南方熊楠(みなかた くまぐす)は日本を代表する博物学者、生物学者であり特に植物学に関しての研究に没頭した人です。
アメリカの科学雑誌「ネイチャー」にも論文を書き、大英博物館にも出入りをして研究を重ねたそうです。
そんな南方熊楠について、どんな人なのか、その生涯はどのようなものだったのか見ていきましょう。
目次
南方熊楠のプロフィール
- 生誕:1867年5月18日
- 生誕地:和歌山城下橋長(現在の和歌山市)
- 名前:南方熊楠
- 死没:1941年12月29日(74歳没)
南方熊楠は何をした人?
学問好きな子供
南方熊楠は金物商と雑貨屋を営む弥兵衛(後に弥右衛門に改名)とすみとの間の次男として生まれました。
この年の生まれに夏目漱石や正岡子規、尾崎紅葉、幸田露伴などの著名な人々がいます。
熊楠は幼少の頃から学問に興味があり、学校に入る前から本を読み大抵の漢字は読めたと言います。
この様子を見て父親はこの子には学問をさせようと思い、熊楠を就学前から寺子屋に通わせた上、漢学塾や心学塾にも行かせました。
1873年雄(おの)小学校に入学、1876年卒業後は鍾秀学校に入学しています。
しかしあまり本を買ってもらえなかった熊楠は「和漢三才図会」105巻を借り、記憶しながら筆写を始めました。
その他にも「本草綱目」「諸国名所図会」「大和本草」なども12歳までに筆写しています。
これから熊楠の学問スタイルが筆写によるものになっていきました。
学生時代
1879年和歌山中学校(現在の和歌山県立桐蔭高校)に入学し、教師の鳥山啓から博物学を勧められています。
1883年和歌山中学校を卒業し、上京して神田の共立学校(現在の開成高校)に入学しました。
この学校は大学予備門(現在の東京大学)への入学を目指しており、主に英語で授業をする受験予備校でした。
この学校で熊楠は高橋是清からも英語を習っています。
1884年大学予備門に入学しました。
熊楠は学業をそっちのけで遺跡の発掘や、菌類の標本採集に明け暮れる日々を送っていました。
その頃父は南方酒造(後の世界一統)を創業しています。
熊楠は1885年1月1日から日記をつけ、1941年12月の死去までほぼ毎日書かれています。
「当世書生気質」や「南総里見八犬伝」を買い、一方で大森貝塚や日光で動植物の化石や鉱物を採取していました。
期末試験で代数のみが合格点に足りなかったため落第となり、熊楠は予備門を中退します。
留学へ
熊楠は心機一転するつもりで、留学を決めます。
1887年サンフランシスコに到着し、ミシガン州農業大学(現在のミシガン州立大学)へ入学しました。
当初商業を学ぶはずでしたが、徐々に商業から離れていき、大学に入らず自分で書籍を買い標本を集め、自然を観察する毎日でした。
1888年寄宿舎での飲酒を禁止されている校則に違反したため自主退学をしました。
その後ミシガン州のアナーバー市に移り、やはり動植物の観察と読書に真剣になっていました。
この間にシカゴの地衣類学者であるウィリアム・ワート・カルキンズに標本作製を学んだのでした。
1989年てんかんの発作を起こしています。
熊楠はひどい癇癪持ちで、自分が夢中になれた自然の中で動植物の観察や菌の収集などが心を落ち着けさせる一つの手段だったのです。
1891年フロリダ州に移り、中国人の江聖聡の食品店で住み込みで働きながら生物調査を続け、新発見の緑藻を科学雑誌「ネイチャー」に発表しました。
1892年イギリスに渡りそこで初めて父の訃報を受け取りました。
1893年「ネイチャー」に初めて論文「極東の星座」を、続けて「動物の保護色に関する中国人の先駆的観察」を寄稿しています。
そしてオーガスタス・ウォラストン・フランクスと知り合い大英博物館にも出入りするようになり、ますます考古学や人類学などの蔵書を読みふけっていたのでした。
その年熊楠は生涯にかけがいのない存在となる土宜法龍(どき ほうりゅう)と出会います。
