平安時代

清少納言ってどんな人?枕草子に込めた想いや藤原定子との関係など

清少納言

中学生のころに初めて「古典」なる授業を受けました。

そこで習ったのが「春はあけぼの」で始まる『枕草子』の一説です。

その『枕草子』の作者が清少納言です。

この記事では、清少納言はどんな人物だったのか、わかりやすく簡単にまとめてみました。

清少納言のプロフィール

清少納言は966年に生まれたと考えられています。

966年は平安時代が中期にさしかかる頃。

遣唐使の中止から100年以上が経っており、中国ではすでに唐が滅んでいて、日本独自の国風文化が生まれてきていた頃でした。

父親は三十六歌仙の一人である清原元輔。

『後撰和歌集』の編纂者でもあります。

まさむね
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ちなみに清少納言は「清 少納言」です。

清は清原姓から来ていると考えられているものの、少納言はどこからきているのか不明。

本名も不明です。

清少納言8歳のとき、父が周防(山口県)の鋳銭司(造幣所を管理する役所の長官)になったのでつれられていきました。

15歳で結婚

周防で4年間過ごした後、京都へ戻り、15歳で橘則光と結婚しています。

まさむね
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平安時代では15歳で結婚するのは普通のことです。

結婚の翌年、後に歌人として知られることになる橘則長を産んでいます。

しかし、その後橘則光とは離婚。

25歳頃、藤原棟世という貴族と再婚しました。

まさむね
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世間では才女として知られていたようです。

藤原定子の使用人に

27歳のときに、一条天皇の中宮(皇后)藤原定子の女房となります。

女房というのは奥さんではなく使用人のこと。

清少納言はその才覚を認められ、歌や漢詩などを教える家庭教師のような役目で雇われました。

清少納言が実際に「清少納言」と呼ばれるようになったのは、定子の女房となってからです。

しかし、清少納言が定子の女房となって2年も経たず、定子の父親・藤原道隆が病没します。

道隆の弟の藤原道長はこれに乗じて宮中の覇権を握るべく、中宮の位に自分の娘の彰子をねじ込み、定子は失脚しました。

清少納言は道長と通じているという噂を立てられ、自宅に引きこもります。

その間に定子は出家してしまいました。

ただ、その2年後、定子は一条天皇のたっての願いで宮中に呼び戻され、彰子と定子の2人が皇后とされるということになりました。

清少納言は定子からの誘いを受け、再び定子の下で働くようになります。

定子は、宮中に呼び戻されてから4年後に内親王を出産。

しかし産後の肥立ちが悪く、24歳という若さで崩御しました。

清少納言は勤めを辞め、2人目の夫・藤原棟世の領国である摂津に身を寄せたのち、東山で過ごしたともいいます。

まさむね
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その最期はどうなったのか不明です。

清少納言は何をした人?

清少納言は、後に紫式部に「あの女ちょっと漢字を読み書きできるからってドヤ顔してるけどけっこう間違えてるじゃないフン!」などと言われるほどの才女だったようです。

その才能を買われて、藤原定子の私的な女房となりました。

中宮の家庭教師

藤原氏が台頭してきた時代、娘を皇后にして、外戚としての影響力を及ぼそうと必死になり、娘を皇后にふさわしい女性にするために私的に教養のある女房を雇って学ばせていました。

清少納言が定子の女房となったのは、定子が中宮になった後でしたが、彰子というライバルがいたため、その立場を確固たるものにするためにもよりレベルが高い女房が求められたのでしょう。

まさむね
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そう考えると、清少納言がどれだけ才気あふれる女性であったのかが伺われます。

