戦国時代

黒田官兵衛ってどんな人?わかりやすく簡単にまとめてみました

黒田官兵衛

戦国時代、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康の三英傑全てに仕えた軍師といえば黒田官兵衛だけでしょう。

彼らに愛された一方、その知恵者ぶりから逆に恐れられた黒田官兵衛でした。

戦においては切れ者の官兵衛でしたが、妻子をとても大事にした暖かい人間味のあるところが現代の人々に親しまれている所以でしょう。

この記事では、そんな黒田官兵衛の生涯を追ってみることにしましょう。

黒田官兵衛のプロフィール

  • 本名 黒田孝高(くろだ よしたか)
  • 生誕 1546年
  • 生誕地 播磨国姫路
  • 死没 1604年(享年59歳)

黒田官兵衛は何をした人?

黒田官兵衛は戦国時代から江戸時代前期にかけての武将です。

まさむね
まさむね
本名は黒田孝高と言いますが、通称の官兵衛の方がみなさんに馴染みが深いと思いますので、この記事では「官兵衛」と呼ぶことにします。

1546年黒田職隆(もとたか)の嫡男として生まれました。

幼名は小寺万吉と言いました。

この頃父の職隆は小寺政職(まさもと)に仕えており、小寺の姓をもらい受けていました。
 
1559年官兵衛は小寺政職の養女だった母を病気で亡くします。

その悲しみから逃れるように学問に夢中になったのでした。

姫路城代となる

1561年官兵衛は小寺政職に仕えます。

そして翌年父と共に土豪を征伐し初陣を飾りました。

1567年父から家督と役職を引き継ぎました。

それと同時に小寺政職の姪にあたる光(てる)を正室として迎え、姫路城代となりました。

官兵衛はとても愛妻家で側室を持とうとはしませんでした。

信長・秀吉に仕える

織田信長が長篠の戦いで武田勝頼を破ったことから、信長の才能を高く評価していた官兵衛は、主君である小寺政職に信長に臣従することを勧めました。

官兵衛は羽柴秀吉の仲介で岐阜城で信長に拝謁し、名刀「圧切長谷部(へしきりはせべ)」を与えられたのでした。

信長と敵対する毛利氏は5000の兵で英賀(あが)を攻めてきました。

官兵衛はこれを500の兵で打ち破りました。

この後官兵衛は嫡男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として信長に渡しています。

信貴山城の戦いで、松永久秀を倒した信長は秀吉を播磨に進駐させます。

この時官兵衛は、姫路城本丸を秀吉に明け渡し、自分は二の丸に居住しました。

この頃から秀吉の参謀として活躍するようになったのです。

監禁されるも助けられる

1578年荒木村重が謀反を起こします。

主君の小寺政職も村重に従おうとしたため、官兵衛は単身村重のいる有岡城に説得に行きました。

しかし逆に捕らえられ牢に監禁されてしまいました。

この時信長は官兵衛が裏切ったものと誤解し、松寿丸を殺すように秀吉に命じたのですが、もう一人の優れた軍師・竹中半兵衛の機転で松寿丸を匿ったのでした。

約1年後有岡城は開城となり、官兵衛は救出されます。

荒木村重も逃亡し、小寺政職は織田信忠によって討伐され大名としての小寺家は滅びてしまいました。

この後官兵衛は黒田の姓を名乗るようになります。

数々の戦いで活躍

1582年官兵衛は秀吉と備中高松城の攻略をしていましたが、そこへ信長が本能寺で明智光秀に討たれたという知らせが届きます。

官兵衛は秀吉に、毛利輝元と和睦して急ぎ戻って光秀を討つようにいい中国大返しを成功させたのです。

1583年秀吉と柴田勝家の賤が岳の戦いでは、大阪城を守り抜きました。

翌年の小牧長久手の戦いでは官兵衛は大阪城で留守役を務めましたが、息子の黒田長政が岸和田の戦いで活躍しています。

キリスト教に入信

1585年ごろ官兵衛は、高山右近や蒲生氏郷らの勧めでキリスト教に入信し、「シメオン」という洗礼名を授かっています。

1586年従五位下・勘解由次官に叙任された官兵衛は、九州征伐に行き島津義久との戦いにも勝っています。

九州平定後豊前国の6郡、約12万石を与えられ中津城を築城しました。

秀吉・家康の元で活躍

1589年官兵衛は家督を長政に譲り、秀吉の側近として仕えます。

1592年からの朝鮮出兵では加藤清正らの暴走をうまく止められず、病気を理由に帰国します。

官兵衛はその罰として剃髪しここから「黒田如水」と名乗ります。

1598年秀吉が亡くなります。

1600年に徳川家康石田三成の間で関ヶ原の戦いが起こりました。

黒田長政は徳川方として活躍し、中津にいた官兵衛も家康に味方していました。

関ヶ原の戦いは1日で終わりましたが、官兵衛は九州制圧に力を注いでいました。

島津討伐の途中、家康と島津義久が和睦したため完全な制圧はできませんでした。

この後官兵衛は政治に関わることをやめ、隠居生活に入りました。

1604年京都伏見藩邸で官兵衛は息を引き取りました。

享年59歳でした。

黒田官兵衛のエピソード・逸話

官兵衛の祖父

もともと黒田家は近江出身で室町幕府の評定衆だったのですが、将軍の怒りに触れ近江を追われ備前国にたどり着いたのでした。

まさむね
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その時黒田家伝来の「玲珠膏(れいしゅこう)」という目薬を売って生計を立てていたそうです。

官兵衛の祖父・黒田重隆の代に播磨国に移り、広峯神社の神官が全国を渡り歩く際にお札とセットで目薬を売ってもらうようになり財をなしたといいます。

そしてたちまち土豪として成長しました。

この後小寺家に使えるようになり重隆は筆頭家老にまでなり姫路城の城代になりました。

軍師としての心構え

官兵衛は幼少期から浄土宗の僧侶・円満から学問を学びました。

ある日円満は官兵衛に「軍師 張良」の話をしました。

まさむね
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張良とは前漢の初代皇帝・劉邦に仕えた軍師です。

劉邦は戦が上手でいつも勝利していたのではなく、有能な参謀である張良がいたからなのです。

そして劉邦の欠点を張良が指摘し、劉邦もそれを素直に認め張良の意見をよく聞いたのです。

その上張良は無欲で誠実でした。

欲深いものは必ず身を滅ぼすものです。

円満の話を聞いて官兵衛はより一層武芸や学問に力を入れたといいます。

まさむね
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このことが軍師・官兵衛を生むきっかけとなったのかもしれません。

4行でわかる黒田官兵衛のまとめ

まとめ
  • 三英傑に仕えた名軍師
  • キリシタンだった
  • とても妻を大事にした
  • 多くの戦で采配を振るった

関ヶ原の戦いが長引いていたら、官兵衛は九州を平定していたかもしれません。

それは官兵衛にも天下を取るチャンスがあったということではないでしょうか。

しかし残念なことに運命は家康に味方しました。

三英傑に仕え、采配を振るってきた黒田官兵衛にも天下取りの夢があったのかもしれませんね。

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