1999年に台湾で発生した「集集地震」は2415人もの死者を出す大災害でした。
しかし、台湾は日本を始め各国からの支援を受けながら、急速に復興していきます。
その指揮をとったのが、時の台湾総統で、国民党の独裁政権から台湾を奇跡の民主化に導いた李登輝でした。
そして、その李登輝をして「強力なリーダーシップ」により台湾を発展させたと言わしめるのが、戦前に活躍した政治家・後藤新平(ごとう しんぺい)です。
目次
後藤新平のプロフィール
後藤新平は1857年に仙台で産まれました。
1857年の日本はまだ江戸時代。
後藤が生まれた2年後に、大老・井伊直弼による安政の大獄が始まりました。
父親の後藤実崇は、仙台伊達家の一門・留守家の家臣です。
後藤が11歳のときに明治新政府が発足し、日本は明治時代になりました。
医師として従事
急速に西洋化が進む中、後藤も16歳で西洋の学問を学ぶ「洋学校」に入学。
後藤の遠縁には、シーボルトの弟子である蘭方医・高野長英がおり、その関係から次に医学校へ進んで医師となりました。
25歳のときに、現代の厚生労働省の前身となる内務省衛生局にスカウトされ、医療・衛生行政に従事。
33歳のときにドイツに留学し、その2年後に帰国すると、内務省衛生局長、いわば厚生労働大臣に推挙されました。
ところがその翌年、福島県相馬藩の旧領主・相馬氏のお家騒動に関わる事件に関連したせいで投獄され、失脚します。
失脚した後藤をひろったのが、後の陸軍大将・児玉源太郎です。
台湾で活躍
後藤が41歳の時、児玉は当時日本の植民地であった台湾の第4代総督に選ばれます。
しかし、陸軍大臣や内務大臣などを兼任して激務だった児玉は実際に台湾に赴任することはなく、そのかわり後藤が民政局長として派遣され、植民地経営の実務を担いました。
49歳の時には、日本の大陸進出の橋頭堡となる南満州鉄道の初代総裁として、満鉄の整備につとめ、また、満鉄と並行する路線を敷こうとする袁世凱の企てを阻止しています。
東京市長を務める
63歳から66歳まで東京市長(当時東京は都ではなく東京市)を務めました。
東京市長時代、後藤は帝政ロシアを滅ぼし、建国されたばかりのソビエト連邦と、日本の国交樹立へと導きます。
後藤が東京市長を退いた1923年、関東大震災が起こります。
いわば復興内閣として組閣された第2次山本内閣で、後藤は帝都復興院総裁となり、東京を災害に強い近代都市として再生すべく復興計画が立てたものの、国の予算が足りずにその計画は一部が実現したのみでした。
72歳のとき、遊説のため乗った列車の中で脳出血を起こし、そのまま帰らぬ人となって、東京の青山霊園に埋葬されました。
後藤新平は何をした人?