清少納言は、定子の前では父が有名な歌人なので歌を詠むのはプレッシャーがかかるなどと謙遜していましたが、和歌、漢詩などに通じていました。

定子のために『枕草子』を記す

清少納言が書いた『枕草子』には、清少納言が好きだったり嫌いだったりするもの、宮中での季節ごとの生活、そして藤原定子や貴族たちとの交流などが描かれています。

昭和の頃は平安のエッセイストと呼ばれ、平成には平安のブロガーと呼ばれ、最近では平安のインスタグラマーなどと時代時代に好き勝手な呼ばれ方をしてきました。

しかし、実は『枕草子』が書かれたのは定子が失脚し、自らは道長とのつながりを噂され引きこもっていた頃です。

『枕草子』は、ブログやSNSのように不特定多数のために向けたものではなく、定子のために書かれたものでした。

20歳になるかならないかの女の子が父をなくし、宮中の権力闘争に巻きこまれ、ついでにいえば弟はそれとはまったく違う事件で逮捕されていました。

そんな状況にある定子に、女性ならではのよしなしごとで共感を感じてもらったり、外の権力闘争とは関係なく楽しく過ごした日々を思い返して心を慰めてもらいたい。

そんな思いやりから書かれたのが『枕草子』でした。

まさむね
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研究者によれば『枕草子』は書かれた時期が2期に分かれると言います。

1期は定子存命中、2期は定子の死去後です。

定子死去後に書かれた『枕草子』は、定子の鎮魂のために書かれたのではないかと考えられています。

清少納言のエピソード・逸話

清少納言がどういう人物だったかは、『枕草子』から想像するしかありません。

漢文に通じた教養人

清少納言は、当時ではおそらくトップクラスと言ってもいい教養人でした。

当時、貴族の男性は漢文、漢詩、中国の歴史などについて学ぶのが当然のことでしたが、女性がそれを学ぶのはめずらしいことだったと言います。

百人一首にも収録されている清少納言の歌、

夜をこめて 鳥のそらねは はかるともよに逢坂の 関はゆるさじ

が生まれたエピソードが『枕草子』にも記されています。

この和歌は『史記』列伝にある孟嘗君の故事にひっかけたものでした。

他にもそうした漢詩や中国史にかけてウィットに富んだ返しをしたエピソードがいくつか書かれており、貴族の男性たちにも一目置かれていたようです。

定子に恋愛感情があった?

『枕草子』には「ありがたきこと(めったにないこと)」として「深く契りあって語り合う女同士がいつまでも仲がいいこと」が挙げられています。

長続きするのはあまりないことだとしても、女性同士が深く契りあうということはよくあったのでしょう。

清少納言は結婚歴が2度あるうえに宮中に通う男性と関係があったという形跡もあるので同性愛者ではありません。

ただ、『枕草子』には10歳年下だという定子に対する、崇拝というより恋愛感情にも似た賞賛が散りばめられています。

例えば初めて定子に会った折、「絵を出して見せてくれる定子の手がピンク色で萌えーでこんな美少女いたの!?」って思ったとか。

「宮中に遅れて出勤したら定子の前に女房たちがいっぱいいたから後ろのほうに座っていたら、こっちにいらっしゃいと近くに呼ばれたとき超うれしかった。」などなど。

まさむね
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これが定子に読ませる前提で書かれたものなら、まるでラブレターです。

定子のほうも清少納言を気に入っており、出家から呼び戻されて宮中に戻ったときは、わざわざ思い出話にかこつけて当時貴重な紙を送り、再度出仕するようにうながしています。

まさむね
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身分の違いがあったので「深い契り」というわけにはいかなかったとは思います。

しかし、清少納言と定子の間に、深い心のつながりがあったのは間違いないのではないかと思います。

4行でわかる清少納言のまとめ

『枕草子』や『百人一首』に名を残す清少納言のまとめです。

まとめ
  • 2人の男性と結婚
  • 27歳で一条天皇の中宮・定子の家庭教師となる
  • 宮中のできごとや定子との思い出を『枕草子』に書き残す
  • 定子の死により宮中を去る

清少納言自身は、『枕草子』は定子から賜った紙にいろんなことを書いていたけれど、隠しておいたものが漏れ出てしまったと書いています。

しかし実際は定子に見せるために書いたなら、後の世に自慢だなどと評されているエピソードも、楽しかった時代だけを思い出してほしいという愛情が込められているものだと思えてきます。

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