歴史の教科書で原敬という名前を聞いたことがあるでしょう。
彼は「平民宰相」と呼ばれた政治家でした。
なぜそのように言われていたのでしょうか。
ここでは原敬がどのような宰相だったのか見ていきましょう。
目次
原敬のプロフィール
生誕 | 1856年3月15日 |
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生誕地 | 陸奥国岩手郡本宮村(現在の岩手県盛岡市本宮) |
名前 |
原敬(はら たかし) ※(はら けい)とも呼ばれる 幼名:健次郎 号:一山、逸山 |
死没 | 1921年11月4日(65歳没) |
原敬は何をした人?
生い立ちから戸主になるまで
原敬は盛岡藩士 原直治の次男として生まれました。
原家は盛岡藩の家老職を務めた家柄でした。
生家は戊辰戦争で新政府軍に敵対したことで、盛岡藩は賠償金を支払うこととなり、原家も土地や屋敷を売却し、菓子商売などで生計を立てることになりました。
敬は1872年家が盗難にあったため学費に困り、無料のカトリック神学校に入り、翌年には「ダビデ」の洗礼名を受けています。
1875年敬は戸主として平民籍に編入されました。
生家もすでに士族ではなかったため、戸籍には「士農工商」の「商」と記されています。
しかし敬は誇り高く、いつも自分を卑しくするような態度は取らなかったそうです。
新聞社へ入社
1876年に司法省法学校を受け、2番の成績で合格し在学中も成績は良好でしたが1879年に退校処分にあっています。
これは寄宿舎の待遇改善を求めたことに対する処罰だったそうです。
敬はその年郵便報知新聞社に入社しました。
1881年の明治十四年の政変をきっかけに大隈重信派が新聞社を買収し、犬養毅や尾崎行雄が社に乗り込んできたため、これに反発した敬は社を辞めました。
政治家から首相へ
外務省に入った敬は外交官として務めます。
その後また新聞社へ復帰し1898年には大阪毎日新聞の社長に就任しています。
敬は発行部数を大幅に上げることに成功しました。
そこを伊藤博文の説得で敬は政界へと入っていくのでした。
1900年敬は立憲政友会の初代幹事長や逓信大臣を務めます。
1901年首相として実権を握った桂太郎が組閣し、敬は桂内閣の方針に巡る分裂の危機を防ぎ、松田正久とともに政友会の党務を担いました。
また地方政策では、鉄道敷設などの利益誘導と引き換えに、支持獲得を目指す集票手段を暗殺された星から引き継ぎ、政友会の党勢を拡大しました。
そうやって党内を掌握した敬は、伊東博文らと融和と対決を使い分ける路線をとって党の分裂をしのぎました。
しかし敬の積極主義は「我田引鉄」と呼ばれ、利益誘導型の政治を生み出すことになり、現代につながる日本の政党政治と利益誘導の構造を作り上げることとなりました。
1906年第1次西園寺内閣内務大臣に就任、1911年には第2次西園寺内閣内務大臣を務めるとともに8月から鉄道院総裁になっています。
そして敬は1914年第3次内閣総理大臣となりました。
首相の任務と暗殺
敬は内閣総理大臣が海軍大臣を代行することを提案しました。
陸軍はこれに反対しましたが、陸軍大臣は代行しないという約束で海軍大臣の代行をすることになりました。
また、教育政策では高等教育の拡張に力を入れました。
さらに軍事費にも多額の予算を配分し、1921年の予算は1917年の予算の2倍を超える15億8千万円にまで膨れ上がりました。
敬が首相になる前の民衆の期待は大きいものでしたが、就任後の彼の政策は財閥向けのものでした。
その上、民衆が望んでいた普通選挙法の施行に否定的だったことなどで人々はがっかりしていたのです。
そして1921年11月関西での政友会大会に出席するために東京駅に到着直後、中岡艮一(なかおかこんいち)により殺害されてしまったのでした。
ほぼ即死でした。
原敬のエピソード・逸話
実力のある知事を目指して
敬は内務大臣時代に、藩閥によって任命された当時の都道府県知事を集めてテストを実施しました。
そして東京帝国大学卒の学歴を持つエリートたちに知事たちを変えていきました。
こうして真の実力のあるものを知事にしていったのです。
教育制度
1918年原内閣は「高等諸学校創設及拡張計画」を実施しました。
その内容は官立旧制高等学校10校、官立高等工業学校6校、官立高等農業学校4校、官立高等商業学校7校、外国語学校1校、薬学専門学校1校の新設と、帝国大学4学部の設置、医科大学5校の昇格、商科大学1校の昇格でした。
この計画はほぼ実現され、この教育機関の大半は地方都市に分散設置されました。
また私立大学では1920年に大学令の厳格な要件にも関わらず、慶應義塾大学、早稲田大学、明治大学、法政大学、中央大学、日本大学、國學院大学、同志社大学の旧制大学への昇格が認可され、その後も多くの私立大学が昇格しました。
平民宰相
原敬は盛岡藩の家老の出自でした。
ですから公家出身の総理大臣よりも家柄は良かったのです。
しかし分家して平民となりました。
大概の総理大臣になる人は華族出身でしたから、敬は平民から総理になった平民宰相と呼ばれたのです。
3行でわかる原敬のまとめ
- 第3次内閣総理大臣
- 教育や軍事に力を入れていた
- 平民宰相と呼ばれた
平民宰相と呼ばれた原敬の生涯を見てきました。
新聞社から政治家へなり、いろいろな事業を手がけた人でしたね。
彼が暗殺された時、病床にあった山縣有朋はショックで熱を出し、夢でうなされるほどだったそうです。
そういう人をむざむざ失ってしまったことはとても残念なことですね。
原敬にはもっとやりたいことがあったはずです。
彼が生きていたら、現代はどのようになっていたのでしょうか。
どんな願いを持っていたのですか?