後藤新平は医師でありながら政治家として辣腕をふるい、特に台湾では目覚ましい活躍をしました。
また、現在の東京都心部の建設も後藤の復興計画として行われたものです。
台湾を近代化に導く
日清戦争に勝利し、清国より台湾を割譲された日本政府は、台湾総督府を置いて台湾経営に乗り出します。
後藤は、日本が台湾を領有した3年後に第4代総督となった児玉源太郎により、民政局長に抜擢されます。
まず、後藤は土匪(抗日ゲリラ等)の撲滅に乗り出しました。
警察力を強化するとともに土匪への刑罰を厳罰化。
しかしその反面帰順した土匪は大きく減刑するというアメとムチの制作で土匪は減少し、社会も安定化していきます。
さらに、清朝統治時代から台湾社会を蝕んでいた阿片の撲滅を行います。
後藤が行ったのは、阿片の専売化と免許制度の導入でした。
すでに阿片中毒の者には免許を発行し、総督府からのみ阿片を購入できるようにして、新たな免許は発行しないという方法は、後藤の後にも引き継がれ、台湾統治50年の中で阿片中毒患者が根絶されました。
医師でもある後藤は、衛生環境の改善を徹底するとともに医師の養成にも努め、特に台湾で問題となっていた伝染病対策を行いました。
そして、台湾人子弟の教育機関である公学校を設置。
これを契機に台湾の教育レベルは大きく向上し、後には東京帝大、京都帝大(現在の東大と京大)へ入る台湾人も出ました。
李登輝は京都帝大に入学しています。
『武士道』の著者である新渡戸稲造は、後藤に招聘されて総督府付の農業技師となり、特に台湾に適したサトウキビの開発を行って、台湾での砂糖生産を大きく増産へ導きました。
東京復興計画
1923年に起きた関東大震災は、ちょうど昼時に発生したせいで大規模火災を引き起こし、東京は焦土と化しました。
後藤は焼け落ちた土地を国が買い取って、東京そのものを作り変えるという壮大な復興案を立てます。
ただ、その予算は現実離れしており、強い反対を受けて縮小せざるを得ませんでした。
後藤が計上した予算は30億円、実際決められた予算は5億円と1/6の規模となっています。
限られた予算の中で行われた復興事業は、道路、公園、橋の整備などでした。
昭和通り、靖国通り、明治通りはそのとき建設された道路です。
隅田公園、浜町公園、錦糸公園などは、平時は近隣住民の憩いの場として、災害時には避難場所としてこのとき整備されました。
隅田川に架かる永代橋、両国橋、吾妻橋など9つの橋も、災害時に崩れない橋として架けられています。
後藤新平のエピソード・逸話
後藤新平はエピソードに事欠かない人ですが、その中でもちょっと意外にも思えるエピソードをご紹介します。
板垣退助を治療
後藤は医師時代愛知県医学校の学校長、そして附属病院の院長となっています。
その間の1882年、岐阜県で板垣退助の襲撃事件が起きました。
誤解している人がいるかもしれませんが、この時板垣は死んでいません。
怪我を負った板垣が運び込まれたのが愛知県医学校病院で、治療を担当したのが後藤でした。
板垣は後藤を気に入り、政治家にしたがったといいます。
日本にボーイスカウトが根付く礎をつくる
野外活動を通じて青少年を育成するボーイスカウトは、1907年にイギリス人のパウエル卿により提唱されました。
日本へはその翌年にすでに紹介されています。
その後、日本各地でいくつかのボーイスカウトの団体が設立されました。
1922年、当時東京市長だった後藤はロンドンを訪問し、現地のボーイスカウトの活動を見て感銘を受け、帰国後日本のボーイスカウトをとりまとめる少年団日本連盟、現在のボーイスカウト日本連盟を設立。
後藤は初代総長に就任しました。
「シチズン」の名付け親
スイス時計にも負けない精密さを誇る日本の時計技術。
セイコーと並び日本を代表する時計メーカー・シチズンは、貴族議員の山崎亀吉が1918年に設立した尚工舎時計研究所を前身とします。
1924年、山崎は新種品の懐中時計を開発。
同じく貴族議員の後藤に命名を依頼しました。
後藤は市民に親しまれるようにという意味を込めて「シチズン」と命名。
そして、1930年には商品名をそのまま社名にしたシチズン時計株式会社が設立されました。
4行でわかる後藤新平のまとめ
戦前の代表的政治家の一人で、台湾にもその名が残る後藤新平のまとめです。
- 医師として医療・衛生行政に関わる
- 日本の植民統治下にあった台湾で近代化の基礎をつくる
- 満鉄総裁、東京市長などを歴任
- 関東大震災後の東京の復興事業を担う
後藤の業績の陰には負の面がないわけではありません。
しかし、偉大な政治家の一人であるという事実は動かないでしょう。
もし後藤の東京復興案が完全に実現していたならば、東京は今よりもっと移動が便利な快適な都市になっていたかもしれません。