井伊直孝(いいなおたか)はどんな人物だったんでしょうか?
彦根城を築いた人物として知っている方もいるでしょう。
あるいは招き猫との関連で知っている人もいるかもしれません。
この記事では井伊直孝に焦点をあてて、その生涯を探っていきたいと思います。
どんなエピソードがあるのか、ぜひ、最後までお読みください。
目次
井伊直孝のプロフィール
- 生誕 1590年3月16日
- 死没 1659年8月16日
- 享年 70歳
井伊直孝は井伊直政の次男として、駿河で生まれました。
父親の井伊直政は徳川四天王にも数えられる名将です。
また直政は、赤備えの軍団を率いたことでも有名です。
関ケ原の合戦後、近江佐和山18万石を与えられた直政は、戦後処理などで抜群の調停力を発揮したようです。
戦争の専門家であるだけではなく、政治力も兼ね備えた優れた人物だったといえるでしょう。
徳川家の中で重要な地位を占めるべく、定められていたといってはいいすぎでしょうか。
父の直政が1602年に42歳の若さで逝去すると、兄の直勝が井伊家の家督を継ぎます。
しかし、病弱な直勝は井伊家をまとめることが困難だったのでしょう。
徳川家康の命令により、直勝は分家させられ、井伊家を直孝が継ぐことになりました。
1614年の大坂冬の陣では松平忠直とともに真田幸村の守る真田丸を攻め、散々に打ち破られます。
井伊直孝は当時24歳の若者でした。
多感な若者の心に日本史上最大の攻城戦はどう映ったでしょうか。
不覚をとった冬の陣とはかわって、夏の陣では藤堂高虎とともに先鋒として八尾・若江の戦いで敵将・木村重成を討ち取りました。
大坂城が落城した後、豊臣秀頼と淀君、そして何人かの家臣は蔵にかくれ、徳川家に助命の申し出をしていました。
秀頼らを切腹に追い込むように家康から命令された直孝は、秀頼らとともに蔵に隠れていた大野治長と速水守久に主従ともども自害するよう促します。
その際、早くやらないと鉄砲で撃つ、と脅しもかけました。
ついに覚悟した秀頼主従は自害して果てました。
こういった汚れ仕事もこなした直孝は、戦後、5万石の加増をうけました。
直孝の彦根藩30万石は、譜代大名のなかでも最大級の石高であり、西日本の外様に対する押さえとして重要な役割を果たしました。
彦根藩は、16代にわたり存続し、幕末に大きな影響力をもった井伊直弼は、この井伊家彦根藩の藩主でした。
直孝の大坂の陣以降は、秀忠、家光、家綱と3代にわたって幕府で要職をつとめ、徳川幕府の基礎固めに尽力し、70歳で亡くなるまで大きな影響力をもったのです。
井伊直孝は何をした人?
井伊直孝は豊臣秀吉が天下統一を果たした年に生まれています。
世代としては、戦国時代と江戸時代の変わり目に活躍した人物といえるのではないでしょうか。
戦国と江戸とでは、その環境も大きく変わりました。
戦争の日々と天下泰平との違いです。
まったく違う時代ですから、それぞれの時代に必要とされる能力もまた、まったく異なるはずです。
直孝がどういう仕事をし、どういう立ち位置にいたか、確認しましょう。
家光・家綱を補佐し、幕府の体制を築く
2代将軍徳川秀忠の遺言により、徳川家光の補佐を命じられた直孝は、ほとんど江戸に常駐しながら政務をつとめました。
幕府において重要な政治決断にも参画しています。
たとえば、中国大陸の明王朝が満州の清に滅ぼされたとき(1644年)、明の遺臣である鄭芝龍より、清を倒すための出兵を求められた案件がありました。
幕府内では、当時社会問題化していた浪人を兵として派遣しようという意見もあったようです。
このとき、出兵に猛反対したのが井伊直孝であり、結局、直孝の意見が採用され、出兵の話はなくなりました。
このように、直孝は重要な国家政策の決定にも深く関わるほど、徳川家の信頼を得ていたのです。
大老職の起源
