戦国時代

島津義久は何した人?逸話やエピソードをまとめてみました

島津義久

九州地方では大友氏や、龍造寺氏が大きな勢力を持つ中、南の地方で実力のある大名家がいました。

それが島津家です。

その中でも第16代当主の島津義久(しまづ よしひさ)は、優れた弟たちと島津家の盤石な礎を築いた人です。

島津といえば弟の島津義弘を頭に浮かべる人が多いでしょう。

なんと言っても「鬼島津」と呼ばれた人ですから。

この記事では、その「鬼島津」の兄、義久について彼の生涯を見ていくことにしましょう。

彼もまた「鬼」だったのでしょうか。

島津義久のプロフィール

  • 生誕 1533年
  • 生誕地 伊作城(鹿児島県日置市)
  • 幼名 虎寿丸(とらじゅまる)
  • 死没 1611年(享年79歳)

島津義久は何をした人?

島津義久は第15代当主島津貴久の嫡男として生まれました。

弟には義弘、歳久、家久の優秀な3人がいます。

二男の義弘は「鬼島津」と呼ばれた猛将で、三男の歳久は武将としてだけではなく兄を気遣う優しさも持ち合わせていました。

四男の家久も義弘に劣らない強者でした。

義久は元服後に祖父と同じく忠良と名乗りましたが、足利義輝将軍から1字もらい義龍とし、その後義久と改名しています。

通称は又三郎でした。

三州統一

1554年薩摩、大隅の国衆の間で起きた岩剣城攻めで、義久は初陣を果たしました。

その後父とともに薩摩統一に向けて戦うことになります。

1566年には32歳で家督を相続し、4年後には薩摩統一を果たしています。

そしてその6年後には三州の統一を成し遂げました。

まさむね
まさむね
三州とは薩摩・大隅・日向のことです。

三州統一の際、日向国の伊東義祐が豊後国の大友宗麟を頼って亡命します。

耳川の戦い

1578年大友宗麟は大軍を率いて日向国に侵攻して行きました。

島津勢は最初家久を出陣させましたが、高城でにらみ合いの状態が続きました。

そこで島津義久は2万の軍勢を率いて出陣。

まさむね
まさむね
大友宗麟も島津義久もあまり自国から出て戦うことは少なかったようなので、両人とも珍しく出陣してきていたのですね。

最もこの時宗麟は前線には来ていませんが。

大友勢は宗麟が前線にいないため団結力に欠け、高城川を無秩序に渡って攻めていき島津の「釣り野伏せ」という策によって次々と討たれて行きました。

これを「耳川の戦い」と言い、大友軍の軍師・角隈石宗など主だった武将を多く失うことになったのでした。

惣無事令

耳川の戦いで大友氏が衰退すると、肥前国の龍造寺隆信が台頭してきました。

1584年島津軍は龍造寺軍を攻めます。

沖田畷(おきたなわて)の戦いです。

この戦いには弟の家久を出陣させました。

そした5000の兵で25000の龍造寺軍に見事勝利しました。

まさむね
まさむね
さすが島津の兄弟です。

前線に出陣した家久の力と、そこに家久を送った義久の読み勝ちだったのでしょう。

この後肥後や筑前は島津義弘によって平定されました。

もう少しで島津家は九州を平定できるところまで来ていました。

しかし、豊後国の大友宗麟を叩けばというところで、なんと宗麟が豊臣秀吉に救援を求めたのでした。

秀吉は「惣無事令(そうぶじれい)」を出して島津家と大友家の戦いをやめさせました。

まさむね
まさむね
「惣無事令」とは大名同士が勝手に喧嘩しちゃダメですよというものでした。

ところが島津家はこの命令に背き、そのまま大友宗麟の城を包囲し追い詰めたのでした。

この直後10万を超える豊臣の軍勢が到着しました。

さすがの義弘や家久も豊臣軍には敵わず、薩摩へと退却していきました。

これまでに島津が平定した九州の各地は豊臣の手に落ち、薩摩も危険な状態となってしまったのです。

これを回避するために、義久は出家することにしました。

そして「龍伯」と名乗りました。

その姿で秀吉と対面し、義久は降伏をしたのです。

義弘たち弟は不満でしたが、義久が説得しました。

まさむね
まさむね
あと一歩のところで九州平定が夢と消えたのですから義弘たちの悔しさはいかばかりだったでしょう。

豊臣秀吉は島津義久より、弟の義弘の方をかっており羽柴の名字と豊臣の姓の両方を与えています。

義久は羽柴の名字をもらったのみでした。

しかし三男の歳久は不満を持ち続けていました。

朝鮮出兵にも体調不良を理由に参加していません。

1592年島津の家臣が一気を起こしその中に歳久の家臣がいたため秀吉の逆鱗に触れ、歳久は自害させられてしまいました。

関ケ原の戦い

1600年関ヶ原の戦いでは、義弘と甥の豊久が西軍に参加していました。

しかし兵は動かさず、西軍不利と見たとき東軍の中を中央突破し帰国しました。

この時の退き口を「島津の退き口」と言い、何人かが犠牲になりながら本陣を先へ逃がし、また次の兵が犠牲になりながら主人を逃すというものでした。

この退き口で甥の島津豊久は亡くなっています。

関ヶ原で西軍に味方したことで義久は義弘を蟄居させ、義久の後継者の忠恒が家康の元へ頭を下げに行き、島津家は許されたのでした。

忠恒は義弘の子で義久は養子にしていたのでした。

1602年義久は忠恒に家督を譲ります。

そして1611年この世を去りました。

享年79歳でした。

島津義久のエピソード・逸話

母親違い

島津4兄弟のうち、末弟の家久は正室の子ではありませんでした。

ある日兄弟で馬を見ていたとき、歳久が義久と義弘に「馬の毛色は大体が母馬に似ています。人間も同じでしょう」と言うと、義久は「そういうこともあるだろうが、父馬に似ることもあるし、人間には徳というものがある。学問をして磨けば、不肖の父母よりも優れ、徳を磨かなければ父母に劣る人間となるだろう」と言いました。

これを聞いた家久は学問と武芸に励み4兄弟の才能に優劣はなくなったと言います。

家康が感心した

徳川家康は義久に興味があり、島津豊久を大阪に招き耳川の戦いの顛末を聞きました。

家康は義久のことを聞いていたより恐ろしい大将だと言い、古の武将楠木正成に勝るとも劣らない采配ぶりだと賞賛しました。

4行でわかる島津義久のまとめ

まとめ
  • 耳川で勝利した
  • 九州平定まであと一歩
  • 弟たちをよくまとめた
  • 秀吉からも家康からも島津家を守った

見事な采配ぶりで島津家をまもって来た島津義久の生涯をみて来ました。

幼少期は物静かでおとなしい少年だったそうですが、大人になってからの義久は立派な武将でしたね。

九州をあと一歩で平定できなかったことが、悔しい島津家ですがその実力は全国を平定した豊臣秀吉や、徳川家康に相当するほどだということが十分わかります。

残念ながら義久には男子がなく、養子にした忠恒の子孫が後の島津家を引っ張って行ったのでした。

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