行基と聞いて、すぐにピンとくる人はあまりいないかもしれません。
教科書に出てくる出来事では、聖武天皇とともに東大寺の大仏建立に携わった、というのが一番印象強いでしょうか。
しかし実際には、行基は時に国家を脅かし、時に国家から協力を迫られるほど、大きな影響力を持った人物なのです。
では、具体的に行基はどのようなことをしたのでしょうか。
また、そのエピソードや逸話は?
簡単にまとめてみました!
目次
行基のプロフィール
- 行基(ぎょうき、ぎょうぎ)668-749。
- 奈良時代の日本の僧。
- 生地 河内国(現・大阪府堺市)
- 寺院 家原寺、東大寺ほか
法相宗を信仰し、人々にその教えを説いて回りました。
行基は何をした人?
行基に関しては、次のものがあります。
- 法相宗
- 国家による布教の弾圧
- 東大寺大仏の建立
以下、詳しく見ていきましょう。
法相宗を信仰
行基が信仰した法相宗は、インドで生まれた思想を受け継ぎ、中国の唐で創始された宗派です。
その教義は、「我々は存在現象の在り方をどのように認識しているのか、一切の存在現象は自分の認識の中にしかないのではないか」というかなり哲学的なものでした。
行基は貧しい人々の救済を目的に、教えを説いて布教を広めていったのです。
国家による布教の弾圧
新たな形の宗教集団を作り近畿地方を中心に布教を進めていく行基は、貧民救済の他に治水や架橋などの社会事業でも活動していきました。
しかし717年、それらの活動が僧尼令(そうにりょう)に違反しているとして、詔により国家からの弾圧を受けてしまいます。
僧尼法とは、簡単に言えば国家を危険にさらさないように僧尼の活動を規制するための法令です。
国家が敵だという思想を広められてしまえば、民衆が国家への敵対心を持ってしまいますからね。
行基の活動が大きくなりすぎたせいか、国家にまで目をつけられてしまったというわけです。
ちなみに、奈良時代に僧尼令を理由に処分を受けたのは行基のみだったということからも、その活動がどれだけ大きく普及していたのかが窺えます。
しかし、行基はそこで諦めません。
たとえ弾圧されようとも、自分の活動は人々の救済のためであると、なおも布教を続けます。
続日本紀によれば、時には数千人から1万人を集めて説教をしているともされていたようです。
そのひたむきな姿勢が功を奏したのか、活動により社会事業に進展があったことや内容が反国家的なものではないと判断されたことなどから、731年には弾圧が緩和され、さらに翌年には国家側が行基へ協力を要請するまでに至りました。
東大寺大仏建立
行基の活動が認可されて以来、国家は逆にその影響力を最大限に活用しようとしていきます。
その一つとして、740年には聖武天皇が行基に近づき、大仏の建立の協力を依頼するようになりました。
743年には東大寺の大仏造営の勧進(寺院や仏像を造るために庶民に寄付を求めること)に起用され、その効果は絶大だったといいます。
その功績から、行基は仏教界における最高位である「大僧正」の位を朝廷より贈られるまでになりました。
なんだか自分勝手なような気もしますが、これも民衆のためになっているのだと行基は判断したのでしょう。
行基のエピソード・逸話
行基のエピソードや逸話としては、以下のものがあります。
救済の対象は階層を問わなかった
困窮者の救済を目的に布教活動をしていた行基ですが、その対象は民衆だけでなく、豪族にも向けられていました。
区別をつけないその姿勢が、多くの人々の心を引き付けたのでしょう。
行基図(古い日本地図)を作成していた
行基の作成したものの一つに、「行基図」と呼ばれる日本地図があります。
実際には行基が作ったのかどうかははっきりとされていませんが、この図は日本地図の原型として用いられ、江戸時代に伊能忠敬などが詳細な日本地図を作り出すまではこの行基図をもとに考えられていたと言われています。
よって、それまでの日本地図はまとめて「行基図」と呼ばれる場合が多いです。
3行でわかる行基のまとめ
- 法相宗を信仰し、困窮者の救済を目的に広く布教活動を行った
- その影響力への危惧から国家は活動の弾圧を行ったが、後に緩和、さらには国家への協力を仰ぐようにまでなった
- 東大寺大仏の建立の際には、民衆からの支持率を利用し寄付を募り、その功績から「大僧正」の位を贈られた
行基の活動はあくまで救済者の救済をしたいがためであり、そこに階級の差などはありませんでした。
人間は誰しもが救われるべきだとするその平等な心が、多くの人々から支持される所以になったわけですね。
国家の弾圧にも負けず、己の信念を貫き通し、遂には「大僧正」の位にまで上り詰めた行基。
そのひたむきな姿勢から我々が学べるものは多そうです。
面白かった!
よくわかんなかった