3代将軍家光の時代に土井利勝と酒井忠勝が任じられたのが始まりですが、実質的には井伊直孝が大老職の起源だといわれています。
秀忠が臨終に際して、直孝に家光の後見役を命じたのです。
ちなみに大老職に就任できるのは、井伊家・酒井家・土井家・堀田家の四家のみで、井伊家からは直孝以外4人も大老を出しています。
幕末の井伊直弼も井伊家の出身で大老をつとめたものの一人です。
大老は日常的な業務は行いませんでしたが、政策決定で重要な案件は大老が関与する決まりでした。
井伊直孝のエピソード・逸話
井伊直孝のエピソードを二つほど紹介しましょう。
100万石をめぐって伊達政宗を説得
徳川家康が伊達政宗に与えた100万石のお墨付きという書状があります。
これは関ケ原の合戦時に、政宗が徳川方に味方すれば、100万石相当の領地を与えるという家康の書状です。
この書状は現存しており、仙台市博物館に保存されています。
ところが、この書状にもかかわらず、家康は政宗に100万石の領地を与えることはありませんでした。
政宗は家康死後、3代家光の時代にこの書状をもちだして駄々をこねたのです。
この説得にあたったのが井伊直孝だったといわれています。
ただ、真筆が存在する以上、政宗が書状を大切に保管していたことは確かで、伊達家で代々大事に扱っていたことも伺えます。
このエピソードの興味深いところは、説得にあたったのが井伊直孝であった、という点です。
家光時代といえば、1623年以降ですから、すくなくとも政宗は56歳、直孝は33歳です。
伊達政宗といえば、天下に知らぬもののない奥州の雄です。
しかも、若い時から豊臣秀吉や徳川家康などの天下人と堂々とわたりあい、油断のならない曲者として、また、2代将軍秀忠の信頼の厚い有力者として、その名声たるや推して知るべしでしょう。
そして、戦国の世を日常として生きた最後の世代といってもいいでしょう。
そんな政宗が駄々をこねる、そんな大物である政宗に誰が意見することができるでしょうか。
政宗の先輩格はほとんど死んでしまっていますし、すぐ下の世代では政宗の恐ろしさが身に沁みてわかっている世代です。
そこで、若手の直孝の出番となったのでしょう。
これは象徴的な出来事だと思います。
直孝は、少ないながらも戦場の経験もあります。
また、太平の世に必要な統治の技術にも習熟しつつある世代の代表です。
いわば時代の転換期にあたる人物です。
政宗を直孝が説得するという構図は、時代の移り変わりを象徴しています。
戦国を生きた武将と、太平の政治に責任を持つ新たな世代と。
そう考えると、このエピソードもなかなか興味深いものといえるでしょう。
招き猫の起源に関係している?
招き猫の起源にも井伊直孝が関係しているという説があります。
この手の起源説は眉唾物が多いのですが、招き猫は直孝と関連して語られることが多いので、ここで紹介しておきましょう。
招き猫発祥の地とされる東京都世田谷区にある豪徳寺は、井伊家の菩提寺です。
この豪徳寺が井伊家菩提寺となったいきさつは、鷹狩の際に井伊直孝がこの寺に立ち寄ったことが縁といわれています。
その際、猫が直孝を招くようなしぐさで豪徳寺の門前にいたため、興味をもった直孝が豪徳寺に寄ると、すぐさま豪雨におそわれました。
猫のおかげで雨をしのげたのを喜んだ直孝が豪徳寺に寄進をし、のちに井伊家菩提寺となったということです。
4行でわかる井伊直孝のまとめ
- 戦国から太平への転換期に生きた
- 大老職のはしりだった
- 伊達政宗にガツンと言えた数少ない人物だった
- 招き猫の発祥の寺とゆかりのある人物
井伊直孝は必ずしも有名ではありませんが、着実な仕事をしている人は概して地味なものです。
直孝はまさにその典型といえるでしょう。
戦国から江戸の転換期に生きた直孝の人生は、転換期に生きる人々にとって貴重なサンプルとして尊重されるのではないでしょうか。