土宜法龍は仏教学者であり僧侶でもあり、熊楠は彼と仏教を中心とした宗教論や哲学論で熱論を交わしたのです。
その後も「ネイチャー」に論文を書き続けた熊楠ですが、1897年大英博物館で日本人への人種差別を受けたことにより暴力事件を起こし出入り禁止となります。
この年ロンドンに亡命中の孫文と出会い親交を深めました。
1899年仕送りを止められた熊楠は、南ケンジントン博物館で日本書の題号翻訳の仕事を始めました。
そして「N&Q」に初めての投稿の「神童」が掲載されました。
帰国後の研究
1900年10月熊楠は14年ぶりに日本へ帰国し和歌山の円珠院に住みました。
1901年孫文が和歌山に訪れ、旧交を温めています。
翌年熊楠は田辺を永住の地と決めました。
「ネイチャー」への論文を続けながら、シェイクスピアを読み、土宜法龍と手紙で「南方マンダラ」についてその思想を語りました。
そんな研究一辺倒だった熊楠も1906年松枝という女性と結婚しました。
熊楠は40歳になっていました。
その後も読書と研究は続き、「ネイチャー」への論文の寄稿もしていました。
1911年から柳田國男との文通が始まり、1913年には彼が田辺に来て熊楠と面会しています。
1919年「大阪毎日新聞」に7回にわたって「百科学者」と題した熊楠の伝記が掲載されました。
天皇への進講と最期
1926年にはイタリアの菌類学者ブレサドラ大僧正の「菌図譜」の出版に際し、名誉委員に推薦されます。
その年熊楠は品種選定した粘菌標品37属90点を東宮(昭和天皇)に進献したのでした。
1929年紀南行幸の昭和天皇に田辺湾神島沖の戦艦長門艦上で進講しました。
そして粘菌標本を天皇に献上しました。
献上した粘菌は110点にのぼるそうです。
翌年天皇行幸を記念し自詠自筆の記念碑を神島に建立しました。
この頃から熊楠の植物採集が減り始めていきます。
それでも1935年には神島で久邇宮多嘉王と妃・息子に講和しています。
1940年学術功労者として東京での紀元二千六百年記念式典への招待を受けましたが、歩行が不自由なため断っています。
そして1941年萎縮腎のために自宅で亡くなりました。
満74歳でした。
南方熊楠のエピソード・逸話
優れた語学力
熊楠は語学に堪能で、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語、スペイン語は特に優れていた上に、ギリシア語とロシア語もある程度できたそうです。
しかし実際のところはわからず、英語に関しては話したり書いたりもできたことが証明されていますが、他の言語については「何ヶ国語も自由に操った」という伝説に過ぎないと言われています。
父や弟がかりの生活
生涯定職につかなかった熊楠は、父や弟の援助に頼りっぱなしでした。
そんな熊楠を嫌っていた弟は遺産相続の問題で衝突し絶縁状態となってしまいました。
それでも兄の危篤を電報で知るとすぐに駆けつけたのでした。
臨終には間に合わなかったそうですが。
大の猫好き
熊楠は猫好きであったことが有名です。
後に妻となる松枝に会いにいく理由にも猫を利用していたようで、汚れた猫をわざわざ連れて行き、松枝に洗ってもらったと言います。
こう聞くと猫は松枝に会うための道具であったと思われるかもしれませんが、猫好きは本当でロンドンでは布団がわりに猫を抱いていたそうですよ。
3行でわかる南方熊楠のまとめ
- 生物学者としては粘菌の研究を行った
- 生活はほとんど全部親兄弟に頼っていた
- 天皇へ進講をした
研究と読書の虫で一風変わった南方熊楠の生涯を見てきました。
生活は親兄弟に頼りっきりで好きな研究を続けられた熊楠という人はとても幸せな人だと思います。
その上天皇にまで講義をする栄誉まで経験できて、本当に運のいい人ですね。
南方熊楠のことは1990年から1991年に集英社の少年ジャンプに連載もされていましたから、それで彼を知っているという人もいるかもしれませんね。