戦国時代に大名に仕える武将たちにも様々な性格の人物が存在していました。
信念が強い者、優柔不断な者、臆病な者など様々だったと思います。
この記事で取り上げる荒木村重という武将は表面的には強い武将ではありましたが、内面的にはとても臆病な一面を持ち、その臆病さが自らの築き上げてきたものを失う結果となりました。
では、村重がどのような事をした人物なのかみてゆきたいと思います。
目次
荒木村重のプロフィール
- 名前:荒木村重(あらきむらしげ)
- 別名・官位:十二郎、道糞、道薫、摂津守
- 享年:52歳(1535~1586)
- 実力を認められ織田信長に仕えるも、謀反を起こしたのち一族を見捨てて逃亡する。
荒木村重は何をした人?
荒木村重は織田信長に仕えて反旗を翻した武将として知られていますが、その村重を有名にしたのは一族や家臣たちを置き去りにして自らが逃亡してしまったために残されたものが処刑されたという悲しいエピソードではないでしょうか。
この悲惨な事件を起こすきっかけとなった村重の心変わりとなった要因は詳しくはわかっていませんが、残されたエピソードから村重の性格が見えてくると思います。
村重の成り上がりや信長・秀吉にかかわるエピソードを交えながら以下で詳しく人物像を見てゆきます。
荒木村重のエピソード・逸話
織田信長に仕え摂津一国を任せられる
もともとは摂津国(現大阪府北部)の池田氏や三好氏に仕える家臣でしたが、織田信長が近畿地方に勢力を広げる過程でその性格を気に入られて織田家の家臣となりました。
後に、かつて仕えていた池田氏を自らの家臣としたので、荒木村重も下剋上によって成り上がった戦国武将の一人と言えるでしょう。
村重は摂津国の全域を信長から任される事となり、その信頼されていた大きさが伺えます。
信長の刀に刺さった餅を食べる
『絵本太閤記』にあるエピソードなので史実かどうかわかりませんが、村重が信長に謁見した時に信長が刀に差した餅を村重に差し出したという話があります。
これに対して村重は従順に差し出された餅を一口で食べて、餅で汚れた刀の切っ先を自らの服の袖でキレイに拭いて返したと言われています。
この行動を信長に賞賛されて摂津の国を荒木村重に任せたという事です。
少なからず村重の人間性が後世へ伝えられた証拠なのかもしれません。
信長に反旗をひるがえす
織田氏が中国地方に向けて勢力を拡大する中、1578年に村重は突如信長に対して反乱を起こしました。
羽柴秀吉は中国地方の最前線で戦っていたので、背後を村重にとられる形となったのです。
これは、村重が秀吉と戦っていた毛利氏と繋がっていたとも、大阪の本願寺勢力と繋がっていたとも、信長に対する積年の恨みであったとも言われています。
それだけ行動力があり、諸勢力とも接点を持つ事のできる人物だったのではないでしょうか。
説得しに来た黒田官兵衛を幽閉
摂津国の有岡城に立てこもった村重ですが、そんな村重を説得するために羽柴秀吉から派遣された軍師の黒田官兵衛を捉えて牢屋に約1年間幽閉します。
有岡城の降伏とともに黒田官兵衛は解放されましたが、牢屋での生活で足を悪くしたためにこれ以降は杖を使い足を引きずって生活したと言われています。
自らは脱走し残された一族は皆殺しとなる
信長に反旗を翻してから約1年が経過すると村重も次第に不利となってきました。
信長からは降伏するならば命は助けようと言われていましたが、村重は家族や家臣たちを居城に残したまま逃げ出してしまいました。
このため、有岡城に残っていた女性たちや一族の家族など100人を超す人々が捉えられて見せしめのために処刑されてしまいました。
この話は様々な歴史書などでも取り上げられており、悲劇の話として語り継がれています。
毛利家に出奔し茶人として活躍するも……
有岡城を抜け出した村重はのちに毛利氏の元へ亡命します。
その後、信長が本能寺で亡くなると安心したのか境に移り住み、千利休と親交を持ち茶人として活躍します。
その後、秀吉の悪口を言った事が広まってしまうと、処刑を恐れて出家して荒木道薫と名乗りました。
4行でわかる荒木村重のまとめ
- 摂津国池田氏の家臣であったが信長に気に入られて家臣になる。
- 信長に反旗を翻して謀反を起こし、説得にあたった黒田官兵衛を幽閉する。
- 居城に一族を残したまま自らが逃亡したため、一族は皆殺しになる。
- 毛利氏の元に身を寄せ、のちに堺で茶人として活躍する。
荒木村重は小さな戦国武将に仕える一介の武将にすぎませんでしたが、織田信長に見いだされて取り立てられたおかげで摂津国を治めるという重要なポストを与えられました。
刀に刺さった餅を喰らうというようなエピソードや、元々仕えていた殿様を下剋上ののちに自らの家臣にするというような豪快なイメージがある一方で、信長や秀吉に処刑される可能性が生じると逃げ出して、家族や一族の命をなげうってまで自らの保身に走ってしまうという臆病な一面が垣間見られます。
若い頃や信長に認められた頃は追い風からイケイケな雰囲気があったのかもしれませんが、ある程度の支配権や裁量権が与えられるようになると選択を間違えてしまい、窮地に立たされることが多くあったようです。
その点では上に立つ立場の人物としての器ではなかったのかもしれません。