言は得意顔でとんでもない人。漢字を書き散らしているけれど、よく見たら学識の程はまだまだ足りない点が多い」と、清少納言を痛烈に批判していることから、紫式部は『枕草子』を読んでいたと思われます。

紫式部が清少納言を酷評した理由は、『枕草子』のなかに中宮・定子に仕えていたときに起こった出来事が綴られていたことが原因と考えられ、読んだ人々は定子のことを思い出し、一条天皇も定子の産んだ敦康親王を後継者に望んでいました。

そのため、紫式部は『枕草子』を全否定することで、人々のなかに残る定子の存在を消し去りたかったのではないかと考えられています。

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道長の愛人!?

『紫式部日記』には、「部屋を訪ねてきた藤原道長に一晩中格子戸を叩かれた」「格子戸を開けていたらどんなに後悔していたでしょう」という記述があります。

さらに、室町時代の初めに完成した『尊卑分脈』のなかで紫式部につけられた注記に「御堂関白道長妾」という一条があることから、紫式部は道長の愛人だったといわれています。

しかし、『紫式部日記』に道長の求愛を受け入れた記述がないことと、紫式部にとって道長は執筆活動を支えてくれるパトロンで、持ちつ持たれつの関係だったので、男女の関係はなかったと考えられています。

光源氏のモデルは誰?

イケメンで才能にも優れた『源氏物語』の主人公である光源氏は架空の人物ですが、実在した人物をモデルにしたといわれており、その候補として多くの人々の名前が挙げられています。

光源氏は桐壺帝の第2皇子として生まれながら、臣籍降下(皇族の身分を離れ、姓を与えられて臣下の籍に降りること)させられました。

そのため、嵯峨天皇の12男として生まれた源融と、醍醐天皇の第10皇子として生まれた源高明が、光源氏と境遇が似ていることから有力視されています。

融は京都の六条に河原院という広大な邸宅を所有していましたが、光源氏も六条院という邸宅を造営して、多くの女性と暮らしていました。

一方、学問に優れた高明は左大臣にまで昇進しましたが、969年に起きた安和の変によって大宰府に左遷されてしまいました。

そして、朧月夜との関係が発覚した光源氏も追いつめられて須磨へ隠退しています。

このように、融と高明には光源氏との共通点があるため、モデルとして有力視されていますが、この他にも、在原業平や菅原道真など平安貴族の故事も用いられていることから、紫式部は多くの実在する人物からヒントを得て、光源氏をつくり上げたのではないでしょうか。

5行でわかる紫式部のまとめ

まとめ
  • 藤原為時(藤原北家良門流)の娘として生まれる
  • 26歳のとき藤原宣孝と結婚するが、約3年で死別する
  • 夫と死別した悲しみを紛らわすために『源氏物語』を書き始める
  • 藤原道長に任じられて中宮・彰子に仕える
  • 藤原道長の経済的支援を受け、彰子に仕えながら『源氏物語』を完成させる

紫式部は道長の援助を受けて54帖にも及ぶ『源氏物語』を書き上げることができました。

栄華を極めた藤原家は道長の長男・藤原頼通(よりみち)の時代に最盛期を迎えましたが、紫式部に関する記述は1014年頃を最後に消えているので、晩年のことについては分かっていません。

その後、『源氏物語』は20ヶ国以上で翻訳されたこともあり、紫式部はユネスコの「世界の偉人100人」に日本人として初めて選ばれました。

日本だけではなく、海外からも高い評価を受ける『源氏物語』は、完成してから1000年以上経った今でも多くの人々に愛されています。

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