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戦国時代

吉川広家はどんな人?関ケ原の戦いのキーマンの逸話に迫る

吉川広家

戦国時代から江戸時代の初期頃にかけて、時の政権を握る中心人物が織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と変化しますが、その過程の中で巨大勢力に従う戦国大名たちは「身の振り方」をとても重要に考えました。

自分が支持するべき勢力の選択を誤ってしまうと、自分たちに従ってきた一族や家臣たちが突然路頭に迷う事にもなりかねないのです。

この記事で紹介する吉川広家も同様に自分の仕える毛利家の事を守りたい一心で豊臣政権と徳川家康との狭間で動き回った人物の一人です。

吉川広家がどのような選択をして家の存続のために奔走したのか見てゆきたいと思います。

吉川広家のプロフィール

  • 本名:吉川広家(きっかわひろいえ)
  • 幼名:才寿丸(さいじゅまる)
  • 別名:吉川経言(きっかわつねのぶ)
  • 享年:65歳(1561年12月7日~1625年10月22日)
  • 安芸国の戦国大名、毛利元就の孫として一族の吉川家に生まれ、主人である毛利家のために尽力した戦国武将。

吉川広家は何をした人?

吉川広家は中国地方で大きな勢力を持った戦国大名である毛利元就の孫として一族である吉川家の三男として誕生しました。

人生で一度も戦に敗れた事がないという父親の吉川元春(きっかわもとはる)に連れられて、わずか9歳で初めて戦場に出たというエピソードも持っています。

その後、父や兄の相次ぐ死により吉川家の当主として毛利家を支える立場となり、豊臣政権から徳川政権へと支配者が変わりつつある時代に、徳川家に付く方が良いという判断をして天下分け目の関ヶ原の戦いの勝敗のカギを握った人物でもあります。

