明治時代

新渡戸稲造は何した人?大学はどこ?武士道の執筆など経歴をわかりやすくまとめてみました

新渡戸稲造

かつての5000円札に印刷されていた人物を、皆さんは覚えていますか?

今の若い人たちは、5000円札と言ったら樋口一葉という考えになると思いますが、それ以前の5000円札の顔は、新渡戸稲造でした。

新渡戸稲造と聞いて他に思い出されるのは、やはり著書『武士道』でしょうか。

日本に対する愛国心を綴ったこの本は、今なお多くの人々の心を揺さぶる名著として知られています。

それ以外にも、新渡戸稲造は教育者として数々の功績と影響を与えました。

では、具体的にどのようなことを行ったのでしょうか。
また、エピソードや逸話は?

簡単にまとめてみました!

新渡戸稲造のプロフィール

  • 新渡戸稲造(にとべいなぞう)1862-1933。
  • 岩手県盛岡市出身。
  • 出身校:札幌農学校、東京帝国大学(退学)、ジョンズ・ホプキンス大学(退学)、ハレ大学
  • 妻:メアリー・エルキントン(新渡戸万里子)

農政学者、教育者、思想家と多くの経歴で名を残しています。

新渡戸稲造は何をした人?

各地で学問を学ぶ

幼いころから英語を勉強し、東京英語学校に通っていた新渡戸稲造は、卒業すると札幌農学校(のちの北海道大学)に入学します。

ここは、当時国内で唯一の学士号を授与する高等教育機関でした。

まさむね
まさむね
いわゆる、その分野専門の学者であるという証ですね。

札幌農学校といえば「少年よ、大志を抱け」で有名なウィリアム・クラークがいた場所ですが、稲造の入学と入れ替わるようにアメリカへ帰ってしまっているため、直接会ってはいません。

しかし、稲造はクラークが農学校に残していったキリスト教教育に入学以前から興味を持っており、入学後はキリスト教に入信し宣教師から洗礼を受けるなど、より一層のめり込んでいきました。

卒業後は北海道庁に採用され、畑に害をなすイナゴの対策の研究などをしていきます。

また、のちには帝国大学(東京大学)に入学していますが、研究のあまりのレベルの低さに愕然とし、すぐに退学をしてしまいました。

1884年、米国に渡った稲造は、ジョンス・ホプキンス大学に入学します。

その理由は「太平洋の架け橋になりたい」という壮大なものです。

さらにその後札幌農学校助教授に任命された彼は、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学し今度はドイツへ留学。

ハレ大学で農業経済学の博士号を得ると、帰国後には体調を崩し農学校も退官してしまいました。

つまり、稲造は2度大学を自主的に途中退学しているわけです。

それも今の東京大学やアメリカの大学を辞めているのですから、スケールの大きさが違いますよね。

まさむね
まさむね
自らがやりたいこと、学びたいことを確立できていたからこそ、それを本当に成し遂げられる場所以外は必要なかったのでしょう。

「武士道」の執筆

病に伏せた彼は1897年、群馬での療養中に『農業本論』を執筆します。

これは、当時の農業の在り方を社会科学的観点から見つめたものであり、農学分野だけでなく様々な層の読者から支持を集めました。

また1900年には、『武士道』を英文で書き上げました。

その内容は、日本人がこれまで日本社会という狭い枠の中でどのような考え方を確立してきたのかということを、日本独特の四季の移りや土壌、文化、思想など様々な観点から分かりやすく書いたものです。

例えば、「多くの日本人は自分や身内を持ち上げることを嫌い時には蔑んで呼ぶことがあるが、これは身内のことでさえ自分自身と同一の存在として扱うことで相手に対して謙譲の心を示しているということであり、日本独特の考え方だろう」というようなものです

もちろんこれは新渡戸稲造が自らの経験や思想を基に書いたものであり、批判する人も中にはいたそうです。

しかし、外国との比較が書かれている点も多かったことと、日清戦争の勝利で世界の日本に対する関心が高まっていたことなどから、ドイツ語やフランス語でも訳されると世界中でベストセラーになりました。

あのアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領もこの本を読み大きな感銘を与えられたといいます。

まさむね
まさむね
今でもなお読み継がれる名著は、当時から世界に多大な影響を与えていたのですね。

「郷土会」の発足

1909年、新渡戸稲造の提唱により、自由な立場から各地の郷土について詳しく研究・調査することを目的とした「郷土会」が発足されました。

メンバーには民俗学者の柳田國男や農林官僚の石黒忠篤、農学博士の小野武夫らがいます。

伝統と文化を重んじた彼らの手により、今もなお各地に様々なことが伝えられているというわけです。

新渡戸稲造のエピソード・逸話

学生時代は不真面目だった

子どものころ「共慣義塾」という学校に通っていた稲造は、あまりの授業の退屈さに抜け出すことが頻繁にありました。

そのせいで叔父からの信用を無くした彼は、ある日自分の小遣いで買った手袋を「店の金を盗んだな!」と疑われたそうです。

しかし、その出来事にショックを受けてか、以来彼は人が変わったように勉強するようになりました。

まさむね
まさむね
些細なことかもしれませんが、のちの彼の活躍を見ると、これが人生で最大の分岐点だったのかもしれませんね。

熱く信念を曲げない男だった

札幌農学校に在籍していた時のこと。

学費を滞納していた稲造は、食堂に「速やかに学費を払うように」と張り紙が張られているのを見つけました。

しかし彼はそれに対し、「こんな紙切れ1枚で俺の生き方を決めるな!」と叫んで、その紙を破り捨ててしまったそうです。

もちろんそんなことをすれば教師たちから怒りを買うのは当然のこと。

危うく退学寸前にまでなりますが、友人たちの懇願でなんとか免れます。

また、時には教授と論争し、殴り合いになることさえあったといい、「アクチーブ(活動家)」というあだ名が付けられていました。

まさむね
まさむね
……かなり破天荒な生き方ですが、そのくらいの気概がなくては後世に偉業を残すような人間にはなれないということなのでしょうか(笑)

3行でわかる新渡戸稲造のまとめ

まとめ
  • 様々な学校で経験と知識を積み、入学と退学を繰り返しながら、学者として地位を高めていった
  • 日本人独特の生き方について書いた『武士道』は、世界中で大ベストセラーになった
  • 学生のころはかなり破天荒な性格で、自分の生き方を貫いていた

5000円札に描かれた姿を見ると、真面目そうでかつ穏やかそうな顔つきをしているように思えますが、その生き方はとてもじゃないけど常人には真似できないほど波乱万丈でした。

しかし、そこから私たちが学ぶべきこともまた多いと感じます。

日本人がそれまで培ってきた生き方や思想を世界中に発信し、大統領にまで感銘を与えた彼は、日本にとってまさに偉人と呼ぶべき人物であると言えますね。

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