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明治時代

太宰治はどんな人?作品・死因・身長など波乱の生涯をまとめました

太宰治

太宰治は、日本のプロレタリア文学に影響され、「斜陽」や「人間失格」などを書いた有名な作家です。

「走れメロス」を書いた人だと言えば、小学生のみなさんも知っている人は多いのではないでしょうか。

しかしその有名な作家人生の裏では、薬物中毒や自殺未遂などを繰り返し、多くの女性と恋に落ちた人でした。

太宰治という1人の作家はいったいどのような人だったのでしょうか。

この記事では太宰治の生涯と生き様についてまとめてみました。

太宰治のプロフィール

  • 生誕:1909年6月19日
  • 生誕地:青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)
  • 名前:津島 修治
  • 死没:1948年3月13日(38歳没)

太宰治は何をした人?

裕福な家庭に育つ

太宰治は県下有数の大地主だった父・津島源右衛門と母・たねの11人いる子供の中で10番目に生まれた六男でした。

父は県会議員や衆議院議員、貴族院議員などを務めた名士で、津島家は「金木の殿様」と呼ばれるほどでした。

しかし母親が体が弱かったため生まれてからは1年ほど乳母に、その後3歳から小学校入学までは叔母に育てられました。

まさむね
まさむね
幼い頃なのに父親も忙しい人でしたし、実の母親の愛をも知らずに育った修治少年だったのですね。

1923年に父が癌で亡くなると、修治は青森中学校に入学し実家を出て下宿生活を送りました。

その成績は優秀で卒業の時は148名中4番目だったそうです。

学生時代から芥川龍之介や、菊池寛、志賀直哉、室生犀星などを愛読し、特に井伏鱒二の「幽門(山椒魚)」には興奮を覚えたほどでした。

そして小説家を志すようになり、「最後の太閤」を書き、また友人と同人誌を発行したりもしました。

1927年には旧制弘前高等学校文科甲類に優秀な成績で入学し、ここでも下宿生活をします。

しかし夏休みに金木の実家に帰っているときに、芥川龍之介の自殺を知りショックを受けた彼は下宿に戻りしばらく引きこもってしまいました。

この頃青森の芸妓・小山初代と知り合っています。

ここから太宰の女性遍歴が始まるのです。

乱れ始める生活

翌年同人誌「細胞文芸」を発行し、プロレタリア文学の影響を受けた「無限奈落」という小説を辻島修二というペンネームで発表しましたが、家の反対を受け連載は1回で終わってしまいます。

1929年に「学生群」という小説を書き、改造社の懸賞小説に応募しましたが落選してしまい、鎮静睡眠作用のあるカルモチンという注射で初めての自殺を図りますが、未遂に終わっています。

1930年に東京帝国大学文学部仏文学科へ進みますが、講義についていけず美学科への転科を考えたりしていたところ、小説家になるべく井伏鱒二の弟子になることができました。

そして小山初代と結婚するといい、当然芸妓との結婚は家から反対され、大学卒業までは120円の仕送りはするが、家を除籍になり財産分与も与えられないはめになりました。

家を除籍になった10日後バーの女給の田部シメ子と鎌倉の海で再びカルモチン自殺を図り、シメ子だけ死に自分は生き残ってしまいました。

その後初代と仮祝言を挙げていますが、実際には入籍はしませんでした。

まさむね
まさむね
他の女性と心中しようとしたのに、一緒になろうと考えた初代は心から修治に想いを寄せていたのでしょう。

作家デビュー

1933年「サンデー東奥」に太宰治として「列車」を発表しました。

まさむね
まさむね
作家太宰治の誕生ですね。

しかしそれから「逆行」などを書きましたが、大学5年目になっており、実家からの仕送りが打ち切られることを案じ、都新聞社(現在の東京新聞)の入社試験を受けました。

しかし結果は不合格となり、鎌倉で3度目の自殺を図ります。

この時は首吊り自殺だったのですが、やはり未遂で済んでいます。

翌月太宰は腹膜炎の手術を受けましたが、この入院中に鎮痛薬として受けたパビナールの注射の依存症となってしまいました。

第1回の芥川賞の候補に太宰の「逆行」が選ばれましたが、残念ながら落選しています。

第2回の芥川賞を前に、作家の佐藤春夫は太宰のパビナール依存のことを心配し、入院治療を受けさせましたが、その年の芥川賞の受賞作はありませんでした。

第3回の芥川賞を目指して意欲的に「晩年」などを刊行しますが、過去に賞の候補に上がったものは選考対象から除外するという規定が設けられたため、候補にすらなることができませんでした。

