明治時代

芥川龍之介ってどんな人?代表作やエピソードをまとめました

芥川龍之介

小説はほとんど読まないという人でも、芥川龍之介の名前は知っていると思います。

夏になれば、今年のこの本が芥川賞だ、直木賞だとやたらニュースが伝えています。

その芥川賞の元となったのが芥川龍之介です。

日本の小説界でそこまで有名となった芥川龍之介はどのような生涯を送り、またどのような作品を残したのでしょうか。

この記事ではそんな芥川龍之介についてまとめてみました。

芥川龍之介のプロフィール

生誕 1892年3月1日
生誕地 東京都京橋区入船町8丁目
(現在の東京都中央区明石町)
名前 芥川龍之介
号は澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)
俳号は我鬼
没年 1927年7月24日(35歳没)

芥川龍之介は何をした人?

芥川家の養子へ

芥川龍之介は牛乳製造販売業をしていた父・新原敏三と母・フクの間に長男として生まれました。

しかし龍之介が7ヶ月の頃、母のフクが精神に異常をきたしたため、母の実家の芥川家に預けられます。

それから叔母のフキに育てられたのですが、母のフクは龍之介が11歳の時に亡くなってしまいました。

そのため叔父の芥川通章の養子となり、そこから芥川の性を名乗るようになったのです。

芥川家は旧家の氏族で、江戸時代は代々徳川家に仕えた奥坊主の家柄でした。

奥坊主とは城内の茶室を管理し、将軍や大名らに茶の接待をする役職の人です。

成績優秀な龍之介

龍之介は成績が優秀だったため、東京府立第三中学校を卒業の際に「多年成績優秀者」の賞状を受け、第一高等学校第一部乙類に入学しました。

その頃は中学の成績優秀者は無試験で高等学校に入学できたのです。

同期入学者には、久米正雄や菊池寛、井川恭(のちの後藤恭)などがいました。

寄宿寮に入った龍之介は同室の井川と生涯の親友となります。

龍之介は3年間井川に成績で一度も勝てませんでしたが。

高等学校を卒業し、1913年龍之介は東京帝国大学文科大学英文科へ進学しました。

まさむね
まさむね
このクラスは一学年に数人しか合格しない難関だったと言います。

小説家へ

1914年、高校の同期だった久米正雄や菊池寛と同人誌「新思潮」(第3次)を刊行しました。

龍之介は「柳川隆之助」の名前でアナトール・フランスの「バルタザアル」やイエーツの「春の心臓」の和訳を寄稿し、処女小説「老年」を発表しています。

これが作家活動の始まりでした。

この頃龍之介は青山女学院の吉田弥生という女性と親しくなり結婚を考えるようになっていましたが、芥川家の猛反対によって断念しています。

そして1915年10月「羅生門」を「芥川龍之介」の名前で帝國文学に発表したのでした。

作家「芥川龍之介」の誕生です。

1916年、第4次「新思潮」の創刊号に掲載した「鼻」夏目漱石に絶賛されています。

東京帝国大学を20人中2番で卒業した龍之介は海軍機関学校英語教官の嘱託教官となり、その傍らで執筆を続け1917年5月には初の短編集「羅生門」を刊行し、その後も意欲的に短編作品を書き続け、11月には「煙草と悪魔」を発刊しました。

1919年海軍機関学校を辞め大阪毎日新聞社に入社し、創作に専念し子供にもわかりやすい「蜘蛛の糸」を書いています。

その年の3月には友人の山本喜誉司の姉の娘である塚本文と結婚しました。

1921年には中国へ行き北京で中華民国の学者であり思想家である胡適(こせき)と会い、検閲のことなどについて語り合い帰国後「上海遊記」などの紀行文を書いています。

精神的な心の衰え

この旅行後から龍之介は心身が衰え始め、神経衰弱、腸カタルなどになりました。

徐々に作品数が減っていきますが、私小説的な傾向の作品が現れ、これは晩年の「歯車」や「河童」などへと繋がっていくのでした。

1920年には長男・芥川比呂志が、1922年に次男・芥川多加志、1925年には三男の芥川也寸志が誕生しています。

1926年胃潰瘍や神経衰弱、不眠症が酷くなり湯河原で療養しました。

妻の文は弟の療養のため鵠沼(くげぬま)の実家の別荘に移住したので、龍之介も鵠沼の旅館東屋に滞在して妻子を呼び寄せました。

この間「家を借りてから」や「鵠沼雑記」、「点鬼簿」を書き終えています。

この鵠沼滞在の間に堀辰雄や斎藤茂吉、川端康成などの訪問を受けています。

追い詰められた最期

1927年、義兄の西川豊が放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられ鉄道自殺してしまいました。

そのせいで龍之介は西川の残した借金や家族の面倒を見なければならない羽目に陥ったのです。

この頃物語の面白さを主張する谷崎潤一郎と対立し、龍之介は物語の面白さが小説を決めるものではないと反論し、話らしい話のない純粋な小説の名手として志賀直哉を推しています。

一方で龍之介の秘書を務めていた平松麻素子と帝国ホテルで心中未遂事件を起こしています。

まさむね
まさむね
精神的に病んでいた龍之介には、私生活のことや文壇でのことが重荷になったのでしょうか。

そしてその年7月24日未明に「続西方の人」を書き上げた後に、斎藤茂吉からもらっていた睡眠薬を飲んで自殺しました。

享年36年の短い生涯でした。

芥川龍之介のエピソード・逸話

龍之介の自殺

芥川龍之介の自殺は話題となり、彼を崇拝する者たちが次々に後追い自殺を図るほどでした。

龍之介の自殺は致死量の睡眠薬による服毒自殺とされていますが、龍之介の主治医だった下島勲の日記などから青酸カリによる服毒自殺だとも言われています。

妻の文は亡き夫に「お父さん、良かったですね」と言ったといいます。

まさむね
まさむね
よほど龍之介が苦しんでいる姿を見ていたのでしょう。

妻も相当に辛かったでしょうけど気丈な女性だったことと、龍之介を愛していたことが伺われますね。

龍之介の子供達

芥川龍之介の子供達の名前は、菊池寛の「寛」から比呂志、小穴隆一の「隆」から多加志、後藤恭の「恭」から也寸志とつけたそうです。

比呂志は俳優となり、多加志は戦争で亡くなっています。

也寸志は作曲家となりました。

まさむね
まさむね
戦死した多加志はもっとも文学志向が強かったと言いますから、生きていたら有名な作家に名を連ねていたかもしれませんね。

夏目漱石との師弟愛

芥川龍之介の実力を見だしてくれた夏目漱石を師と呼び、終生尊敬し続けました。

漱石の葬儀の時も受付を務め弔問に来た森鴎外の名刺をもらっています。

大の風呂嫌い

芥川龍之介は大の風呂嫌いで、滅多に風呂に入らなかったそうです。

まさむね
まさむね
湯河原に療養に行った時も入らなかったのでしょうか?

もったいない気がしますが。

3行でわかる芥川龍之介のまとめ

まとめ
  • 有名な小説家で「鼻」や「羅生門」を書き、童話としても「蜘蛛の糸」などを書いた。
  • 成績優秀で執筆をしながら、有名大学を2番で卒業した。
  • 心を病んで、最期は自殺をした。

偉大な小説家 芥川龍之介の生涯を見てきました。

立派な成績でありながら、その傍らで見事な小説を書いた人でしたね。

晩年は苦労し、その心が疲弊してしまった悲しい最期でしたが、彼の残した小説は今も私たちを魅了してやみません。

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