結果的に毛利家は西軍として戦ったため、勢力を大幅に削られる事になりましたが、吉川広家のおかげで浪人になることもなく大名として幕末まで存続する事ができました。

そんな主人想いの吉川広家の残した様々なエピソードをいくつか紹介したいと思います。

吉川広家のエピソード・逸話

毛利家の一族吉川家に生まれ武勇に目覚める

吉川広家は武勇で知られている吉川元春の三男として吉川家に誕生します。

父親の吉川元春は戦国大名毛利元就の二男であり、生涯で一度も戦で負けた事がないというエピソードを持っている武士でした。

ですので、吉川家に生まれるという事は必然的に幼少の頃より武芸に励む事となりました。

そのため、父親に連れられてわずか9歳で初めて戦に出る事になりました。

また、小さい頃は織田信長と同じように「うつけ」と呼ばれており、父親のいう事を聞かないかなりなやんちゃ坊主だったとも言われています。

まさむね
まさむね
そんな性格だったからこそ、たくましく育ち9歳で初陣を飾るというエピソードが残っているのかもしれません。

父と兄の急死のため家督を継ぐ

吉川広家は吉川元春の三男として誕生しましたが、広家が20代半ば頃に父親の元春と兄の元長が相次いで死去したため、急きょ吉川家の家督を継ぐ事になりました。

この時に主人の毛利氏は豊臣秀吉に従っていたので、豊臣政権下でも重要な役割を任じられるようになっていました。

吉川広家自身も豊臣家との繋がりを強く持つために、豊臣秀吉の養女を妻に迎える事となりました。

その結果、秀吉に信頼される事となり、毛利家臣でありながら単独の大名として出雲国や伯耆国、隠岐国を中心とした領地の支配をゆだねられました。

毛利両川体制として

主人である毛利家を支えた言葉として「毛利両川(もうりりょうせん)」という言葉があります。

これは、毛利元就の養子に出された2人の息子の家である吉川家と小早川家という二つの家が本家である毛利家を支えるというものでした。

吉川広家の父である吉川元春と、叔父の小早川隆景がその役割を担い豊臣政権下まで毛利宗家を支えました。

父元春や、叔父の隆景の死後には広家がその任を引き継ぎ、別の一族である毛利秀元(もうりひでもと)とともに新たな毛利両川として主人の家を支える事になりました。

その後、吉川広家の家系と毛利秀元の家系はともに大名として幕末まで残る事となり、主家を支えるという姿も幕末まで継承されることになりました。

毛利家を守るために徳川家康に接近

豊臣秀吉の死後に豊臣政権の五奉行であった石田三成徳川家康の対立が表面化すると全国の大名を二分した戦いが始まる事になりました。

これが関ヶ原の戦いです。

毛利家は豊臣政権下で五大老という役職に就いていたので、豊臣政権側である石田三成に味方する立場を表明し西軍の総大将という立場になりました。

しかし、実際は豊臣政権と徳川家康の戦いではなく、石田三成と反石田三成勢力との戦いでした。

そのため、広家は毛利家が徳川家康に敵対するべきではないと考え、早くから家康に接近し、西軍という立場にいるものの戦闘に参加しないので毛利家を存続させてほしいという約束を取り交わしています。

実際に関ヶ原の戦いに毛利家の軍隊は吉川広家や毛利秀元らが参加しましたが、一切戦力を動かす事はありませんでした。

主人の家を守るため

関ヶ原の合戦後、徳川家康との約束で毛利家を存続するという話でしたが、総大将であった毛利輝元が、大阪城から発行した様々な手紙に名前をたくさん残していた事から、毛利家を取り潰すという決断が下されました。

一方で吉川広家の家は功績があったから大名として残すという事になりました。

これに対して、吉川広家は家康に対して自分は毛利家の家臣でよいので自分のもらうはずだった領地を毛利家に与えて、毛利家という大名を残してほしいと願い出て、家康もこれを了承する事にしました。

特別な藩として幕末まで続く

関ヶ原の合戦後、毛利氏は周防国・長門国(現山口県)に移動する事となり、領地を大きく失う事になりました。

吉川広家は毛利氏の家臣として岩国の領主となりましたが、徳川家康からは大名として扱われていました。

徳川政権下で大名として参勤交代など行う一方で毛利氏の家臣としての立場もあったので、主人である毛利氏より目立つようなことができず、江戸時代を通じて吉川氏はとても窮屈な立場を貫きました。

まさむね
まさむね
主家に対して従順な立場を貫き通した事によって、吉川家の功績が認められて幕末まで家が残ったのではないでしょうか。

広家はその後引退して息子に家督を譲りますが、毛利家の内部で対立が起きそうなときには後ろ盾となり揉め事などの解決に尽力し、毛利家を陰ながら支え続けました。

吉川広家のまとめ

まとめ
  • 毛利両川である吉川家に生まれ、父親とともに戦場を駆けめぐる。
  • 三男でありながら父親や兄の相次ぐ死によって吉川家の家督を相続した。
  • 豊臣秀吉に認められて、主人の毛利氏から独立した領地をもらう。
  • 関ヶ原の戦いでは家康に接近し、毛利家を守ろうと尽力した。
  • 毛利氏の家臣でありながら、徳川家康からは大名としての待遇を受ける。
  • 岩国の発展に尽力し、吉川家は幕末まで存続する。

吉川広家は毛利家の一族である吉川家に生まれ、数奇な運命で父や兄の死を迎える事となり吉川家の家督を相続する事になりました。

吉川家の役目というのは主人である毛利家を支えるという事でした。

豊臣政権下では実力を認められて主人の毛利家とは別に領地を持ちました。

しかし、広家は常に毛利家の行く末を案じ、関ヶ原の戦いでは毛利家が不利にならないように徳川家康に接近し、毛利家が取り潰しの危機になった時には自らの領地を差し出しました。

吉川広家は吉川家の立ち位置を毛利家の家臣という立場を貫き通して、その教えは代々子孫にまで引き継がれる事になりました。

毛利家が間違った判断をしないように根回しを行い、ピンチになった時には自分の持てる力を持って最大限の協力を行うという姿が垣間見られます。

まさむね
まさむね
幕末まで吉川家が自らの立場を貫き通す事ができたのも、広家の個人の考えが家訓として子孫にきちんと伝わったからこそではないでしょうか。

「忠臣」という言葉は江戸時代を通じて様々な場面で見る事ができますが、江戸時代約260年以上も毛利氏の「忠臣」として、吉川家の意志を作り上げた吉川広家の姿には見習うべきものがあると思います。

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