江戸時代

徳川綱吉ってどんな人?生類憐みの令などの政治や生涯に迫る

徳川綱吉

徳川綱吉はみなさんご存じでしょう。

学校でも習いますよね。

そうです、「生類憐みの令」です。

この法令があまりにも有名すぎて、他の業績についてはあまり知られていないのが実情ではないでしょうか。

この記事では五代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)について説明していきます。

徳川綱吉のプロフィール

  • 生誕 1646年1月8日
  • 死没 1709年1月10日
  • 在職 1680年8月23日~1709年1月10日
  • 享年 64歳

綱吉は三代将軍家光の四男として生まれました。

母は側室のお玉の方です。

1661年には上野国館林藩(群馬県)藩主となります。

綱吉の運命が大きく変わっていくのは、四代将軍家綱に跡継ぎがいなかったためでした。

しかも、家綱は非常におとなしい人物として知られ、政治の実権は老中や大老たちが握り、家綱はただの神輿状態だったのです。

その老中の中心人物が酒井雅楽頭忠清でした。

酒井ら老中たちは、跡継ぎがいないことをいいことに、京都から親王をつれてきて将軍に祭り上げ実権は引き続き自分たちが握るという、鎌倉時代の北条家のような企みをもっていたようです。

この陰謀を阻止したのが老中堀田正俊でした。

政治闘争の結果、綱吉が将軍として迎え入れられることになりました。

こういった経緯から、綱吉は将軍に就任すると酒井たち先代に仕えた実力者を解任します。

まさむね
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これは政策を行う上で重要なことです。

なぜなら、新たに政権の座についた為政者からみれば、以前から政策に携わっていた人々というのは、厄介なものだからです。

いわば先輩たちですから、頭が上がらないうえに自分の望む政策を行うことができません。

綱吉はこういった問題からフリーでした。

さまざまな政策を実行していき、なかには妙な政策もありましたが、綱吉の治世は元禄時代に華麗な花を咲かせ、地方の農民や庶民も巻き込む元禄文化として結実したのです。

綱吉は1709年、麻疹で亡くなりました。

徳川綱吉は何をした人?

綱吉の治世で注目すべきものをピックアップしてみました。

文治政治

綱吉は学問好きな人でした。

自分で「孟子」や「周易」などの中国の古典を家臣たちに講義したというから、その向学心は相当のものです。

湯島聖堂を建てたのも綱吉ですし、儒教のほかにも仏教を厚く信仰し、護国寺・護寺院を建立し、費やす金も惜しみませんでした。

武家諸法度も綱吉のときに「文武弓馬の道」から「文武忠孝」「礼儀」と改められました。

社会秩序の維持に重点が移ったと言えましょう。

これら一連の文化的政策を「文治政治」と称します。

まさむね
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まさに天下泰平にふさわしい政策の出現と言えるでしょう。

側用人政治

そもそも側用人とは、将軍の命令を老中に伝えたり、逆に老中から将軍に上申したりと、命令上申の伝達がその仕事でした。

まさむね
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簡単に言うと使いっ走りですね。

ですが、将軍と老中双方に顔が利く側用人が、次第にその政策決定に深く関わるようになるというのも興味深いことです。

綱吉時代から始まった制度で、側用人に任命されたのは館林藩主時代の側近であった牧野成貞が最初といわれます。

やがて、柳沢吉保のような老中をしのぐ権力を握る側用人も現れました。

まさむね
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将軍の側近が強大な権力をにぎったというのは、それだけ将軍に権威と権力が集中した結果だと言えるでしょう。

生類憐みの令

「犬公方」というあだ名があったほど犬の保護に熱心だった綱吉ですが、この生類憐みの令の対象は犬だけではありませんでした。

牛や馬、鳥も含まれます。

特に犬については詳細な規定を設けて保護を加えました。

四谷や中野には大規模な犬小屋が営まれ、野犬を収容しました。

民衆の反感をかったのは、違反者に対する厳しい罰です。

最悪、死罪もあったようで、生類憐みの令は綱吉死後、即座に撤廃されています。

このように、まったく良いところのない迷惑なだけの法令と思われていましたが、最近では生類の対象に捨て子や捨て病人、行倒れ人の保護なども含まれていたために、弱者救済という側面があったことが指摘されています。

まさむね
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仏教に帰依した綱吉にとっては、慈愛の政策だったのかもしれません。

財政危機

綱吉が仏教に深く帰依したことは前にも述べましたが、具体的な政策として寺の造営や修繕などに莫大なお金を費やすことになりました。

この時期には鉱山収入なども減少したため、幕府の財政は厳しくなってしまいます。

そこで、勘定吟味役の荻原重秀に命じて貨幣改鋳を行い、小判の増収を図ったのです。

結果は500万両もの小判を増やすことができましたが、これらのお金もすぐになくなってしまう危機的状況が出現しました。

相次いだ地震と天災です。

1707年の富士山の噴火がそのとどめでした。

甚大な被害の復興に幕府が追われるなか、1709年に綱吉は死去します。

徳川綱吉のエピソード・逸話

中国の古典を8年間にわたって講義する

綱吉がきわめて向学心にあつく、熱心に勉強したことは既にのべました。

具体的には、「周易」という儒教の古典を、1か月に6回、8年間にかけて、なんと240回も家臣らに講義したということです。

儒教の最高徳目は「仁」です。

民を愛し、思いやり、民のための政治をおこなうこと、それが「仁」です。

まさむね
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綱吉は、大真面目に、儒教の精神を家臣らにも植え付けようと、こういった講義を行ったのでしょう。

主君がこれほど学問好きであれば、家臣にも学問好きが集まってくるものです。

文治政治は綱吉のキャラクターがもたらした成果といっていいでしょう。

日本に犬喰いの風習がすたれたのは生類憐みの令以降のこと

現在の日本では犬を食べるという習慣はありません。

しかし、かつては日本でも犬は食用として捕獲されていました。

特に冬場は犬が好んで食べられたようです。

こういった風習が廃れたのは、ひとえに生類憐みの令のおかげといっていいでしょう。

犬を斬ったということで八丈島に流されたという人もいたようですから、だれも犬に手出ししなくなったのです。

まさむね
まさむね
徳川綱吉は犬にとってはまさに命の恩人といえるでしょう。

4行でわかる徳川綱吉のまとめ

まとめ
  • 武断政治から文治政治へと転換した
  • かつての側近をうまく使う側用人の体制を整えた
  • 生類憐みの令は民衆に不評だった
  • 寺院造営などで支出が増え、財政危機をもたらした

人間にはいろいろな側面があります。

それが人と歴史を知る面白さでもあります。

深く調べれば調べるほど、歴史上の人物のイメージを変わってきます。

徳川綱吉のイメージが少し豊富になりましたでしょうか。

生類憐みの令だけではない為政者としての姿を思い描くことができたなら、これほど嬉しいことはありません。

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