日本史の中には意外と「悲劇のヒロイン」は少ないです。
それは、日本で女性が大切にされてきたからではなく、近代以前は軽視されていたために、悲劇が起きても記録に残りにくいからです。
そんな中で際立って悲劇的に伝えられている女性が、細川ガラシャです。
目次
細川ガラシャのプロフィール
細川ガラシャは1563年生まれ。
その3年前は桶狭間の戦いで織田信長が鮮烈デビューを果たし、その2年後には足利義輝が暗殺されるという戦国時代真っ只中でした。
ガラシャというのは後にキリスト教徒になったときの洗礼名で、本名は明智玉子(玉、珠とも)。
父親は、本能寺の変を起こしたあの明智光秀です。
15歳で細川忠興に嫁ぐ
玉子が15歳のおり、父光秀と同じく信長の臣下であった細川藤孝の息子・細川忠興に嫁ぎます。
この結婚はもちろん本人たちの意思は関係なく、信長が家臣間を婚姻関係で結ぶ政策の一環として命じたものでした。
結婚の翌年には長女、その翌年には長男・細川忠隆を生みました。
本能寺の変で幽閉
玉子19歳のときに本能寺の変が勃発。
首謀者の明智光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に破れ、逃亡した山中で殺害されました。
信長の家臣であった夫の忠興は、謀反人の娘である玉子を京都の山奥に幽閉します。
2年後に秀吉の命により幽閉が解かれ、細川家の大阪の屋敷にうつされました。
キリスト教に出会って洗礼を受ける
玉子23歳のときに、後に熊本藩主となる三男・細川忠利を出生。
その翌年、忠興が九州支配を狙った秀吉に従って九州へ出征。
玉子はその隙にキリスト教会を訪れます。
このときのことは、イエズス会の宣教師、コスメ・デ・トーレスが記録に残しています。
玉子はその翌年自宅で洗礼を受け、ガラシャという洗礼名を授けられました。
人質を拒否して自害
1600年、玉子37歳のとき、徳川家康が会津の上杉景勝を討つため出陣します。
忠興もその軍に従っていました。
その隙をついて石田三成が大阪で挙兵。
大阪にいた家康についた武将たちの家族を人質にとりました。
その手はガラシャにも伸びます。
しかしガラシャは人質になることを拒否しました。
ガラシャをとらえるべく三成の兵が屋敷を取り囲むと、ガラシャは自害。
介錯をした小笠原秀清が屋敷ごと爆破し、自らも自害しました。
細川ガラシャは何をした人?
細川ガラシャは本来ならただの武家の奥方でしたが、その敬虔な信仰心と、壮絶な死によって歴史に名を残しています。
深いキリスト教への信仰
ガラシャはもともとは禅宗を信仰していたようです。
それがキリスト教に興味を持ったのは、夫・忠興からキリシタン大名の高山右近の話を聞かされたからだといいます。
高山右近は、後に徳川の世になったとき、キリスト教信仰を捨てることを肯んぜず、国外追放になったほど深くキリスト教を信仰していた人でした。
幽閉は解かれたとはいえ、ほぼ軟禁状態だった玉子は自由には外出できませんでした。
忠興が留守になったのはちょうど春の彼岸の時期だったため、彼岸の墓参りを口実に屋敷を出て、こっそりとイエズス会の教会を訪れています。
そのとき布教していたのは、フランシスコ・ザビエルとともに日本に来ていたコスメ・デ・トーレスでした。
トーレスはガラシャのことを非常に聡明な女性だと書き残しています。
なかなか外出できないガラシャは、かわりに侍女を教会に通わせ、洗礼を受けさせて、彼女たちを通じてキリスト教を学んでいきました。
しかし、ガラシャがキリスト教と出会った翌年、豊臣秀吉がバテレン追放令を出し、宣教師たちは長崎に移ることになりました。
その直前、ガラシャは同じくイエズス会のセスペデス神父により自宅で洗礼を受けています。
洗礼のことは秘していたものの、後に忠興にそのことを告白すると、忠興は信仰をやめさせようとします。
しかし、もともと気が強かったというガラシャは受け入れず、忠興が折れた形になり、屋敷の中に密かに聖堂を作ったといいます。
肥後細川家の礎をつくる
細川忠興は九州の小倉藩の藩主でした。
江戸時代になり、加藤清正の三男で肥後熊本藩を継いでいた加藤忠広がお取り潰しとなったとき、忠興がその後を受け継ぐことになりましたが、忠興はその座を三男の忠利に譲って引退しています。
忠利はガラシャによって洗礼を受けたクリスチャンだったようです。
忠利は三男だったものの、長男忠隆は廃嫡され、次男興秋は細川家を出奔した後大阪の陣で豊臣方についたため切腹させられていました。
忠利は肥後細川家の祖となり、その系統は現在まで続くことになります。
元内閣総理大臣の細川護煕氏は肥後細川家の末裔で、いわば細川ガラシャの子孫です。
細川ガラシャのエピソード・逸話
細川ガラシャの悲劇的な生涯は現代でも小説やドラマの中で語られています。
ただ、伝えられるところによれば、一方的に運命に流された弱い女性というわけでもなかったようです。
男勝りの“強い女”
ガラシャは戦の時は甲冑をつけて戦っても男には負けないわよ!などと豪語するなかなか激しい性格の女性だったようです。
あるとき細川忠興が家臣を手討ちにすると、そばにいたガラシャの着物で血を拭き取るという、いくら戦国時代でもありえないことをしました。
ガラシャはその着物を洗わず、何日も着続けました。
結局忠興のほうが謝って、やっと着替えたそうです。
神聖ローマ帝国でオペラになる
現在我々が戦国時代のことを知ることができるのは、イエズス会の宣教師が日本での出来事などを記録して報告していたおかげでもあります。
その報告の中で、ガラシャのことも伝えられていました。
ガラシャの死後98年後、ガラシャの物語は『丹後王国の女王グラツィア(ガラシャ)』というオペラにされ、神聖ローマ帝国時代のウィーンのハプスブルク家の宮殿で上演されました。
4行でわかる細川ガラシャのまとめ
戦国の世に翻弄され、悲劇的な死を迎えた細川ガラシャのまとめです。
- 明智光秀の娘
- 15歳で細川忠興に嫁ぐ
- キリスト教に出会って洗礼を受ける
- 関ヶ原の戦いを前にしたかけひきに巻き込まれ死去
生まれたと思ったら父親が謀反を起こし、キリスト教に出会ったら禁教令が出て、自分は何も悪くないのに人質にされそうになって自ら命を絶つ。
運命と呼ぶにはあまりにもひどく、彼女の生涯に幸せはあったのだろうかと思ってしまいます。
せめてオペラの中で敬虔な殉教者と描かれることが鎮魂になればいいなと思います。