小学校の校庭に必ずと言っていいほど、背中に薪を背負って、歩きながら本を読んでいる少年の銅像があります。
随分勤勉な人なんだなと、この姿を見た人は多いと思います。
この銅像は二宮金次郎という人がモデルになっています。
では二宮金次郎という人はなぜ校庭に銅像として立っているのでしょう。
一体何をした人なのでしょうか。
この記事ではその二宮金次郎について簡単にまとめてみました。
目次
二宮金次郎のプロフィール
- 生誕:1787年9月4日
- 生誕地:相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))
- 名前:二宮尊徳(「そんとく」と呼ばれていますが実際は「たかのり」と言います)・二宮金次郎(本人の署名には金治郎という字を使っています)
- 死没:1856年11月17日(享年70歳)
二宮金次郎は何をした人?
二宮金次郎は江戸時代に多くの農村を救った人で、農村改革の指導者でした。
貧しかった幼少時代
二宮金次郎が生まれた時は彼の家は裕福でしたが、5歳の時に暴風雨による川の決壊で財産である田畑や家を全て流されてしまいました。
その後、父の代わりに堤防工事を務めるのですがまだ12歳だった金次郎は、一人前に仕事ができないことが情けなく、夜には草鞋を作って配っていました。
貧困の中で1800年金次郎の父が亡くなり、その2年後母も後を追うように亡くなってしまいました。
金次郎は伯父に預けられましたが、勉強はやめませんでした。
しかしこの伯父がケチで、金次郎が夜本を読むと油の無駄使いだと文句を言いました。
そこで金次郎は堤防にアブラナを植え、菜種油をとって本を読みました。
その上田植えの際に余った苗を水路に植えて、米1俵もの収穫を得たのでした。
その後親戚の元を回り、余耕を25俵も得て実家に戻り20歳で見事に家を再興させたのでした。
五常講を開始
母の実家が窮地に陥ると資金を援助しました。
その頃金次郎は武家奉公もしていたのですが、小田原藩の家老服部十郎兵衛が服部家の再建を頼んできました。
金次郎は五年計画の節約と財務整理によって千両もあった負債をなくし、その上300両の余剰金まで作ることに成功しました。
これだけのことをやってのけた金次郎でしたが、一切報酬は受け取りませんでした。
この服部家で金次郎は使用人同士が助け合うための「五常講」という金融制度を始めました。
1820年この「五常講」は小田原藩の出資で藩全体の武士を対象とする制度となり、世界初の協同組合、信用組合だと言われています。
桜町を再興
次に小田原藩主大久保家の分家宇津家の旗本知行地の下野国芳賀郡桜町が荒廃しているため、その再興を藩主より命じられました。
藩からの補助金を一切断り、自分の財産と藩からの請負費用で低金利の融資を始めました。
領民に農機具の購入のためにお金を貸し、作物を売った利益を返済に充てていました。
これは農民たちが積極的に生産をする意欲を掻き立てるものでした。
しかし一方で金次郎は藩の武士と領民の反対派によって、桜町領の再建を邪魔されています。
金次郎は成田山新勝寺にこもり断食修行を行い、「一円観」という真理を悟っています。
それは対立者の心を動かすことができるというものでした。
桜町領に戻った金次郎は、金次郎不在の間に領民たちが彼の偉大さを感じたことと、役人が交代したことで、再興事業を円滑に進めることができました。
その結果事業は成功し、年貢米の収穫量は2倍に増えていたのでした。
報徳仕法で各地を再興
金次郎の偉業を聞きつけた諸藩から、再興事業の依頼がたくさん舞い込んできました。
金次郎はその晩年まで各地の再興事業を手がけました。
彼の心には「報徳思想」があったのです。
「報徳思想」とは、父母や兄弟、天地などから受けている恩に感謝しこれに報いるべきだという思想です。
金次郎が行った再興事業はその精神に基づき「報徳仕法」と呼ばれました。
1842年金次郎は幕府に召し抱えられました。
そして日光奉行の配下で事業をしていましたが、病のために倒れ1856年現在の栃木県日光市で亡くなりました。
二宮金次郎のエピソード・逸話
一斗枡の大きさを決めた
小田原時代に役人の不正をなくすために、一斗枡の大きさを統一させました。
これで役人が不正な升を使って年貢をごまかすことを防ぐことができたのでした。
大飢饉を予測!?
桜町時代にナスを食べたところ、夏前なのに秋の味がしたことから、この夏は冷夏になると予想し、村人たちにヒエを大量に植えさせました。
予想通りその年は冷夏で天保の大飢饉が起こりました。
しかし桜町ではヒエがたくさんあったため飢饉を逃れることができたのでした。
しかも残ったヒエを周辺の村に分けることもできたそうです。
小谷三志との出会い
成田山新勝寺にこもっていた頃、日本の宗教家であり社会教育家である小谷三志と出会い、
「農民や役人が自分に従わないと仕事を始めないと思っておられるようですが、一番大切なのは復興ではありませんか」
と言われ、役人や農民を改心させようとしていた自分に気づき、まず復興作業を始めなければと心に決めて桜町に戻ったそうです。
4つの教え
二宮金次郎の教えには、
- 至誠(嘘偽りのない真心のこと)
- 勤労(自分にできる仕事を励むこと)
- 分度(自分の立場や状況にふさわしい生活をすること)
- 推譲(分度によって生じた力やお金を将来や社会に譲ること)
の4つがあります。
日本近代資本主義を形成した!?
ドイツの経済学者であるマックス・ウェーバーは、二宮金次郎が日本近代資本主義の形成を思想面で準備していたのかもしれないと語っている。
4行でわかる二宮金次郎のまとめ
- 幼い頃は貧しくも勉強熱心だった。
- 世界初の協同組合・信用組合である「五常講」を開始した。
- 各地の再興事業を手掛けた。
- 一斗枡の大きさを統一させた。
二宮金次郎は幼い頃から学問に打ち込み、どうすれば社会が良くなるかをいつも考えていた人でした。
金次郎が再興事業を行ったのは9県と北海道の600村に及ぶというからすごいことですね。
二宮金次郎の「報徳思想」は渋沢栄一やトヨタ自動車の創始者・豊田左吉、パナソニック創始者・松下幸之助など近代日本を代表する実業家たちに受け継がれています。
これを読んだら、学校で薪を背負って本を読んでいる少年の像を見かけた時、二宮金次郎の偉業と思想を思い出してくださいね。