太宰はパビナールへの依存がひどくなり多い時には1日に50本を注射するほどで、知人に借金までしていました。

そんな折小山初代が不貞をしていたことがわかり、今度は初代と水上温泉でカルモチン自殺未遂を図りその後初代と離別しました。

変わらぬ生活と最期

太宰は1938年に石原美知子という女性と見合いをし、結婚を決めます。

この時井伏鱒二にこれまでの生活を反省し、家庭を守ることを約束していました。

結婚した太宰は「女生徒」「走れメロス」などの優れた短編小説を次々に書きます。

1941年に身体検査で徴用を免れた太宰は、この年作家の太田静子に出会います。

彼女はまた太宰の愛人の1人となるのでした。

太宰は「斜陽」を書き上げます。

これには登場人物のモデルとして太田静子が登場しています。

「斜陽」の発刊と前後して太田静子は太宰の子供を産んでいます。

終戦後疎開先の実家津島家から東京に戻ると、「パンドラの匣」を連載しました。

1947年に美容師の山崎富栄と出会っています。

この人も太宰の愛人になる人です。

新潮社の野原一夫は太宰が富栄の部屋で大量に喀血しているのを目撃しましたが、富栄は平然と手当てをしていたのでした。

太宰は1948年には「人間失格」「桜桃」などを書きました。

富栄は太宰の愛人兼秘書のような存在でした。

太宰治は1948年6月13日玉川上水で愛人の山崎富栄と入水自殺をしました。

2人の遺体はくしくも太宰の39回目の誕生日に発見されたと言います。

この心中には色々な説があり、富栄による無理心中だったとか、狂言心中だったとか言われていました。

太宰は下駄を思い切り突っ張った跡があり、手をついて滑り落ちようとするのを止めようとした後もはっきりと残っていたそうです。

太宰にしたら、本気で死ぬつもりはなかったのかもしれませんし、途中で気が変わったのかもしれません。

しかし最後となった小説のタイトルは「グッド・バイ」でしたし、太宰は自身の体調不良のことや、一人息子がダウン症で知能に障害があったことなどを苦にしていたことなど自殺を考える理由はありました。

1998年太宰の50回忌を前に遺族が公開した遺書には、妻・美知子宛に「誰よりも愛していました」と書かれ、「小説を書くのが嫌になったから死ぬのです」と自殺の動機をはっきりと示していました。

まさむね
まさむね
やはり覚悟の上の自殺だったのかもしれません。

太宰治のエピソード・逸話

桜桃忌

太宰治の墓がある東京都三鷹市の禅林寺では太宰の遺体が見つかった6月19日に毎年多くの愛好家が訪れるそうです。

これを「桜桃忌(おうとうき)」と言います。

しかし実家のある金木では「生誕地には生誕を祝う祭りの方がふさわしい」という遺族の要望で1999年から「太宰治生誕祭」と改名されました。

大柄な男性

太宰治は身長が175cmあり、大食漢でした。

湯豆腐が好きで豆腐やから何丁も買っていたそうです。

「豆腐は酒の毒を消す、味噌はタバコの毒を消す」というのが太宰の言い分でした。

左翼運動

太宰治が弘前高等学校に通う頃、左翼運動が高まりを見せており校長の公金無断横領が発覚するとストライキを起こすなど、左翼活動に引き込まれていきました。

太宰自身はストライキにそれほど参加していなかったのですが、プロレタリア文学を真似て「学生群」という小説を書いたりしています。

3行でわかる太宰治のまとめ

まとめ
  • 小説家として活動し、「走れメロス」「人間失格」「斜陽」などの名作を残した。
  • 数々の女性と深い関係にあった。
  • 何度も自殺未遂を繰り返し、最期は愛人と入水自殺。

優れた才能の持ち主なのに、女性にだらしなく、すぐに薬に頼るダメな人だと思われた方も多いでしょう。

しかし、それだけ太宰治の心が繊細であったことが伺われます。

せっかくの才能を39歳で終わらせてしまったのはとても残念なことですね。

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